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バレンタインデー、当日。
我々の部署の部屋を最初に訪れたのは、隣の課の課長、スギヤマさんだった。
「1番目なら、どんなにつまらない話でも、義理チョコがもらえると聞きまして」
落ち着いた声で話すスギヤマさんと、目が合った。スギヤマさんの方が目をそらすと思っていたが、じっと僕の方を見つめるので、僕の方が目をそらした。
「おスギさんなら、どんな話でもチョコレートを渡しますよ」
ニコニコしながら、上司がスギヤマさんに近づいた。
スギヤマさんは上司に軽く頭を下げた。そして、軽く息を吐くと、上司と先輩の方を見た。
「お二人に喜んでいただける話かどうかは、わかりませんが……」
先輩がスギヤマさんの座っている椅子に近づいた。
スギヤマさんは視線を落とすと、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「人間の言葉がわかる猫ってテレビで取り上げられたのが、その猫を知ったきっかけです。それから、もう、5、6年ですかね。その猫の動画を見てました。頭のいい猫なんですよ。飼い主さんに対する愛情が、行動から感じられて……。たかが動画と思われるかもしれませんが、段々、その猫が、自分の推しになりました。数カ月ぐらい前から、猫の具合がよくないという飼い主さんの謝罪のような動画増えまして……、ずっと、心配していたんですが、先日、飼い主さんから、猫が虹の橋を渡ったと説明がありました。飼い主さんが愛情をこめて作った猫の成長動画を、泣きながら、何度も、何度も見ました。ありがとうって言いながら、何度も、何度も、見ました」
先輩は、スギヤマさんの話が終わる前に、片手で口を押えると、スギヤマさんから離れ、足早にチョコレートが山積みになっているテーブルに向かった。そして、小さな箱を大事そうに両手に抱え、スギヤマさんのところに戻った。
「スギヤマさん……。素敵なお話をありがとうございます。こちら、私たち2人からのプレゼントです」
先輩がそう言いながら、ゆっくりと箱をスギヤマさんに渡した。
「ええっ、私への義理チョコ、こんなに大きいんですか? もっと小さなチョコレートかと思ってました。消しゴムぐらい小さな……」
スギヤマさんは、じっと箱を見つめた。しばらくしてから、視線を上げ、先輩に言った。
「中身を見ても……大丈夫、ですか?」
先輩は笑顔で、箱を開けるようにと促した。
「うわっ! こ、これは!」
スギヤマさんは、箱から大事そうに手のひらほどの大きさのウサギの人形を取り出した。
「それ、ハリーが探してくれたんですよ」
上司がスギヤマさんに伝えた。
「ミルフィーユちゃん……。探すの、大変だったでんじゃないですか?」
スギヤマさんは、ミルフィーユちゃんと呼ばれるウサギの人形を両手で包み込むように持つと、潤んだ目で僕を見つめた。
「ほら、ハリー、なんとか言いなさいよ」
上司にせっつかれた僕は、なるべくスギヤマさんと目を合わせないように、スギヤマさんに答えた。
「ええっ、えーっと。まあ、僕の高校の友達が、その……人形を作ってる会社に勤めてまして。ダメもとで相談したら、安く売ってくれたんです」
実は、2週間前に上司から、この会社に人形を受け取りに行くよう頼まれた。渋々、その会社へ行ったら、高校の友達に再会した。友達に事情を説明したら、販売価格を一桁下げてくれたのだ。この話を上司にしたら、大変喜ばれたが、「おスギさんに言わないように」と注意を受けた。
スギヤマさんは、愛おしそうに人形をみつめた。そして、人形に話しかけるように、人形の説明を始めた。
「このミルフィーユちゃん、5年ぐらい前の同人誌のイベントで限定配布されたものなんですよ。会場は遠いし、入場料が交通費の倍ぐらいの金額だったから、行くのを止めました。最近、そのときのミルフィーユちゃんが、フリマアプリで販売されていると聞き、調べてみたんです。でも、いい状態で売られているものがなくって。正直、あきらめてました」
人差し指で優しく人形をなでると、スギヤマさんは僕の方を向いた。
「ハリーさん、高かったんじゃないですか? 支払いますよ」
スギヤマさんからの熱い視線を感じながら、僕は答えた。
「実は、それ……。僕のような素人には、ぜんっぜん気が付かないレベルのミスらしくて、イベントで配布されずに、友達の会社の製品サンプルとして保管されていたものなんです。友達が、大事にしてくれるならっていう条件で、安く売ってくれました」
僕は、スギヤマさんの顔を見るのが怖くて、上司の方を向いた。上司は、僕と目を合わせると、ニヤリと口元を動かした。
「おスギさんが、ミルフィーユちゃんのことが好きだってこと、調べてくれたの、ハリーなんですよ。ミルフィーユちゃんがどこで手に入るかって、探してくれたのも、ハリーでした」
上司はそう言って、僕を見た。スギヤマさんは軽くため息をつくと、上司に言った。
「いい……部下をお持ちですね」
「ありがとうございます。おスギさんの部下になる予定でしたけど、しばらくこちらでお預かりします」
スギヤマさんは、少しの間、黙っていた。
「逃がした魚は大きいとは、このこと……ですね」
ゆっくりと立ち上がったスギヤマさんは、僕に向かって深くお辞儀をした。
「ハリーさん、いいお友達と、お仲間をお持ちですね」
人形と箱を大事そうに抱えて、スギヤマさんは部屋を出た。
「思いが通じて良かったね、ハリー」
僕の背後で、上司が言った。僕は思わず振り返った。
「そんな怖い顔して、見ないでよ」
上司は困った顔をした。
「私は、喜んでもらいたいというハリーの気持ちが、おスギさんに伝わって良かったねって、言ってるの。これがきっかけで、ハリーが念願の1課で働けるようになれば、いいけどね」
上司の言葉に、思わず「あっ」と声をあげてしまった。僕をからかっているのではないかと、上司に対して良くない気持ちを抱いてしまったことを申し訳なく思った。
「今日のおスギさん、ハリーを見る目が違ったよねえ。ホワイトデーが楽しみだね、ハリー」
前言撤回。
僕は、本気で上司を睨んだ。
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