第9章 ユー子とミッコ

 ジム開きが続いている。


 コーチはジムの端っこに横たわって、酔いをさましている。ジムの中からは三方に海が見える。昼間から宴会するには最高の場所だ。みんな、すごく盛り上がっている。机はもう片付けられて、みんな床に座って飲み交わしている。


 しかし、コーチは横たわっている。そんなコーチを、ちょっと離れた対角線上から母レーコとトモ子が見ている。トモ子が母レーコに言う。


「コーチ、お酒弱すぎじゃない?」


 心配そうな母レーコが言う。


「思いがけず色んな人に会わされて、久しぶりに飲まされて、疲れちゃったんじゃない?」


 トモ子が母レーコを見て、笑顔になった。当然、酔っ払っている。


「よかったねー。ジムができて。楽しくなりそー。母レーコのお陰だよ。ありがと」


 母レーコが苦笑する。


「クミとコーチと漁協長のおかげよ」


 トモ子があたりを見回す。「おっ」っと言って、母レーコの手をとって漁協長の近くに寄っていく。


「はいはい、すいません、すいません。ぎょきょぎょ、ぎょ、ぎょきょ、、、イチローくーん」


 漁協長、笑顔でトモ子を見る。当然、酔っ払っている。


「おぉー、トモ子ー、トモ子ー、お前も飲んでるらー!まーた酔っ払いやがって。いいぞ、いいぞー」


 トモ子、笑いながら漁協長の目の前に座る。


「そーれーす。イチローくん、ありがとね。ジム作ってくれて」


 トモ子、急に涙ぐむ。漁協長、笑う。


「なんだよー、もー、やだなー、トシとると涙もろくなって。よせよ、おまえ、人が勘違いするだろ(笑)」


 トモ子と母レーコ、笑う。漁協長も笑う。


「それに、オレのお陰じゃねーよ。クミとコーチのお陰だろ?みんなの金だし」


 トモ子、漁協長を指さしながら言う。


「くー。カッチョいいなー。ね?母レーコ?ほら、イチローくん、母レーコ、母レーコ」


 と、母レーコを指さし始めた。漁協長、笑う。


「わかってるよ」


 母レーコがお礼する。


「ほんと、ありがとね」


 漁協長、ビックリした顔になる。


「なんだよー。レーコまでそんなこと言って。ぢゃ、嫁に来てくれ」


 トモ子がツッコむ。


「もう嫁いるだろ」


 3人で笑った。



 コーチは、やっぱりジムの端っこで横になっている。そこへマリが四つん這いで近づいてきて、コーチの肩をゆする。


 コーチは起きない。


 耳を引っ張る。


 コーチは起きない。


 ほほをつねる。


 コーチは起きない。


 マリ、「ちっ」とつぶやいて、コーチを揺り起こす。


「コーチー、コーチー、、、」


 コーチの上半身が起き上がった。気づくと、マリが笑って見ている。


「なに?なに?」


「コーチー、ほんと?強くなれる?」


 コーチ、ぼんやりしている。


「え?」


「コーチー、あたし父ちゃんいないけど、強くなれる?」


「当たり前だろ。さっき言っただろ」


 マリ、腕を組んで考え始める。コーチ、苦笑い。


「聞いてなかったの?」


「(首をふる)うぅん。聞いてたよ」


 コーチ、笑う。


「聞いてなかったでしょ?」


 マリが「うひひひ」と笑って、スキップしながらジムを出て行った。


 コーチはボーッとしてジムの中を眺めている。みんな楽しそうに宴会している。


 急にマリが耳元でささやく。


「努力すれば強くなれる?」


 コーチ、ビックリする。


「なんだよ。普通に話せよ」


 マリが「エヘ」と可愛い子ぶる。コーチが言う。


「違うよ。願って、努力すんだよ。強ーく願って、最大限に努力すんだよ」


 マリがコーチの横に座って言った。


「ふーん」


 二人でボーッと賑わう宴会を見ている。マリがボソっと尋ねる。


「コーチは、幸せってなにか知ってる?」


 急に深遠な問いかけが行われたので、コーチはドギマギした。マリがジッと見ている。コーチはドギマギしながら言った。


「えぇー、わかんないよぉ。そんな急に、、、」


 マリはがっかりした顔をする。


「えー?少しは名前の通った小説家なんだから、もうちょっと、ちゃんとしたこと言ってよー」


 コーチが顔色が悪くなり、黙ってしまった。今度はマリがドギマギした。


「あ、怒った?」


 コーチが絞り出すように言う。


「気持ち悪い、、、」


 マリがビックリする。コーチがさらに絞り出すように言う。


「、、、ゲロしたい、、、」


 マリが急いでコーチを手を引いて、漁協のトイレに急いだ。



 ジムの中で酒を飲みながら、母レーコとトモ子が適齢の女性の相談を受けている。


