第4章 母レーコ
次の土曜日も良い天気だった。冬なのに強い日差し。ただ、風が強い。南伊豆は風が吹くことが多い。
コーチが駐車場でストレッチをしていると、道路をクミとマリと、30代だか40代らしき女性が一緒に歩いてきた。クミとマリが「コーチィー」と言って手を振る。コーチも立ち上がって手を振り返した。
クミとマリが走ってサンドバッグの近くに行ったので、30代だか40代らしき女性とコーチが取り残された。
なんか気まずい。
お互いにそのことを知らずに友だちがお見合いをセッティングしてくれた時みたいだ。コーチは小走りにマリに近づいた。
「マリちゃん、マリちゃん、」
サンドバッグに遊びで打ち込んでいたマリが振り向く。
「へ?」
「(困った顔で)あの方、どなた?」
マリは30代だか40代らしき女性を見た。
「あっ、母のレーコです。よろしくどうぞ」
「(ビックリ)はっ、ははぁっ!?」
母レーコが何回も頭を上げ下げしながら寄ってきた。
「おほほほほ。コーチー、クミとマリがありがとうございます。ほんとにいいんですかー?厚かましくお願いしちゃってー」
コーチ、なれない作り笑顔で応じる。
「いーんですよ。いーんですよー。一緒に練習する人がいた方が楽しくていいですからー」
母レーコ、急に黙ってモジモジしだす。何か言いたそうだ。マリがじれったそうに見るが、母はやっぱりモジモジしている。マリが母を叩くが、やっぱりモジモジしている。コーチ、なれない作り笑顔をしながら、交互に二人に目をやる。マリがちょっっとふくれながら口を開く。
「もー、ママー、早く聞きなよー。練習できないでしょー」
母レーコ、モジモジしている。
「えぇー、でもぉ」
マリが我慢できないという風にコーチに言う。
「もー、あのね、コーチ、ママもボクシング習いたいんだって」
コーチがビックリする。
「えぇーーー!?」
あまりに思いがけないことを言われたので、コーチは少し貧血気味になって、視界がボンヤリした。母レーコが言う。
「おほほほほほー。すいません。お邪魔でなければ」
コーチ、気を取り直して、視覚の焦点を再び合わせた。
「お邪魔じゃないですよ。ぜひ一緒にやりましょう。ね、マリちゃん」
マリが不承不承な感じで言う。
「うーん、あたしはちょっと微妙だけど、、、」
マリが言い終わりかけたところを母レーコが叩いてさえぎり、口をはさむ。
「マリから聞いたんですけど、女子のプロもあるのですか?」
コーチが答える。
「えぇ。ありますよ。世界チャンピオンもいるし」
母レーコが感嘆する。
「へぇぇぇ」
母レーコがまたモジモジし始めた。それをマリが見て、じれったそうに割って入る。
「もー、自分でいいなよー。早く練習したいんだからさー。コーチ、ママ、プロになりたいんだって」
コーチはちょっと目をむいた。母レーコが、やっぱりモジモジしながら口を開く。
「お、ほほほほ。すいません。できうることならば、ね。できうることならば」
コーチ、ちょっと難しい顔になる。
「うーん、あのー、失礼ですが、ボクシングのプロテストって、だいたい33歳までしか受けられないんですが、お母さんは33歳以下ですか?」
今度は母レーコが目をむいた。
「あら。うーん」
マリが笑う。
「無理無理。もうすっかり超えてるから。コーチに若く見られようとして、やだなー」
母レーコがコーチの視線を気にしながら、愛想笑いを浮かべながらながら、怒る。
「あ、ほほほほ。おだまり。今夜は夕食抜きだよ。明日のお昼は、パンのはじっこで作ったサンドウィッチだよ」
冬なのに強い日差しの中、クミがサンドバッグを打っている。マリは準備運動をしている。コーチは母レーコを駐車場のハジのイスに座らせて、自分はひざまづいてバンテージを巻いている。母レーコが口を開く。
「コーチ、ありがとうございます」
コーチが顔をあげる。
「バンテージは最初はみんな巻いてもらうんですよ」
母レーコが首を振る。
「いえ、そうじゃなくて、クミもマリもボクシングに熱中してましてね、この1週間、家でもシュッシュッってやってるんですよ。あれ何て言うんでしたっけ?」
コーチが下を向いてバンテージを巻きながら言う。
「シャドーボクシング」
母レーコうなづく。
「そうそう、それそれ、そう言ってました。シャドー、シャドー。シャドーをね、いつもやってましてね、二人とも、とっても楽しそう」
コーチが下を向いてバンテージを巻きながら言う。
「それはうれしいですね」
「こう言ってはアレですけど、知らない男の方に子どもだけ教えていただくのもどうかと思いましてね、ちょどあたしも午後空いてるんですよ。漁港の女は朝早くて、午後はわりとヒマなの」
コーチが顔をあげる。
「そうなんですか?」
「(うなづく)えぇ。で、さ、ここら辺やることないからさ、ちょーどいいから一緒にボクシングやらせていただこうかなー、とね」
コーチが顔を下げて、またバンデージを巻く。
「えぇ。ぜひ一緒にやりましょう」
母レーコが少しモジモジし始めた。コーチもだんだんわかってきた。
「なにかご質問が?」
「(少し申し訳なさそうに)あのー、お月謝はいかほど?」
コーチは苦笑しながら、またバンデージを巻く。
「いらないですよ」
母レーコ、たたみ込むように言う。
「そーんなわけにはいかないの。そーんなわけにはいかないの。そんなことしたら、あたしがバカにされます」
コーチ、困った顔をあげる。
「いやー、でも、、、」
「(微笑)魚でどう?」
コーチ、不思議そう。
「魚?」
「(微笑)お金受け取るのもアレでしょうから、魚介類でどう?ここら辺、いっぱい採れっから。あれ?コーチ、料理するの?」
コーチ、首を振る。母レーコ、少しビックリする。
「しないの?独身なんでしょ?」
コーチ、こっくりうなづく。
「ご飯炊いちゃったけど、「しまった!オカズがなかった!」っていうことありますよね?」
母レーコ、少しマバタキして、少し考える。
「ありません」
コーチ、母レーコの瞳を真摯に見つめる。
「あれ?わたしはあります。だから、料理はしません」
「(少し笑う)あら、困ったわね」
コーチ、また母レーコのバンテージを巻き始める。
その日、クミとマリはシャドーを3ラウンド、サンドバックを3ラウンドやった。コーチは、もうすぐミット必要だな、買わないとなー、と思っていた。母はジャブを習った。
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