後編
「あの子、だれ?」
「え、ああ……」
文香は駅の方に視線をやって、つぶやくように聞いた。
一瞬なんのことかわからなかったが、すぐにうららのことだと思い至る。見ていたのか。彼女が去ってから、結構時間が立っていたと思うけれど。
「付き合ってる、彼女」
「ふうん」
文香はつまらなそうにそう言った。それから俺の方に一歩近づき、
「ね、よかったら少し話さない? 私の部屋で」
「いや、それはちょっと」
「じゃあ、律くんの部屋?」
「いやいや。一応彼女持ちだぞ、俺」
「……変わったね、律くん。前は、私の言うことなんでも聞いてくれたのに」
「いや……子どもの時の話だろ。今は違うよ」
文香のことばかり考えていられた子どもの頃とはもう違うのだ。
彼女を今でも魅力的だと思っているし、こうして会えたのなら仲良くやりたいとは思う。けど、やっぱり超えられない一線というものもある。
「私と付き合えなかったから?」
文香は髪をかきあげながら、そう言った。
「いや……まあ、そうだよ」
言葉に詰まるが、結局、肯定した。
「今、俺は」
「お花の臭い」
俺の言葉を遮るように文香は言うと、ふいに俺の頬に手をやり、ずいと顔を寄せた。
「あっ」
と、思う間もなく、おでこ同士がぴったりとくっつく。
キスができるくらいの距離感。
さっき、初めての彼女とキスをした唇にかかる、幼馴染の吐息。
嘘みたいにくらくらする。額から伝わる体温。美しい顔。
心臓が鳴っている。うららと抱き合ったときよりもずっと強く。あっけなく。
目を閉じてしまう。
「キス、されると思った?」
目を開くと、まばたきもせずにこちらを見下す文香がいる。糾弾するみたいに。咎めるように。
「……してほしかったなら、お部屋に入れて」
頬をゆっくりと、焦らされるように撫でられる。その指先はシロップを溶かすマドラーのようで、俺の意識もまた曖昧に染まっていくような感覚があった。
「入れて」
鼻が触れる。文香の長いまつ毛の気配を、まぶたのあたりに感じる。
吐息交じりの艶っぽい声が、俺の頭を犯していく。
「ねえ」
こうして、久しぶりに俺は幼馴染を部屋に招く。
ただし、もうあの頃のように無垢ではないまま。
部屋に入ると、文香は遠慮なくベッドに寝転がる。
「変わらないね、律くんの部屋。まだシールあるんだ。私が貼ったやつ」
長い指先で示す先には、先ほどうららが見つけてニコニコしていた昆虫のシール。
文香の言う通り、これは小学生の頃に彼女が勝手に貼ったものだった。
「…………」
俺は、それに返事をすることができない。
ベッドに無防備に寝転がる文香に見とれてしまっていたからだ。中学生の時もスカートや足を見てドキッとしてしまった。けれども、今はその比ではない。
仰向けに寝転がってもなお、天井に向かって存在を主張する、豊かな胸。制服のシャツが窮屈なのか文香は第二ボタンまで開いており、それでもなお、ふくらみは生地を引き延ばして、どこかなまめかしく照明を浴びている。
長かった髪は、今もなお綺麗に手入れされているようで、無造作にベッドの上に広がった髪の毛が、まるで水墨画で描かれた川のように、美しく流れていた。
スカートから伸びる足も、相変わらず象牙のようにすべすべ白く、しかし象牙などでは決して持ちえない柔らかさと体温という有機的な、いうなれば本能に訴えかける要素を持っており、俺の武骨で毛の生えた足と比べれば、本当に俺たちはおんなじ生き物なのだろうかとさえ思われた。彼女の膝はつるんと黄金比じみた曲線を描いていて、そのすぐ下からつま先までを覆うハイソックスの黒さがより彼女の美しさを際立たせていた。文香は恥じることなく、ドア付近で立ったままの俺に対して足の裏を向けていた。一般に考えれば不浄であり、失礼ともいえる態度だったが、もはや俺にとってはそれすらも、文香が俺に対してどんなに気を使っていないのか、どんなに隠さず見せてくれているのかの証左であるように思われて、その足の裏に対して感謝の念すら抱いてしまいそうだった。
さらに、文香は行儀よく足を閉じるということもせず、その二本の足は投げ出したまま広げていたので、スカートがほんの少しめくれて、下着が見えるのではないかとどうしても考えてしまう。しかし立ったままではどうあがいても見ることはできないだろうし、彼女は寝転がっているのだから、重力で股の間にずり落ちているスカートに阻まれて、多分覗くのであればそれこそ這いつくばるようにしなければ望めないだろう。そう頭ではわかっていても、夢を見てしまうのは、男の性が、文香の魔性か。
