第7章 ジム開き
6月になった。
曇り空の水曜日。
コーチの家の駐車場で、クミ、マリ、母レーコがシャドーをしたり、サンドバッグを打ったりしている。コーチも一緒にやっている。
ゴングが鳴る。
みんな、それぞれに休み始める。母レーコがコーチに近づく。
「漁協のジム、土曜日に使えるようになるって。色々あるから、12時に来てほしいって」
「(喜ぶ)おー。できたんだー。楽しみだねー」
「(苦笑)みんな、早く練習させろってうるさいのよー。「あんただけ練習すんな!いい男独り占めかって」」
コーチも苦笑。ゴングが鳴って、みんなそれぞれに練習を始める。
次の土曜日。
別荘地の入口あたりをコーチが歩いていると、弓ヶ浜方面から子どもが8人ほど、自転車に乗って楽しそうに通り過ぎていった。子ども達を目で追ったコーチは、漁港の人だかりを見つけた。不思議そうな顔をして漁港に向かって歩いて行く。
近づいてみると、漁港は小さなお祭りのようになっていた。屋台も3つほど出ている。プレハブの方に目をやると、ピンク色に塗られていて、屋根の上にファンシーな雰囲気の看板がかかっていた。「南伊豆町手石漁港女子ボクシングジム」と記されている。
コーチは、呆然としてプレハブの前に立った。
マリが近づいてきた。
「ちーす」
コーチがマリに目をやった。
「お、おぉ、なんだよ。こんなニギニギしくやるんなら、言ってよ。もうちょっと、ちゃんとした格好でくるから」
「(微笑)ちゃんとした格好ってなに?」
「背広とかさー。Tシャツにサンダルで来ちゃったよー」
確かに、よく見ると、Tシャツには「働きたくない」と大書してある。マリが笑う。
「はははは。いーぢゃん。確かにちょっとチョロい格好だけどさ、コーチいなきゃ始まんないわけだしさ」
あっちから、漁協長が呼びかけながら寄ってくる。
「おー、コーチー、コーチー、」
マリはサッとコーチと腕を組んだ。漁協長がマリを見た。
「あっ、マリ、お前また酒飲んだな。顔赤いぞ。まだ未成年だろ?」
マリが可愛く笑う。
「エヘ」
漁協長がコーチを見る。
「ま、いいや、コーチ、コーチ、ちょっとお偉いさんに挨拶しとこ」
漁協長がコーチの手を引っ張って歩き出す。コーチの反対の手には、マリがくっついて一緒に歩き出す。
イカの姿焼きを食べているハゲた背広の70代くらいの紳士が立っている。漁協長が呼びかける。
「町長ー、まーたイカ食ってー」
町長が食べるのをやめて漁協長を見る。
「うっせーらー。イチロー、お祝いの席くらい心ゆくまで食わせろ」
漁協長がコーチを指す。
「この人、ほら、コーチ、直木賞の、、、」
町長、容儀をただす。
「あー、あなた。どーもどーも、町のためにありがとうございます」
町長、握手しようとするが、イカの姿焼きを持っているため握手できない。あたりを見回すと、コーチの横でマリが微笑んでいるので、マリにイカを渡す。ポケットからウェットティッシュを取り出して手を拭いてから、コーチの両手をとって、ぶらんぶらんと大きな握手をした。
町長、あたりをうかがって、漁協長とコーチに「近くに」という仕草をする。3人、顔を寄せ合う。町長が小声で言った。
「あのね、内緒だけどね、、、オレはボクシングに予算つけようと思ってっから」
コーチも小声で言う。
「えー、ありがとうございますー」
町長、やっぱり小声で言う。
「あんたのお陰でいいこと始まるよ。漁協長もいいことしたな」
漁協長も小声で言う。
「じゃ、ひとつ、後継指名、よろしくお願いします」
町長は寄せていた顔を離し、苦笑しながら普通の声で話し始める。
「そりゃー、別の話じゃらー」
ふと町長が横を見て「あっ」と言った。マリが町長のイカをモグモグ食べている。
「あ、おめー、なんでオレのイカ食ってんだ!」
マリ、モグモグしながら半笑いで言う。
「えっ?くれたんでしょ?」
