第2章 小さな女の子

 伊豆半島の先っちょに「南伊豆」という町がある。ここは冬でもそれほど寒くならない。東京より3度〜5度は暖かい。


 電車は隣の下田市までしか通っていない。高速道路は下田市にも届いていない。


 結果、東京からそんなに距離はないのに、行くのにとても時間がかかる。いわば僻地。


 ただ、美しい。とても、美しい。


 下田から国道を走り、途中で曲がって南伊豆町役場の方に行かず、まっすぐ海の方へ行くと、思い出の中のように美しい海岸・弓ヶ浜とおもむきのある集落があらわれる。


 その弓ヶ浜から少し戻り、川にかかる橋を渡って広々としたひとけのない県道を車で5分くらい走ると、手石漁港という小さな漁港があらわれる。


 その手石漁港の手前にこじんまりとした別荘地がある。彼はそこに家を買った。


 車で10分ほど行けばコンビニもあるし、車で15分ほど行けばスーパーもある。ケータイの電波も入るし、光回線も引けたし、宅急便も届けてくれるし、僻地でもそんなに困ったことはなかった。


 ただ、近隣50km以内にボクシングジムがないことが困った。彼は若い頃からボクシングをやっているので、ボクシングをしていないと何となく落ち着かない。


 仕方ないので、駐車場に大きめのカーポートを設置してサンドバッグを吊して、自分で練習することにした。


 ボクシングの練習は、3分間動いて40秒〜1分間休む。不規則な間隔で普通の時計では対応できないので、わざわざボクシング専用のタイマーを取り寄せて、駐車場に置いた。


 準備運動とストレッチをして、縄跳びを3分3ラウンド、シャドーボクシングが3分6ラウンド、サンドバッグ打ちが3分6ラウンド、そんな感じに練習できるようになると、彼の生活も落ち着いてきた。



 ある土曜日、気持ちよくサンドバッグを打ってると、庭の方の茂みがガサガサ言った。彼はビックリして少し後ずさった。クマかシカかイノシシだと思った。


「なにか武器を取りにいった方がいいだろうか?」


 と悩みながらジーっと庭の方を見ていると、ひょっこり小さな女の子が出てきた。小学校低学年くらいだ。可愛い。彼が安心して言った。


「なんだよー。ビックリさせんなよー」


 女の子はニッコリ笑った。


「それなに?」


 彼が答える。


「サンドバッグだよ。ボクシングで使うやつ」


 女の子は興味深そうに見ながら、サンドバッグに近寄って、回りを回り始めた。彼が誘う。


「キミもやってみる?」


 女の子が止まった。少し困ったような顔をして彼を見ている。


 少し間があいた。


 彼が何か喋ろうとした時、女の子がパッと近づいてきた。


「やるっ!」


 駐車場のハジに置いたイスに女の子を座らせて、彼はバンテージを巻いてあげた。女の子が質問する。


「これ、なに?」


 彼は拳をさして答える。


「ここ、ここをケガしなようにね。バンテージって言うんだ」


 巻き終わった後、駐車場にかけてある赤いグローブを女の子の拳にかぶせてあげた。


「ちょっと大きいけど、これでやってごらん」


 女の子はキャッキャと楽しそうにサンドバッグを叩き始めた。彼は、それを見て笑いながらシャドーボクシングをした。


 電子ブザーが鳴る。彼が言う。


「はーい、休憩だよー」


 彼は、ペットボトルを持って女の子に水を飲ませてあげた。女の子は素直に口を開いて水を飲んでいる。


 電子ブザーが鳴る。彼が言う。


「はーい。練習開始ー。3分間だぞー」


 女の子が答える。


「あーい」


 女の子はキャッキャと楽しそうにサンドバッグを叩き始めた。彼は、それを見て笑いながらシャドーボクシングをした。


 3分たって電子ブザーが鳴る。それをもう2ラウンド繰り返した後、彼が言う。


「今日はもう終わりにしな。あんまり、やりすぎると良くないから」


 女の子は笑いながら言った。


「あーい」


 彼がグローブを外して、バンテージを外してあげた。女の子がモジモジしている。


「あの、知らない人と遊んじゃいけないっておかーさんに言われてるんだけど、また来ていい?」


 彼はビッグスマイルになった。


「いいよ。おいで。でも日曜日と水曜日は休みだよ。それとね、今日帰ったらね、別荘地の人とボクシングしていい?っておかーさんに聞いてみな」


 女の子が力強くうなづいて、一礼して、庭の茂みから帰って行った。


「こっちの道路から帰ればいいのに」


 と、彼は思った。

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