「だからさ、ヘンな客やっつけたいのよ」


 トモ子が同情したように言う。


「ユー子さんとこ、面倒そうなお客いそうだもんねー。でもさ、男相手に勝てるのかな?どーなんだろ?」


 ユー子、残念そうに言う。


「無理かな。コーチに聞いてみようかな」


 母レーコが口を挟む。


「ダメだよ。そんなことコーチに聞いちゃ。さっき言ってたじゃない。「ケンカに使ったら破門だ」って」


 ユー子とトモ子が納得する。


「そうだ。言ってた」


「そうだ、そうだ」


 トモ子が提案する。


「護身術ってことにすれば?「お店で襲われそうになったとき、身を守れますかねー?」なんて方向で質問すれば?」


 母レーコ、トモ子を指さす。


「それ、ナイス」


 ユー子、よろこぶ。


「いいね、いいね。それで聞いてみる」


 ユー子、あっちの方を見ると、コーチが横になっている。横になっているコーチに、クミとマリがじゃれついている。ユー子、モンローウォークでお尻を左右に振りながら、コーチに近づいていく。


「コーチぃ、コーチぃ、いまちょっといいですかぁー?」


 コーチは、語りかけてきたユー子を見て「日劇ダンシングチームにいそうな美人だな」と思った。そして、目が釘付けになった。胸の谷間が深いのだ。深い谷間に向かって言った。


「はい。どうぞ」


 ユー子は、魚が餌にくいついた釣り人のようにニヤリと笑って、少し高く甘い声で尋ねる。


「あたしね、この近くで寄るのお店やってるユー子です。どうぞ、よろしく」


 コーチが上半身起きあげて、一礼した。ユー子が続ける。


「でね、お店の中で男に襲われたらどうしよう?って、いつも心配なんです。ボクシングやると、そんな男やっつけられますかね?」


 コーチがユー子の腕に目を移した。


「うーん」


 コーチはユー子の体を凝視した。上から下まで、なめ回すように凝視している。ユー子はちょっと恥ずかしそう。コーチが尋ねる。


「なんか運動やってましたか?」


 ユー子が恥ずかしそうに答える。


「いいえ」


 コーチがやっぱり体を凝視しながら言う。


「ちょっと右腕を横に上げてみてください」


 ユー子は少しためらいながら、右上で真横にあげた。コーチは10秒ほど凝視してから言った。


「うーん。ちょっと、どーかなー。筋肉が足りないかなー。週2日、一年練習すれば何とか」


 ユー子の目が輝いた。


「やっつけられるの?」


 コーチが微笑しながら答える。


「えぇ。男は油断してますからね。「女なんか」って。だから襲うわけじゃないですか?」


 ユー子が真剣な顔でうなづく。


「えぇ、えぇ」


 コーチが真顔で言う。


「油断してるとこにスパっとパンチ入れるのは簡単ですよ。ただ、やっぱね、どーしてもね、パンチ力が必要なんですよ。相手を倒すには。だから、必要な筋肉つけるのに週5日練習すれば半年、週2〜3日練習すれば一年かな」


 ユー子が真剣な顔で言う。


「へー」


 急に、マリがコーチの手を取った。


「コーチー、あっちでお偉いさんが呼んでるよー」


 コーチ、ウンザリする。


「なんだよー。またお偉いさんかよー」


 マリがコーチを引っ張って外に出てくると、一緒に花壇のコンクリートに座った。コーチが不思議そうに尋ねる。


「どこ?お偉いさん」


 マリが半笑いでコーチを見た。


「あれはウソ。あの人ね、ユー子ちゃん、昔「ミズウオ」って呼ばれてたの」


 コーチがつぶやく。


「ミズウオ?」


 マリが半笑いでうなづく。コーチが不思議そうに尋ねる。


「なんで半笑いなの?」


 マリが半笑いで答える。


「なんでも食べちゃうから「ミズウオ」。最近そーでもないんだけど、昔の話らしいけど、さっきはユー子ちゃんの目の色が変わってたから。コーチ、危なかったね」


 コーチ、憮然とする。


「んなこたないよ」


 マリ、相変わらず半笑い。


「コーチ、巨乳大好きなんだね?」


 コーチ、ビックリする。


「ドキ。なんで知ってるの?」


 マリがビックスマイルになった。


「なーに言ってんの。さっきので丸わかりだよー。ユー子ちゃんにもわかっちゃったよー」


 コーチ、恥ずかしそうに言う。


「そ、そう?し、しまったなー」


 マリ、うなづきながら言う。


「わかるよー。ユー子ちゃんのオッパイは強力なんでしょ?でもね、コーチ、ユー子ちゃんは一回食べちゃうと、あっちでもこっちでもコーチの諸々を批評しだして、翌日には漁港の婦人会全体に知れ渡ってるよ。さっきのままだったら、明日にはもうみんなコーチ見て半笑いだよ」