町長、苦笑しながら言う。
「くれたんじゃねーべー。「ちょっと預かっといてね」って渡したんじゃらー。まったく、昔っからおめーわー」
漁協長が困り顔で間に入る。
「ま、ま、ま、町長、町長、あっちにイカ用意すっから。たーくさん、あっから」
町長と漁協長、マリに「メッ」という顔をする。町長がコーチに向き直って話し出す。
「そんなわけでね、コーチね、ひとつがんばってくださいね。ここら辺は、ほら、漁業と温泉と海水浴以外なーんもないからさ、コーチにがんばってもらって、地域の活性化をね、ひとつね、、、」
町長が漁協長と連れだって、イカを食べに屋根付岸壁の方に向かった。マリがイカを食べながら言う。
「手際良すぎるよねー」
コーチ、尋ねる。
「なにが?」
「ボクシングジムできるの」
コーチ、少し考える。
「うーん、漁協長が有能なんじゃない?」
マリ、イカを一口食べる。
「そーねー。それもあるわねー。そして、あの二人の選挙対策かも、、、」
コーチ、笑う。
「そーなのかな。でも、それもいいじゃない。ボクシングジムできたんだから」
「あら。コーチ。柔軟」
コーチ、作り笑顔。
「重要なのは、目的が達成されたか、じゃない?」
マリも作り笑顔になる。
「そっか。それもそうだね。めでたいね。見た?すごいリングあるよ」
コーチが急に走り出した。マリも負けずに走る。二人が小走りでプレハブの中に入る。たしかに立派なリングがある。コーチが驚く。
「すげー、すげー、高そー」
二人でリングの回りを回る。マリが尋ねる。
「コーチが選んだんじゃないの?」
「(微笑)違うよ。こーゆーやつ、ってアドバイスはしたけど」
コーチがリングに入る。
「うわー、すげークッションだー。オレの行ってたジムだって、こんなのなかったぞ。すげー」
コーチがシャドーし始める。マリのことを見つめながら、微笑してシャドーしている。マリが苦笑。
「やめてよー。気持ち悪いよー」
コーチが微笑してシャドーしながら、マリを見る。
「だってさー、スゴいよー、クッション効いてるよー。マリちゃんもやってみ。やってみ」
マリもリングに入って、一緒にシャドーを始めた。
「あー、ほんとだー、すごいクッションだー」
コーチがうれしそう。
「なー、なー」
マリとコーチ、微笑しながらシャドーしている。そこへ漁協長が声をかけた。
「コーチー」
マリとコーチ、微笑してシャドーしながら漁協長の方を見た。コーチが言う。
「あ、漁協長、こんな立派なリングをありがとうございます」
漁協長、ちょっと笑いながら、
「いーんだ、いーんだ。そんなこと、あと、あと。挨拶回りしよう」
漁協長がコーチの手を引っ張ってプレハブの外で出て行く。
プレハブの外で、マリがイカの姿焼きを食べている。トモ子がやってくる。いつもと違い、パートの面接に行くようなピッチリした服。
「マリ、イカ食べ過ぎだよ」
マリ、口を曲げる。
「まだ3本半目だよ」
「(少しあきれる)まったく、あんたは、小さい頃からイカばっかり食べるんだから。ま、いいや、コーチどこ?」
マリがイカの姿焼きで岸壁の方を指す。
「漁協長に連れ回されてる」
「(少し笑う)あ、ほんとだ」
「コーチ、大変だよー。町長にも挨拶して、警察署長、教育長、自治会長が4人、消防団長、小学校の校長先生、中学校の校長先生、片っ端から挨拶してたよ。コーチを町議選にでも出そうとしてるの?」
「ははは。あんたもジム入って入って。もうすぐ式始まるから」
マリがジムに入ると、酒樽が3つ積んであった。リングの前にロの字に机が並べられて、酒盛りの用意がしてある。当たり前のように、奥さま多数が座っている。リングの中にはマイクとマイクスタンドが立っている。
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