第18章 厚木ワタナベボクシングジム

 小田急線の本厚木駅から5分歩いたところのビルの一階にカレー屋がある。そのビルの5階に厚木ワタナベボクシングジムがある。ルミとコーチがエレベーターを降りて、ジムの入口を入って「こんちはー」と挨拶すると、「ちはーす」と四方から元気のいい男女の声がした。


「おぉ、いらっしゃい」


 人当たりの良さそうな、ほんとは50代半ばなのに、見た目は30代後半といった風情の厚木ワタナベボクシングジム種川会長が近寄ってきた。コーチが頭を下げる。


「会長、お久しぶりです。今日は、よろしくお願いします」


 種川会長が笑う。


「直木賞のパーティーで会ったから、そんなに久しぶりじゃないだろ?なに?南伊豆に引っ越したの?」


 コーチが答える。


「はい。で、LINEご説明した通りなんですけど、地元の人に頼まれてジムみたいなこと始めたんですよ。で、この子、ルミっていうんですけど、なかなかいい感じなんで、会長に見ていただけたらと思いまして、、、」


 種川会長、ルミに微笑みかける。


「そう。がんばってね。今日はマスボクシングやってみようか。プロの子、呼んだから。おーい、石川さんと上岡選手〜」


 少し大きめの女性と少し小さめの女性が寄ってきた。種川会長が紹介する。


「こっちの少し大きめの人が石川さんね。この前、プロテストに合格したばっかり。こっちの少し小さめの人が上岡由美選手ね。女子ミニマム級の日本ラインキング3位」


 女性二人が黙礼をした。ルミも黙礼を返した。種川会長が言う。


「じゃ、あそこ入って手前が女子の更衣室だから、着替えてアップしよう」



 ルミが3ラウンドほどシャドーをしたところで、種川会長がヘッドギアとグローブを用意しながら言う。


「じゃ、まず石川さんとやろう。次のラウンドね」


 マス・ボクシングは、パンチに最後の力を入れずに打ち合うスパーリングだ。パンチは出すが、相手には当てない。これによって、パンチの出し方や受け方、相手との距離感や相対した時の感覚を知ることができる。


 ルミは、種川会長に、ヘッドギアと重めの10オンスのグローブをつけてもらって、リングに上がった。


 ゴングが鳴る。


 石川選手が左右に動き始める。ルミは、なるべく一緒に動いてパンチを出していく。マス・ボクシングはパンチを当てないので、ハタから見ると何となくおかしくて、炭酸のないソーダのようだが、本人たちは「今のは当たった」とか「今のは避けられなかった」とかが割とわかり、一人で行うシャドーボクシングでは得られない学びがある。


 石川選手と2ラウンドやってから種川会長が言う。


「はー、じゃ、1ラウンド休んで。次、上岡選手とやろう」


 コーチは喜色を浮かべた。種川会長に一礼し、サンドバッグを打ってる上岡選手にも頭を下げた。リングから出て休んでいるルミに語りかける。


「上岡由美子選手だからな。日本ランカーだぞ。日本タイトルに挑戦経験もある人だぞ。いい経験だから、人生で一番集中してけ」


 ルミは、上岡選手を見た。ルミよりも小さかったが、半袖のTシャツから見える腕の筋肉が、女性としては見たことがないくらい締まっていて、筋張っていた。「これが日本ランキング3位の筋肉か」と思った。



 本厚木駅のホームに特急ロマンスカーが入ってきた。先頭車と最後尾車が2階建てになっている。運転席が2階にあるため、1階の座席は車両の最も前まであって、前方の景色が展望できる。


 一番前の座席で、ルミとコーチが並んで座って、アイスを食べている。ルミは、前方に流れる景色を見て感極まった。


「いやー、すげーっす。今日は、なんか、楽しいことが一杯で、どーしよーって感じ」


 コーチが苦笑しながら言う。


「上岡選手、スゴかっただろ?」


 ルミが声を一段あげる。


「いやー、すげーっす。さーすが日本ランカー。アタシたちとは動きが違うよー。ぜーんぜん違う。早い早い。何もかも早い」


 コーチが同意する。


「そーだよなー。ほんと、そーだよなー。すごかったなー」


 ルミが言う。


「でも、石川選手なら多少対応できますかね。対応できるっつっても、何とかついていけるっていうか、、、」


 コーチが笑顔になる。


「ま、馴れてくればな。よし。何とかなるな。プロが見えてきてるな」


 二人はアイスを食べた。前から流れる景色を、楽しそうに目で追う。


 コーチが口を開く。


「質問していい?」


 ルミ、不審げにコーチを見る。


「な、なんすか?」


 コーチ、笑顔で尋ねる。


「いや、なんで石原裕次郎好きなのかなー?って前から思ってて。だって、オレのオヤジか、下手すると祖父さんの頃の人じゃん?」


 ルミ、やっぱり不審げにコーチを見る。


「え?真面目に聞いてます?」


 コーチが真顔でうなづくので、ルミも真顔になって答える。


「じゃ、真面目に答えますと、あたしには生まれた時から父も母もキョウダイもなくて、あたしの育ったところは灰色で、見せかけのやさしさと紋切り型の思いやりしかなくて、そんな時、小学校の高学年の頃かな、裕ちゃんの歌を聴いたの。


 なんて言ったらいいのかな。うーん、はじめて美しいものに触れたっていうのかな、ま、つまり感動したの。とーっても。


 それからずっと裕ちゃんの歌聞いて、裕ちゃんの映画見て、裕ちゃんみたいな人を探してるの。だから変なのにダマされちゃうのかな。へへ」


 ルミがアイスを食べ続ける。ルミがふと気づくと、コーチのアイスを食べる手が止まっている。コーチを見ると、何だかウルウルしている。


「あれ?なんでウルウルしてんすか?」


 コーチ、答えられない。ルミにアイスを渡して「これ食え」と細い声で言って、自分はカバンからウェットティッシュを取り出して目に当てている。ルミが笑う。


「なんすかー?やだなー、もう。人目があるんだから、やめてくださいよー」


 ロマンスカーが「キンコンカンコン カンコンキンコン」と補助警報音を鳴らした。

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