だが何よりも俺の心を奪い、見ほれたのは、彼女の美しき顔面そのものだ。
高校生になってから、文香の美貌は幼さを失い、しかしそれは若さというべきものに転化し、かわいらしさを増していた。そしてそれに押されることなく、夏を彩る流水のように涼し気な目元、小さく、真珠のように洗練された輪郭と頬の肌、雄大な雪山の稜線を思わせる、自然で完璧な鼻筋。そして、血色よく濡れた唇。その唇から世界に放たれる声は、北欧の楽器を奏でているような、あるいは夜にさざめく波の音のような、芯の通った穏やかさがあり、その声で語られた言葉をすべて正しくするような残酷な響きがあった。
「ねえ、律くんは、恋愛と友情ならどっちを優先するべきだと思う?」
「……え?」
「私は、友情だと思うの」
ぱたり、とシールを指さしていた腕が重力に従ってベッドに落ちる。
「だって、恋人になるだけなら簡単だけど、友達になるのは難しいんだもの」
一瞬なにを言っているのかわからなかった。
「……どういう意味? 友達よりもさらに特別に好きなのが恋人なんじゃないか?」
「違うよ、律くん。付き合うだけなら、私が律くんにやったように、誘惑すればいい」
言葉に詰まる。だが、それは文香の美貌あってこその話だろう。
「それは、文香が綺麗だからであって、俺は違う」
「そう?」
綺麗、という言葉に何の感動も示さず、文香はゆっくりと身体を起こす。
「じゃあ律くんは、あの彼女さんのこと、私よりも好きになったから付き合ったの?」
じいっと、いつか映画で見た厳格な裁判官みたいに、文香は俺に問いを投げた。
「それは……」
うららと付き合ったのは、告白されたからだ。そのときまで、俺はうららに好意的ではあったけれど、恋愛感情は持ち合わせていなかった。
そして告白されたとき、文香のことは、意図的に考えないようにしていた。
まだ、好きだったから。
「で、でも。文香は俺と付き合わないんだろ。じゃあ、いいじゃないか。俺が誰と付き合っても。付き合ってから、俺はうららのことどんどん好きになったんだから」
「私よりも?」
短く、しかし鋭く文香は言った。
「……そうだよ」
「うそつき」
次の瞬間、文香は立ち上がり、それからまっすぐに俺に手を伸ばす。決して素早い動きではなかったけれど、俺は抵抗というものを忘れてしまったように、文香の動きを見ているまま、気づけば彼女の腕の中に閉じ込められ、顔に胸を押し付けられる恰好になっていた。
「むっ……すぅっ──」
いきなり口をふさがれた息苦しさに、とっさに鼻で大きく息を吸い、その拍子に、彼女の胸元から香る体臭を、思い切り嗅いでしまう。甘さなどなく、少し汗ばむ、肉体の香り。官能的な、それでいて、どうしようもなく懐かしい。
腕が、自然と文香の背中に触れていた。抱きしめるにも満たない、赤子のような手つきで、俺の肉体が、心が、文香を求めて揺れている。
「私よりも、好き?」
文香がわずかに腰を引いて、俺は息苦しさから解放されてしまう。見上げれば、美しい幼馴染の瞳がある。美しい、なんて陳腐な言葉だと思ってしまう。幽霊のようだ。文香の存在は、まるで今生まれたみたいにつるつるしている。でも、俺の中には、たっぷりと、文香との思い出が深く刻まれている。火傷みたいに。
俺は。
「文香が好きだ……。どうしよう……」
情けない泣き言を、文香はまるで神父のように穏やかに聞く。
「大丈夫、それでいいの。ねえ、彼女よりも好きでしょう?」
「……うらら、よりも……」
「へえ。うららちゃんって言うんだ」
文香は踊り終えたスケーターみたいに、満足そうに俺を解放した。その長い足が、かつんと制汗剤の缶を蹴とばす。バラの写真がプリントされているのを見て初めて、うららがそれを置いていったことに気づき、同時に、彼女を裏切ってしまったことが重くのしかかる。
それなのに、後悔の念が浮かばない。
「これ、うららちゃんの?」
文香がすっと目を細めて、迷子みたいにころころと転がる制汗剤をつまみ上げた。
「……んっ」
それを文香は自分のものみたいに、自らの胸元に噴射した。続けて腕を上げて、半そでの制服から、腋に向かって同じように香りをつける。女の子であれば見せたくないであろう仕草が、自らの眼前で行われていることに、優越感がちろりと湧き上がる。
