最低の彼氏 最高の幼馴染

羊坂冨

前編

「踊川くんが好きなの。付き合って、ほしい」


 クラスメイトの平瀬うららは、顔を真っ赤にして、しかし俺をまっすぐに見つめてそう言った。


 そのとき、俺の脳裏には一瞬、幼馴染の女の子の顔が浮かぶ。

 未練たらしい。すでに一度フラれているのに。


 俺は平瀬の顔をじっと見て、頭に浮かんだ少女の笑顔を打ち消す。

 あんまり意識したことなかったけど、平瀬は可愛い女の子だ。

 ふわふわとウェーブのかかった、猫のように柔らかな髪が風に揺れている。クラスで一番背の低く、どこか小動物然とした印象を与えるが、こちらを一心に見つめる、大きくくるっとした瞳には強い意志が宿っており、ずっと見ていたいような美しさがある。


 あまり女子と話したことのない俺だけど、平瀬は一緒の委員会だったからその人となりも、ある程度は知っている。いつも真面目で、器用とはいえないけれど、やるべきことは最大限にこなそうとする女の子だ。知り合って間もないころ、丁寧な字を書くなと思ったことが、妙に印象に残っている。


「……うん。こちらこそ、よろしくお願いします」


 その言葉に、平瀬はぱあっと花が咲いたように笑った。

 こうして、俺は平瀬うららの彼氏になった。




 宮村文香という、俺の幼馴染の話をしよう。

 俺の初恋とその終わりのお話だ。

 四方を山に囲われた、田舎というほどの田舎ではなく、しかし都会などとはひっくり返っても言えないようなどこにでもある町で、俺と文香はお隣さんとして生まれた。


 文香は人見知りで、大きな身体を縮めて俺の背中に隠れていたし、どこに行くにも俺の後をついて回っていた。小学生の頃は俺を宮村係と呼ぶようなものもいたくらいだ。

 はたから見れば俺は面倒をかけさせられているように映ったかもしれないが、俺はそれを嫌だと思ったことはただの一度もなかった。

 今にして思えば、それは惚れた弱みというやつだったのだろう。


 文香は美しく、魅力的な少女だった。

 艶やかな長い黒髪は、同じシャンプーを使ったときもさわやかな香りを発していたし、肌は透き通るように白く、涼しげで大人びた顔立ちをしていたから、発育の良さも相まって、実年齢よりもうんと年上にみられることも珍しくはなかった。ぼうっと揺らめく瞳は、他の人たちとは違う世界を見ているようで、俺は一度、何を見ているのかと文香に訊いた。そういう時、彼女は微笑んで手招きをして、それから自分の頬に俺の頬を押し付けるようにしてから、陰影のついた雲の形や、塗装の禿げた看板を見ていたことを話してくれた。ささやくような甘えるような、鈴を転がしたような声が、本当に俺を違う世界に連れて行ったかのように、そうしている間は文香のことしか考えられなかった。少しひんやりとした文香の柔らかい頬。こすれる髪。香る体臭。体温。声。そして彼女に関心を持たれたものたち。世界にあるのはそれだけだった。


 そして中学生になり、俺が声変わりをしたころから、文香の美しさは誰もが知るところとなった。男子にも劣らない長身で、指定の丈であるスカートから伸びる足は陶器のように艶めいており、全員が同じ制服を着ているはずなのに、いや、だからこそ、そこにいるだけで文香は目立った。

 人見知りで誰ともろくに話さない態度も好意的に受け取られるようになり、クラスを離れても、文香はいわば一目置かれる形で、何不自由なく過ごしていった。


 そして、それに寂しさを抱いたのが俺だった。

 俺は文香にとっての唯一であると思っていて、それに優越感という満足を得ていたのだ。独占欲と言ってもいいかもしれない。

 そしてその寂しさ、危機感に背中を押されるようにして、俺は自分が文香に恋をしているのだと思いいたり、そのまますぐに告白をすることを決めてしまったのだ。




 その日は帰りが一緒になり、そのまま流れで文香の部屋に招かれた。こういうことは珍しいことではなく、俺たちはお互いの部屋でお菓子を摘みながら、宿題をしたり、漫画を読んだり、何をするでもなく過ごすことがよくあった。

