「ハリー、その箱を開ける前に」

 箱に触れた僕に、S女史が言った。

「タドコロさんの話を聞きましょう」

 S女史の言葉に、タドコロさんは小さく驚いた。

「いやいや、私の話なんて。面白くないですから」

 タドコロさんは激しく両手を振った。

「ぼ、僕だって、あの程度の話で、これ、もらえたんですから」

 僕は、二人からもらった野菜ジュースの入った箱を軽く振った。

「ハリーさんのは、ノロケじゃないですか」

 タドコロさんの言葉に、S女史が「ノロケね」と笑った。

「まいったなあ」

 タドコロさんはそう言いながら、片手で髪の毛を何度も掻いた。

「ハリー」

 先輩が僕のところに近づき、小さな声で話しかけた。

「ドアに人がいないかどうかを見てきて。たぶん、いないと思うけど。確認したら、すぐにドアにカギかけてきて」

「え? なんでですか?」

「タドコロさんのファンが部屋に入ってくるかもしれないから。せっかくタドコロさんがチャレンジしようとしてくれているのに、ファンが入ってきちゃったら、タドコロさん、話せなくなっちゃう」

 先輩が真剣な表情だったので、僕は、慌ててドアに向かった。ドアを開け、誰もいないことを確認してから、静かにドアを閉めてカギをかけた。先輩は、何もなかったかのような顔で席に戻った。

「わかりました」

 タドコロさんは大きく息を吸うと、天井を見た。そして、ゆっくりと息を吐きながら、先輩の方を見た。

「今でも忘れられない女性の話をします」

 タドコロさんは、ゆっくりと瞬きをした。

 え、好きな人の前で、そんな話するの?

 まいさん、平気なのかなぁ……?

 そんな僕の心配に気がつくはずはなく、タドコロさんは、話し始めた。

「十年、いや、もっと前かな? 当時、私が勤めていた会社に、アルバイトが入ってきました。大学生の女の子で、いつもニコニコして楽しそうに仕事をしてました。いつの間にか、コピー用紙やウォーターサーバー用の紙コップを補充してくれているし、急な残業になっても嫌な顔しない……そんな彼女の様子を観察しているうちに、段々、惹かれていきました。彼女が働いて三ヵ月が経った頃だと思います。突然、彼女がアルバイトを辞めました。同僚の女性社員から、自分と口論になった際に、彼女がオフィスを飛び出し、それきり出勤しなくなったと聞きました。でも、彼女と同じ日に出勤したアルバイトの子から、彼女はその女性社員から突然、もう来なくていいよと言われた……と、聞きました」

 タドコロさんは、先輩のテーブルに両手を置くと、その手に息を吹きかけるように、ふうっと大きく息を吐いた。

「当時、私が勤めていたところは小さな会社でした。その女性社員は、社長から、アルバイトの採用やシフト管理といった人事に関する仕事を任されてました。他のアルバイトから、彼女はその女性社員から嫌がらせを受けていて悩んでいたという話を聞きました。彼女は、自分から辞めたのではなく、解雇されたと、私は確信しました」

 両手を見ながら話すタドコロさん。思い詰めた表情で話を聞く先輩。その二人を見るS女史。部屋の空気が少し、重たく感じた。

「彼女と連絡を取りたくて、アルバイト全員に連絡先を尋ねました。彼女、勤務を終えるとすぐに帰宅していたようで、勤務時間外で親しくしている人がいなかったみたいです。彼女の連絡先を知る人はいませんでした。もし、彼女から連絡があったら、私が探していたと伝えてほしいと、頼みました。……。彼女から、連絡はありませんでした」

 タドコロさんが顔を上げると、目が合った先輩に微笑みました。その微笑みは、少し苦しそうに見えました。

「その女性のことが忘れられなくて、タドコロさんは、今も、お付き合いしてる方が、いないんですね」

 先輩は、タドコロさんの顔を覗き込むように尋ねた。

 え、この二人って付き合っているんじゃないの?

 この部屋に入ってくると、いつも、タドコロさんは先輩を見てるし、先輩はタドコロさんのこと、気にかけてるみたいだし、てっきり、付き合ってるのかと思ってた。

 いや、待てよ。タドコロさんが先輩に、想いを寄せているのか。それとも。二人は、交際していることを隠して、こんな芝居をしているのか。

「あの……」

 二人の様子をみながら、僕があれこれと推理していると、S女史が遠慮がちにタドコロさんに声をかけた。

「今でも、その……アルバイトさんに、会いたい、ですか?」

 S女史は、先輩をチラチラと見ながら、タドコロさんに質問した。

 タドコロさんは驚いた表情で、S女史を見た。

「はい、会いたいです。……でも、もし……結婚していたり……結婚していなくても、素敵な男性とお付き合いしていたら……。会わない方がいいのかなあ、とも思っています」

 タドコロさんは、時々、視線を落としたり、言葉に詰まりながらも、S女史に向かって答えた。話を聞いたS女史は、「そうですか」と呟くと、少し考えこんだ。

「タドコロさんが、今でも、忘れられない女性に会いたいなら」

 S女史は、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「ハリーに調査を依頼されてはいかがですか?」

 S女史の右手の指先は僕の方を示していた。

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