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「ハリーが野菜が嫌いだっていうのは、知ってる。でも、わざわざハリーにクッキーを届けに来てくれたリナさんの気持ちをないがしろにするのは、良くないと思う。そのクッキーをちょっとだけ食べて、苦いって顔したら、クッキー、没収してあげる」
S女史はニヤリと笑った。僕の反抗心を煽るような笑みだったが、没収という言葉に、僕は冷静になれた。
一回食べれば、この箱は僕の手から離れるんだ。野菜は大の苦手だから、表情なんて作らなくても自然とできる。なんだ、簡単なことじゃないか!
「……わ、わかりました」
僕は、ゆっくりと箱を開けた。ニンジン、ピーマンなど、野菜をかたどったクッキーがぎっしりと詰まっていた。その中から、ニンジンのクッキーを一枚、取り出した。一口サイズのクッキーを数秒見ると、僕は、大きく深呼吸した。ニンジンはこの世で僕が最も嫌う野菜だ。すぐに苦悶の顔になれる。だけど、あの味が口の中に広がるのかと思うと、食べる前から苦しい表情になってしまう。
「た、食べますっ」
目を閉じて、クッキーを放り込んだ。
「ちょっとだけでいいんだって!」
S女史の声が聞こえたと同時に、僕の口の中に小麦粉の味が広がった。
あれ? ニンジンの味がしない。
恐る恐る、クッキーをかみ砕いてみた。
サクっという音と共に、再び、小麦粉の味が口の中に広がった。
「ん? ん?」
想定していたのと違う味に、僕は、ただただ困惑した。
3人が僕の表情を見つめていることを忘れ、僕は何度もクッキーを噛みながら、ニンジンの味が出てこないことを確かめていた。
小麦粉の味がしなくなったクッキーを飲み込むと、僕はゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「これ、フツーのクッキーですよ」
僕の言葉に、先輩が目を大きく開いた。
「ハリー、一枚、もらってもいい?」
「あ、はい、どうぞ」
「ハリーさん、私も、一枚、いただいてもいいですか?」
「あ、タドコロさんも、どうぞ」
先輩に続いて、タドコロさんが箱からクッキーを取り出した。2人とも、クッキーを表裏何度も見た後に食べた。
「あっ、美味しい!」
「野菜の味がしませんね!」
先輩とタドコロさんは、ピーマン、トマトなど様々な野菜の形をしたクッキーを手にすると、舐めてみたり、匂いを嗅いだりしていた。そして、クッキーを口の中に入れ、「美味しい」と喜んでいた。
「リナさんって、大学付属の高校に通っているでしょ?」
クッキーを食している僕たちを見ながら、S女史が僕に向かって話し始めた。
「その大学の栄養学部の学生さんが、野菜が嫌いな子どものためにクッキーを作ってるって、新聞で取り上げられてたの。さっきハリーが食べたニンジンのクッキーは、ニンジンの味はしないけど、ニンジンの栄養がクッキーにしっかり入っているんだって。子どもが野菜を食べられるようになったという気持ちを持てるように、野菜の形にして一口で食べられるサイズにしているそうよ」
「じゃあ、ハリーは、今日、ニンジンが食べられるようになった記念日だね!」
S女史の話を聞いた先輩が、そう言って、僕の腕を細い指で突いた。
「リナさんが、大学の栄養学部の人にお願いして、クッキーを分けてもらったの」
S女史の言葉に、僕は思わず、先輩を見た。
「リナちゃんに、ハリーがチョコレートと野菜嫌いって言ったのは、私だよ。あと、野菜ジュースも飲まないって教えておいた」
先輩は笑顔で答えた。
「そのクッキーね」
S女史が話を続けた。
「実は、まだ、研究段階で、販売していないの。リナさんが、栄養学部にいる高校の先輩に『ボーイフレンドにプレゼントしたいから、少しだけ試作品をください』って、頼んだのよ」
「素敵な彼女さんですね」
タドコロさんはクッキーをほおばりながら言った。
「いえ、あの、ですから、彼女とは、そういう関係じゃなくて」
慌てて僕が否定すると、タドコロさんは何か言いたげな目をして僕を見た。
「クッキーが没収されなかったということは、大義理チョコが成功したってことで、いいでしょうか? まいさん?」
S女史が先輩に尋ねた。
「いいと思います」
先輩が大きく頷いた。
「リナちゃんのことを思って、クッキーを一枚食べたハリーの男気に、感動しました!」
先輩は、自分のデスクの引き出しを開けた。
「私たち2人からの、大義理チョコです」
先輩はB5サイズぐらいの箱を僕の前に出した。
僕は軽くお辞儀をすると両手を添えるようにして箱を受け取った。手に重みを感じた。
「まさか、これ……野菜ジュースじゃないですよね?」
僕はS女史に向かって尋ねた。
S女史は軽く目を閉じ、片手で顔を隠した。
「何年、一緒に働いていると思ってるんですか? 僕を困らせて楽しんでることぐらい、わかってるんですよ」
僕はそう言って、大袈裟にため息をついてみせた。
「安心して。それは、野菜の味がしないジュースだから」
S女史は笑いを堪えながら言った。
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