時計の針は夕方六時をまわったところだった。空調が整った病棟から一歩外に出ると、むわっとした熱風が私に体当たりし、夏の到来を報せた。


「ついこの間まで、桜の花が咲いていたのになあ」

 そう独り言ちながら、私はやせ細った脚を一歩、もう一歩、前へ進めた。


―― ニシヘ ニシヘ アユミヲトメズニ


 いつもの声が聴こえた。私は、この声の主をよく知っていたような気がするが、どうしても思い出すことができない。眩暈と吐き気に襲われながら、てくてくと歩くこと三十分あまり。私の眼前に、有刺鉄線で囲まれた廃ビルが禍々しいオーラを放って聳え立っていた。“立入禁止”と書かれた看板も錆びついており、朱色の文字が消えかかっていた。


―― コッチ コッチ


 声の主に誘われ、私は廃ビルの中に足を踏み入れた。その瞬間、私の心の奥底に封印されていた記憶が、振り過ぎた炭酸飲料水が勢いよく飛び出すかのように鮮明に爆ぜた。

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