第8話


 冷たさと沈黙に彼は言葉を失いました。

 刃は彼の首ではなく、地面に落ちました。


 顔に落ちたのは水の飛沫。


 はっと目を引いたのは人の海の向こうに泰然とこちらに手を伸ばす青の姿。

 色こそ異なるが泉の精霊ナイアードであるとすぐに気付きました。


 目が合うとナイアードは微笑みました。

 あの時の幼げな微笑みではなく。

 何かを秘めた強い微笑みで。


 小川の水がさっと勢いよく逆さ雨のように空に登ると幾つかの塊が。

 そして、人の水平線には小川の量を遥かに越えた作為的な津波が高々と壁を作っていました。


 人々がそれに気付くのはあまりに遅過ぎました。


 誰かの悲鳴。


 それが合図となり津波は人々の海に覆い被さるかのように襲いました。

 ナイアードが手を振り下ろすと水の塊は彼の周りにいた人間たちに突撃しました。


 波に攫われる人々。

 水鉄砲に撃たれた人々。

 人々の恐怖の悲鳴が波と共に広がります。


 それを呆然と見つめる彼のもとにナイアードは近付きました。

 波に乗るように滑らかな動きで。


 何時かの刻のようにナイアードは彼の火傷を負った顔に触れました。


 その身体は泡になり初めていました。

 こぽこぽと唇を動かします。


 ご無事で、よかった……。


 そう言いました。


 ナイアードは選びました。

 己が泡になろうとも、他がどうなろうともあの人を助けようと。

 蛙や小魚の声を無視してまで。

 そうしてナイアードが持ちえる水を操る力を全力で使いました。


 そのおかげで彼はその首を落とすことはありませんでした。


 ようやく出会えました。

 無事な彼に。

 必死に歩き、追い掛けてきたナイアードの願いが叶いました。


 けれど、ナイアードを映す彼の碧の瞳はあの時のものとは全く異なっていました。

 瞳に映すそれがナイアードには分かりませんでした。


「ナイアード……」


 彼は擦れた声で名を紡ぎました。


「……何故だ?何故こんなことをした!?」


 キッと彼は碧の瞳でもって鋭く睨み付けました。

 怒りを顕にした彼にナイアードは目を見開きました。


「何故此処にいる?私を追ったのか?ならば何故こんな馬鹿げた真似をした!?」


 言い募る彼にナイアードはこぽこぽと泡へと消える身体と共に唇を動かします。


 貴方に消えて欲しくなった。


 しかし、ナイアードの言葉が彼に通じることはありませんでした。


「今すぐこの波を止めろ!このままでは更に多くの被害が出る!」


 彼はナイアードに訴えます。

 しかし、泡になりつつあるナイアードには聞こえていませんでした。

 彼の非難めいた強い口調が信じられなかったのです。


「ナイアード!」


 水の身体からは涙など流れません。

 ただ、水の瞳を揺らすのみ。


 違うの。

 私は、ただ……。

 貴方に無事でいてほしかっただけなの……。


「命の価値も分からないのか!無知なる精霊よっ!!」


 怒号にも似た彼の言葉が波の音を裂くように虚しく響きました。

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