第5章 奥さまたち

 漁港の朝は早い。朝4時頃から活動を始めて、昼前にはだいたいの仕事は終わっている。昼前に毎日魚を加工するのが奥さまたちの仕事だ。手石漁港には屋根付岸壁があって、岸壁の陸側に漁協の2階建ての建物があって、その一階が魚の加工場。色々な年代の奥さまたち8人座って魚の加工をしている。


 真ん中あたりに母レーコがいる。動きが何となく重い。細かい作業に苦しんでいるようだ。立ち上がって、ノビをする。隣に座っている、母レーコの子どもの頃からの友だちトモ子が言う。


「なーに?あんた、どしたの?やりすぎ?」


 笑い声がする。母レーコが反論する。


「そーじゃないよ。ボクシング始めたんだけど、ヘンなとこ疲れちゃって」


 7人の奥さまたちが声をあげた。


「ボ、ボクシング!?」


 トモ子が最後に言った。


「ボ、ボクシング!?なんでよ?どこでよ?」


 母レーコがみんなの強い視線にたじろぎながら、答える。


「クミが、別荘地のおじさんにボクシング教えてもらっていい?っていうから、そんな人、危ないからマリに見に行ってもらったら、マリも一緒にやるって言い出して、二人でとっても楽しそうだから、あたしもやることにしたの。午後ヒマだし。プールもジムもヨガも遠いしさ」


 トモ子は諒解がいったよう。


「へー、楽しそうだねぇ」


 母レーコ不満げ。


「でも、プロになれないんだって。プロテスト、33歳までなんだって」


 トモ子が魚を切りながら苦笑した。


「プロになんなくてもいいっしょ」


 母レーコ、やっぱり不満げ。


「えー、なんかさー、目標ができるじゃない。それがいいじゃない」


 母レーコは少し声を低くする。


「「生きてる実感が欲しくてボクシングを始めました」なんつって、静岡新聞載るの」


 トモ子が、やっぱり魚を切りながら苦笑している。


「静岡新聞は載らなくていいっしょ。でどう?楽しいの?」


「楽しいよ。すっごいストレス解消になる」


 奥さまたちが質問を始める。


「先生はイケてんの?」


「「コーチ」ね。イケてるよ。小説家の元プロボクサーだって。調べたらさ、直木賞取ってたよ」


 奥さまたちが「へー」と感嘆する。そして、少し沈黙。ある奥さまが尋ねる。


「直木賞って、なに?」


 他の女たちもうなづいている。母レーコ、困り顔。


「うーん、よくわかんないけど、偉い賞なんぢゃない?あそこの別荘地に住んでんだって。独身だって」


 すぐ横にいた若い奥さまが母レーコに話しかける。


「面白そー。あたしもやろっかなー。まだプロになれる年齢だし」


「やろうよ。ルミ、あんたスポーツ得意だから、きっとプロになれるよ。みんなもやろうよ」


 トモ子が魚を切りながら尋ねる。


「月いくら?」


 母レーコも魚を切りながら答える。


「タダ」


 魚を切っていた7人の奥さまの手が止まって一斉に母レーコを見た。


「タダぁ?」


 奥さまたちは皆、包丁を持つ手を止めて母レーコを見ている。母レーコだけが魚を切っている。魚を切りながら、言う。


「でも、ホントにタダってのも悪いから、夕食食べさせてあげるんだけど」


 奥さまたちが申し合わせたように声を合わせて、全員が包丁を持った手をビッと挙げた。


「やる!」


 だって、奥さまはタダが大好きだから。

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