「律くん、おいで」
ベッドに腰掛け、文香は手を差し出す。お姫様みたいに。俺はもはや抵抗するつもりもなく、静かにその足元に傅いて、彼女の手を取る。
「そうじゃなくて……えいっ」
文香は苦笑して、俺の手を引っ張りながら、ベッドに勢いよく倒れこむ。そうして、俺が押し倒したような格好になり、巻き上がる布団の埃に交じって、ローズの香りがする。
「これは、私の匂い。うららちゃんからこの匂いがしたら、律くんは私のことを思い出す。世界で一番、私のことが大好きだって」
「……ふみか」
返事の代わりに、俺は文香にキスをした。
ところが。
文香の唇の感触を味わうことはできなかった。やわらかくも冷たい、文香の指によって。
「だめじゃない、律くん」
子供に言い含めるみたいにしながら、文香の人差し指と中指が、俺の唇を割り広げて口内に侵入し、舌を撫でる。
「幼馴染はキスなんてしないでしょ?」
「ふひは……!」
仕置きするみたいに、文香が俺の舌を引っ張り、つねる。その拍子に、唾液が文香の頬に垂れるが、彼女は眉一つ動かさない。
「それは、うららちゃんとやって」
「ふぇ……?」
「付き合ってるんでしょ?」
お前が、それを言うのか。
俺は、もう、うららよりも文香が好きだということを理解してしまっているのに。
そうさせたのは文香なのに。
ほかならぬお前が、どうしてそれを突き付けてくるんだ。
文香の指が、俺の舌を解放する。返事を促すみたいに。
「文香のことが好きなのに、うららと付き合えって?」
「うん。だって、私と律くんは、恋人なんかじゃないもの」
「……それじゃあ、俺は最低の彼氏だ」
「でも、最高の友達だよ。私にとって」
「…………」
「律くんは、私の親友だよ。一生ね」
「一生、ね。はは……」
笑いが漏れてしまう。
恋人よりも尊い存在だと、文香が言ってくれている。それを断ることを、俺はもう、できそうにないのだ。
「結婚したくなったらどうすればいい?」
「したらいいよ。スピーチは任せて」
「文香は、恋人いないのか」
「今はいないかな。律くんがかまってくれないとき、付き合ってみたことはあるれど」
「……俺と付き合わないなら、誰とも付き合わないでほしい」
「えー。……それは、親友としての頼み?」
「……ああ。みっともない親友からの頼みだ」
俺の影の中で、文香はにんまりと笑った。
「しょうがないなあ」
文香の両手両足が俺に絡みつき、二人して横に倒れてしまう。抱き合う直前のポーズで固まって、俺たちは向かい合う。
「いいよ。親友の頼みだもの。その代わり、私たちは一生友達ね」
「……うん」
「恋人同士がするようなことは絶対しない。けど……」
文香が身体をよじって、顔を近づけてくる。
「幼馴染がすることなら、なんでもしよう」
頬が触れ合った。息を呑む。記憶がよみがえる。あのみずみずしく、純粋だった日々。
世界がとてもシンプルだったころ。
「昔は、お風呂だって一緒に入ったね──」
文香の声は弾んでいた。
「律っ! 一緒に帰ろっ」
サッカー部の練習終わりに、校門前で手を振るうららがいる。
彼女のお迎えだぞ、とからかうような同級生や、生意気にもはやし立てる後輩に軽く言い返しながら、俺は彼女のもとに向かう。
付き合って、もうすぐ一年が経つ。恋人同士の俺たちは、休み時間には一緒にご飯を食べたり、待ち合わせして一緒に帰ったり、休日にはデートをしたりと、充実した日々を送っている。
「律、大好き」
「ありがとう、俺もだ」
甘い言葉をささやき合う日々。三年生になって、未来のことも考えるようになった。俺は理系で、うららは文系。学部が違うけれど、一緒の大学に行けたらいいねなんて話をする。うららは成績優秀だから、俺はかなり頑張らないといけないだろうけど。
そんなことを話しながら、彼女を駅まで送る。
「ね、律……」
人通りの少ない路地の角で、うららは不意に俺の袖を引っ張り、目をつむる。
幾度となく交わした、恋人同士の触れ合い。うららは、こうやって人目を忍ぶようにしてキスとするのが好きになった。
俺は微笑みを浮かべて、うららにそっと口づけを落とす。柔らかくて暖かい唇の感触。うららが軽く声を漏らす。
文香の匂いがした。
最低の彼氏 最高の幼馴染 羊坂冨 @yosktm
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