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部屋には、入れ替わり立ち替わり、他部署の男性や、出入り業者の男性がやってきた。バレンタインデーの思い出を話す者、歌を歌う者、その場で絵を描いたり、手品を行う者……と、狭い部屋が学園祭のような賑わいだった。
先輩や上司から手渡されたプレゼントを手にした男たちは、小さな子どものように目を輝かせて歓喜の声をあげたのだった。
たかが義理チョコで、どうしてこんなに熱くなれるのだろうか。
僕は冷ややかな目で彼らを見ていた。
ところが、時々、僕の心を揺さぶることが発生した。
「ハリーが部署の人に聞き取り調査してくれたんですよ。部長は、チョコレートよりお饅頭が好きだって」
「これ、ハリーが探してきてくれたんですよ」
大義理チョコに参加した男性にプレゼントを渡す度に、上司が僕の名前を出すのだ。
丁寧に僕にお礼を言う人もいれば、「なんだ、まいさんが買いに行ったんじゃないのか」と文句を言う人もいた。
上司が僕の名前を出す度に、僕は少々、くすぐったい気分になった。
「いろんな人に知ってもらえて良かったね」
上司が昼食を買いに部屋を出ると、先輩が僕に言った。
「ハリー、会社のイベントに顔出さないでしょ? S女史が、今年の大義理チョコは、ハリーのことを知ってもらうことを目標にしようって言ってたの」
S女史とは、上司のこと。僕と先輩だけが使用している言葉だ。
「まいさん、……それ、本当ですか?」
僕は左右を見回すと、小声で先輩に尋ねた。
「本当だよ。S女史、ハリーをこと、気にかけているんだよ。ハリーは、語学が出来て、調べることが好きで、無茶ぶりにもちゃんと対応できる。いつまでも、2課にいる人間じゃないんだって、私にはよく言ってるよ」
先輩には申し訳ないが、僕は、先輩の言葉を素直に受け取ることができなかった。僕とS女史の間を取り持とうと、先輩がわざと言っているんじゃないかと、疑ってしまった。
「あ、このことは、S女史には言わないでね。ハリーにお礼を言われたくて大義理チョコをやってるわけじゃないって、S女史が言ってたから」
先輩の言葉に、僕は、何も言えなかった。
午後3時を過ぎた頃、部屋を訪れる男性が途切れた。用意したチョコは、あと数個となった。
「さあ、そろそろ、ハリーくんの出番かな?」
S女史の声に思わず背筋が伸びてしまった。
「えっ! ……僕は、いいんじゃないですかね?」
先輩の方を見たが、助けてくれそうにないことを悟った。
「朝から、いろんな事例を見てきたことだし。去年のような失敗は、しないでしょ」
S女史は嬉しそうな表情で僕を見た。
「じ、事例って……」
この空気に耐えられなくなった僕は、そう言いながら立ち上がった。
「ぼ、僕、飲み物買ってきます! お二人の分も買ってきてますんでっ!」
僕はカバンから財布を抜き出し、ドアへと走った。
勢いよくドアを開けると、男性の姿が目に飛び込んできた。
「タドコロさんっ!」
僕は思わず、その男性の名前を叫んでしまった。
「お、お疲れ様です」
総務のタドコロさんは、僕を見ると、驚いたような表情で、後ずさりした。
「もしかして、大義理チョコ、ですか?」
僕は財布を背広のポケットに入れながら、タドコロさんに近づいていった。タドコロさんは、返事とも動揺とも取れない言葉を繰り返した。
「この部屋に入ろうとしてましたよね? ということは、大義理チョコにチェレンジってことですよね?」
僕は素早くタドコロさんの背後に回った。そして、両手でタドコロさんの背中を軽く押した。
「いや……、私は、その……、自信ないんですよ」
「いいから、いいから、入りましょう!」
僕はタドコロさんに逃げられないように片手で軽くタドコロさんの肩を抱き、反対の手でドアを開けた。
部屋に入ってきたタドコロさんを見ると、S女史は驚きの声を発した。
「タドコロさん、大義理チョコには興味がないと思ってました!」
「そこで、ハリーさんに捕まったんです」
タドコロさんは困った顔で僕を見た。僕は、自分の椅子を先輩の席の前に運んだ。そして、タドコロさんを先輩と向かい合わせるように座らせた。
「タドコロさんの分の飲み物も、お願いね」
S女史が僕の腕を小突いた。
「え? 僕が、ですか?」
S女史の言葉に、思わず、反発の声が出てしまった。
「飲み物、買いに行くんでしょ?」
そう言いながらS女史は1000円札を僕に渡した。
「総務の課長から、一度、チャレンジして来いって言われたんですが」
タドコロさんはそこまで言うと、大きく息を吐いた。
「私、人前で話すのが苦手なんです。課長のように、面白い話なんてできませんし」
タドコロさんは、チラリと先輩を見た。
「ハリー。タドコロさんに見本、見せてあげて」
先輩が僕に向かってニッコリ微笑んだ。
飲みかけたコーヒーを吹きそうになった僕は、慌てて両手で口を押えた。
「ハリー、まだ、やってないじゃない。大義理チョコ」
先輩の言葉に反論できず、コーヒーを吹き出さないように、ゆっくりと飲み込んでいる僕になんか気づくことなく、先輩が言葉を続けた。
「去年は、義理チョコゲットできなかったから、今年はリベンジしないとね」
「ハリーさん、私に、お手本を見せてください!」
タドコロさんが目を輝かせて僕を見た。
この2人に何と答えようかと考えあぐねていると、S女史のデスクの電話が鳴った。
「……はい、こちらのお客様で間違いありません。今、行かせます」
受話器を置いたS女史は、僕を見た。
「ハリー。彼女が、受付でお待ちですよ」
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