 コーチは目をつぶって空を仰いだ。


 少しして、今度はうつむいて首を振った。


 少しして、シンミリとした口調で言った。


「ありがとう。マリちゃん。ほんとに、ありがとう。今後とも色々と教えてね」


 その光景を、ルミが立って見ていた。思い切ったように話かけた。


「コーチ、あの、、、」


 マリがさっとコーチの耳元でささやいた。


「ルミさん。浜松出身の20代前半。ダンナは手石の漁師。子どもナシ」


 コーチが立ち上がって握手を求めて、爽やかに言う。


「やぁ、さっき質問してくれた方ですね」


 握手をしながら近くで見ると、彼女の来ているTシャツには、石原裕次郎の顔と「オレは待ってるぜ」というロゴがプリントされていた。


「はい。ルミです。よろしくお願いします。あの、プロになるには週に何回くらい通うといいんですか?」


 コーチは笑顔で答える。


「そりゃ、毎日だけど、とりあえず週3日かなー。県大会は何の種目で出たの?」


 ルミが答える。


「800mで」


 コーチは笑顔で言う。


「そしたら体力的な問題はないね。だんだんと週5日練習できるようになれば、プロはすぐそこだよ。一緒にがんばりましょう」


 ルミはコーチと握手して、ニッコリ笑って去っていった。というか、ジムの中に戻って、また飲み始めた。ルミが去ったあと、マリがつぶやく。


「ルミちゃん、可愛そうなんだ。ダンナがダメ男で暴力男で、殴るの。子どもも出来ないからダンナの実家からもイジめられて、、、」


 コーチ、ジムの方を見ている。


「ふーん。なんで石原裕次郎のTシャツなの?若いのに」


 ルミが、シンミリ気味に答える。


「会ったことないお父さんが港の人だったんだって。それで港が好きで、港と言えば裕次郎じゃない?」


 コーチ、ルミを見る。


「そうなの?」


 ルミが力強く答える。


「そうでしょ?他にいないでしょ?だから裕次郎が大好きなんだって」


 コーチが「へー」と言った。マリが続ける。


「コーチ、プロにしてあげてね」


 コーチ、真面目な顔でジムの方を見ながら言う。


「オレはプロにできないよ。彼女が自分で努力しないと。オレは手伝いしかできないんだ」


 マリ、真面目な顔でコーチを見る。


「コーチ、時々いいこと言うね。さーすがピューリッツァー賞受賞者」


 コーチ、吹き出す。


「なんで外国の賞なんだよ」


 マリがケラケラ笑っていると、低めの声で呼びかけられた。


「コーチー」


 コーチが声の方を向くと、高そうな洋服を着たご婦人が立っていた。マリがコーチの耳元でささやいた。


「ミッコちゃん。町の実力者」


 コーチ、立ち上がって、満面の作り笑いで握手を求める。


「よろしく。ボクシングやるんですよね?がんばりましょう。あれ?」


 ミッコが言う。


「えっ?」


 コーチが言う。


「奥さま、グロリア・スワンソンに似てますね。映画の、『サンセット大通り』の」


 少し間があいた。マリが「コーチ、何言っちゃってんだろう」と思っていると、ミッコがうなるように声を出した。


「うあ、、、」


 コーチが言う。


「あ?」


 ミッコがやっと笑い出す。


「うあ、、はははは。コーチ、お上手、、、」


 ミッコは表情を変えないで笑って、そして去って行った。マリがコーチに教える。


「ミッコちゃん、お金持ちで色んな美容してるから、笑っても表情変わらないんだ」


 コーチが言う。


「ちょっと怖かったね」


 マリがうなづきながら言う。


「でも、町の実力者で、70歳以上の老人たちのほとんどは彼女が押さえてるの。老人ホームとかデイサービスとかやってるから。年寄りって、あんまりこーゆーとこ顔出さないからわかんないんだけど、実は最大勢力」


 コーチは感心した。


「マリちゃんは、物知りだなー。スゴいなー」


 マリが照れる。


「あとね、漁協長のおばさんね」


 コーチが驚く。


「え?親戚なの?」


 マリがうなづく。


「うん。漁協長の亡くなったお母さんのお姉さんがミッコちゃん」


 コーチが驚く。


「へー。あんまり似てないね」


 マリが苦笑する。


「昔は似てたけどね。ミッコちゃんが美容にすごくお金使い始める前は」


 ジムの中からドーッと歓声があがった。まだまだ宴会は続くようだ。「いつまで続くんだろう」とコーチは思った。「今夜の食事はどうなるんだろう」とも、コーチは思った。

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