第10章 日本プロボクシング協会

 半年たって、秋になった。


 旅行者3人を乗せた小さな漁船が手石漁港から出港していく。モコモコした服装に救命ジャケットが着づらそうだ。漁港のお昼頃は、普通、関係者が全然いなくなって閑散とするが、手石漁港には、お昼頃で多少人はいる。東京より5度くらい暖かいので、夏が過ぎても釣りやダイビングに来る人がいるためだ。


 それに、今年は手石漁港女子ボクシングジムができた。ジムは13時開始〜19時終了だが、会員の多くは夕食を作る前の13時〜15時の間にやってくる。その時間は、冬でも「賑わっている」と言えるような活況だ。


 13時にジムに到着するようにコーチが別荘地から歩いて出てきた。ジムに近づくと、


「コーチー、コーチー」


 と漁協長の声が聞こえた。コーチがあたりを見回すと、漁協事務所の2階の窓から体を乗り出していた。あんまり必死なのでコーチが苦笑して会釈すると、


「ちょっと寄ってってよ。コーヒー出すよ」


 と漁協長が言った。


 2人で漁協の応接セットに座ってコーヒーを一口飲むと、茶碗を置いた途端に漁協長が言う。


「なんかさ、思ったより、みんなちゃんとやってんね」


 コーチ、作り笑いで応じる。


「そうですね。みんな熱心ですね」


 漁協長、一礼する。


「コーチのお陰だわ。ありがとね」


 コーチ、疑いの目になっている。


「おかしいな。漁協長、なんかおかしい」


 漁協長、ドギマギして、コーヒーを二口飲む。コーチ、疑い深い目で尋ねる。


「なんかたくらんでますね?」


 漁協長、一層ドギマギする。


「た、たくらんでねーらー。た、たださ、どう?ちっとは才能あるやついた?プロになれそうな」


 コーチ、疑いの目をといて、コーヒーを一口飲む。


「いますよ」


 漁協長、喜んでちょっと腰を浮かす。


「え?いるの?そりゃいいや。コーチ、そいつら、なるべく早くプロにしてよ」


 コーチ、ブーたれる。


「えー?まだ始めて半年ですよー」


 漁協長、拝むように言う。


「わかってる。わかってる。でもさ、オレの方も色々あんのよ。「なんで使わせねーんだ」って男どもはうるせーし、町長に予算付けてもらったから町議会で説明しなきゃいけねーし、なんかわかりやすい実績あると助かんだよねー」


 コーチ、難しい顔をして天井をにらみながら、言う。


「、、、わかりました。やってみます」


 漁協長がビッグスマイルになった。


「わかってくれる?ありがとね。コーチ、ものわかりいいね」


 コーチ、漁協長をビシッと見つめて言う。


「漁協長のご苦労はわかってますから」


 漁協長、ちょっと感極まって、コーチの両手を両手で握った。



 コーチがジムに入っていくと、あちこちから「ちーす」と声があがる。コーチは声に応えながら、マリを探して近くに寄っていった。マリはシャドーをしている。コーチが尋ねる。


「今朝、ロードやった?」


 マリがシャドーをしながら答える。


「あたりまえじゃん」


 コーチが尋ねる。


「いま、何ラウンド?」


 マリが答える。


「6ラウンド」


 コーチが言う。


「じゃ、12ラウンド終わったらミットやろう」


 マリがシャドーをしながら答える。


「ういーす」


 コーチ、今度はルミを探す。ルミは縄跳びをしている。コーチ、ルミのそばに寄っていって尋ねる。


「今朝、ロードやった?」


 ルミが縄跳びをしながら答える。


「はい。8km」


 コーチが言う。


「えらい。いま何ラウンド?」


 ルミが答える。


「2ラウンドっす」


 コーチが言う。


「じゃ、12ラウンドになったらミットやろう」


 ルミが答える。


「はい」


 ゴングが鳴って、みんな休憩に入る。ジム内の漁協側の一面に折りたたみイスが6個ほど並べてあり、練習生が思い思いに休んでいる。コーチがイスに座ると、イスを一つあけた隣に母レーコが腰をかけた。


「コーチィ」


 見ると、母レーコが噴き出すように汗をかいている。母レーコがなげく。


「週3日、こんなに練習して汗かいてるのに、痩せないのはナゼ?」


 コーチ、苦笑する。


「そらー、それ以上に食べて飲んでるから、、、」


 母レーコ、不満そうに言う。


「そんなに食べてないのになー」


 母レーコのあちら側に座ったトモ子が笑いながら言う。


「食べてんのよ。太ってる人はみんな「そんなに食べてないのに」って言うのよ」


 母レーコもコーチも笑った。トモ子が言う。


「でもさ、いいじゃない。たくさん動いて、たくさん食べて、健康なら」


 コーチが同意する。


「そうそう。それがいいよ。プロになるわけじゃないんだから」


 母レーコがあきらめたように言う。


「まーねー。でもねー、なーんかフに落ちないのよねー」


 ゴングが鳴る。マリがサンドバッグを打ち始める。いい音。イスに座って、母レーコとトモ子とコーチがマリがサンドバッグに打ち込んでいるのを見ている。母レーコが尋ねる。


「マリ、いいパンチ打てるようになってない?」


 コーチがうなづく。


「いいね。いいパンチになった。筋肉がついて、腰がはいってきたね」


 母レーコが尋ねる。


「あとどれくらいでプロになれるかな?」


 コーチが考える。


「そーだなー」


 考えていて、ハッとした。


「あっ!?」



「はぁぁ!?一千万円ん〜!?」


 漁協長がすっとんきょうな声を出した。漁協の応接セットに母レーコ、トモ子、コーチ、漁協長が座っている。コーチが申し訳なさそうに言う。


「えぇ。日本プロボクシング協会、JPBAって略称ですけど、そこに加盟したジムからしかプロテスト受けられないの忘れてました」


 母レーコが尋ねる。


「その加盟金が一千万〜!?」


 コーチがうなづく。みんな「うーん」とうなって、ドンヨリした雰囲気になった。トモ子が言う。


「イチローくん、出してよ」


 漁協長が苦しげに言う。


「無理だよぉ。ジム作るのだって、予算200万円なのに、男共の反対を押しのけて、やっとこさ予算付けたんだぞー。1000万円なんて、その5倍じゃねーか。たーいへんだよー。考えたくない」


 みんな「うーん」とうなってドンヨリした空気になった。コーチが言う。


「ま、伊東のジムは協会に加盟してるから、最悪あそこに通ってプロテスト受ければ、、、」


 漁協長が言う。


「でもなー、せっかくの手石の娘がなー」


 母レーコが苦しそうに言う。


「それって、無料じゃないでしょ?」


 みな「うーん」とうなって、ドンヨリとした食う空気になる。漁協長が思い切るように口を開く。


「ま、みんなで考えててもしょーがないから、あちこち相談してみるよ」

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