 今ではもう過ごすことのできない幸福な時間だ。


 その日も、文香はいつものように自分のベッドに寝転がり、俺はフローリングの床にそのまま座った。(文香の部屋にはクッションのようなものはなかったし、わざわざ座布団を持ってくるような気づかいを文香は持ち合わせていなかった)

 文香を異性として意識してから、これまでは何とも思わなかった部屋でも、妙に緊張してしまっていた。数年前は一緒にベッドで寝転がってゲームをしたりしたのに、もはやそんなことができた自分は別人のように感じられた。部屋に漂う花のような香りや、文香の母が買い与えたピンク色の家具たちが、文香を女であると雄弁に示しているようだった。


「文香」


 俺の呼びかけに、文香は図書室の本から顔を上げ、もぞもぞと這うようにしてこちらに向き直る。


「なあに」


 小さな声で文香は言った。


「好きだ。付き合ってほしい」


 俺は一息に言いきった。

 文香は大きく目を見開き、俺を見つめたまま、じっと考え込む。

 部屋には重く沈黙がのしかかった。俺が気まずさに目をそらして、それから数分が立って、文香は言った。


「……嫌。律くんとは、付き合いたくない」


 ぐらっと、ショックで視界が歪むのが分かった。顔をあげて、文香を見上げる。

 嘘だよーなんて言ってくれないか、と叶わぬ願望が胸をよぎるが、それはすぐに、彼女の真剣な表情の前に儚くも霧散する。


「俺の、こと。好きじゃない?」


 すがるように、情けなく唇から漏れた声に、文香ははっきりと眉をひそめた。


「ううん。律くんのことは大好き。でも、付き合いたくはない」


 それが最後通牒だということはすぐに分かった。俺が何を言おうと、何を改善しようと、文香は俺を彼氏にするつもりはないのだと。

 その意志を変えることはできないのだと。


「ああ……うん。嫌われて、ないなら、よかった。……なあ、これからも友達としていてくれるか?」


 未練がましいけれど、嫌われていないのなら、まだ好かれていたかった。一緒にいることを許されたかった。

 俺の懇願めいた問いに、文香は首をかしげて、それからふっとほほ笑む。


「もちろん。私、幼馴染だもの」

「そっか。ありがと」


 強がるように笑って見せて、それから、震える足で立ち上がる。


「どうしたの」

「ごめん、今日は帰るね。明日から、また、よろしく」


 これ以上ここにいると、泣いてしまいそうだった。


「えっ、どうして……」


 文香は残酷にもそんなことを聞く。

 俺は聞こえなかったふりをして、文香の部屋を出て、逃げるように自分の家に帰り着き、そして布団に潜り込んでから、身体をよじって涙を流した。

 まさか失敗するなんて思いもしなかったのだ。傲慢にも。

 文香に好意を持たれていたことは間違いなかった。でも、だから絶対に付き合えるわけではないということを、この時の俺は想像すらしていなかった。

 こうして、俺は文香にフラれたのだ。


 それから、俺たちは学校で変わりなく過ごし、文香は俺の部屋に遊びにくることも、一緒に初詣に行くこともあったけれど、俺の方は微妙に距離感を掴めないまま、別の高校に通うことになり、ゆっくりと、しかし確かに疎遠になってしまった。




「律っ! 一緒に帰ろっ」


 サッカー部の練習終わりに、校門前で手を振るうららがいる。

 彼女のお迎えだぞ、とからかうような同級生や、生意気にもはやし立てる後輩に軽く言い返しながら、俺は彼女のもとに向かう。


「ふふ、汗のにおいがする」

「あ、ごめん。ボディーシート途中で切れちゃって。やっぱ足りなかったかも」


 そう言って一歩距離を取ろうとすると、うららはその手をとってにやりと笑う。


「気にしないよー。ね、それならこれ」


 そう言ってうららが取り出したのは、スプレータイプの制汗剤。


「マーキングだっ!」


 そう言って、がばりと服の隙間から噴射される。バラのような香りがあたりに満たされると同時に、冷たさに悲鳴を上げる俺を見て、うららはあははと快活に笑う。


「いきなりはやめろ!」


 ぜえぜえしながら叫ぶ俺に、ごめんねーと謝りながらも、うららは満足そうに俺の腕をとる。


「でもほら、これでおんなじ匂いだよ」


 なんだかエロい物言いだけど、うららは多分、下心なしに言っている。

 えへーっ、と無邪気な笑顔に、俺は結局何も言えないまま、二人くっついてゆっくりと歩く。

 高校は俺の家からは歩いても通える距離だが、うららは電車で二駅ほどいった先が最寄り駅だ。だから、普段は駅まで送るのが恒例なのだが、今日は違った。


「おじゃましまーす」


 うららは、しずしずと緊張した面持ちで、俺の部屋に踏み入った。今日は、うららと俺の部屋で一緒に課題をする約束をしていた。


「ね、ご家族は?」

「えっと、今日は同窓会で母さんは遅いし、父さんは出張中」

「じゃ、二人きりだ。へへ」


 うららは無邪気にはにかんだ。クッションに腰掛けて、二人で机に向かって課題を片付ける。一時間もかからずに終わって、それから、うららのルームツアーが始まった。

 本棚を見て、これ私も好き、これ面白い?と言い合ったり、小学校から使い続けている学習机や、そこに貼られた昆虫のシールを見てからかわれたり。


「ね、この綺麗な子、誰?」


 そう言ってうららが指さしたのは、小学校時代の文香だ。俺がまだ恋心を自覚する前、卒業式に撮った写真を、フォトプレートにいれて飾ったままだった。


「ああ、幼馴染だよ。隣に住んでる」

「お隣! えーいいなあ。私もお友達になりたい」


 てっきり嫉妬でもされるかと一瞬ヒヤッとしたが、思ったよりも好意的な反応が返ってきて、少し拍子抜けする。


「でも、これでちょっと納得しちゃった」

「なにが?」

「付き合う前ね、律、あんまり女の子相手でも全然気後れしてないなーって思ってたの」

「まじか。そんな風だった?」

「うん。でも、こんなきれいな幼馴染がいれば、そりゃ、その辺の女の子のことなんて気にならないかぁ……って」


 そう言ううららの背中は、すこし寂しそうだった。


「……まあ、幼馴染は綺麗だけどさ。俺が一番好きなのも、かわいいって思うのもうららだよ」

「……うふっ」


 あっと思った瞬間、満面の笑みで振り返ったうららが抱き着いてくる。


「……言わせたな……」

「えへへ。嬉しかったよ。気障だね、律」


 胸にほおずりするような恰好で上目遣いをするうららだが、その耳は真っ赤だった。


「もう……」

「ふふ……」

「…………」

「…………」


 じっと、視線が絡む。目を閉じた。

 唇が触れあう。

 ファーストキスだった。

 同じローズの香りに包まれながら、ゆっくりと、その感触に酔いしれる。




 不意に、その唇が離れた。

「……へへ。えっと、今日は、帰るね。もう、限界。死んじゃいそう」

「あ、うん……。そうだ、駅まで」

「いらないっ。今日は一人で、ゆっくりと思い出して帰りたいの」


 かわいいことを……。

 ぱたぱたと荷物をまとめて、まるで逃げるように、うららは玄関に向かう。ドアを開けると、初夏の涼しい風が、俺たちの頬を涼しく撫でていった。

「また、ね」

 そう言って、うららは跳ねるように去っていく。

 俺はその背中が見えなくなるまで見送って、その背中が見えなくなってからも、しばらくそこで、ぼうっと立っていた。落ち着かなくて、部屋に戻る気にならなかった。

 だから、背後に忍び寄る存在に気づかなかったのだ。


「律くん」

「うわっ」


 驚き振り返ると、そこには絶世の美少女が儚く佇んでいた。

 背が高く、手足はすらりと長く、肌はどこまでも純白で、瞳はとらえどころがなく濡れている。そして、胸も尻も、記憶よりも大きくなり、少女的な美しさだけでなく、官能的な魅力さえも増している。


「……文香」

「うん。久しぶりだね」


 文香はゆらりと笑った。

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