おでんの味

一希児雄

おでんの味

 今から50年くらい前、僕がまだ大学生で、漫画家志望だった時の事だ。凍てつく寒さの中、僕は夜の道をとぼとぼと歩いていた。一人暮らしをしながら漫画雑誌社を転々と周り、自分が描いた漫画の原稿を編集者に見てもらったが、どこの社も没だった。そんな毎日を何度も何度も何度も繰り返しているうちに、段々と自分の中から自身が消えて行っているのを感じていた。

 その時、すぐ近くでとても良い匂いがしてきた。

「これは…おでんかな?」

 匂いに誘われた僕は、路地にポツンと佇む小料理屋を見つけた。丁度おなかが減っていた僕は、ガラガラとお店の戸を開けた。

「いらっしゃいませ!」店に入ると、とても明るくて優しそうな大将さんと、赤ん坊を背負った女将さんが迎えてくれた。

「何にしますか?」

「おでんをください」

「はい!」

 僕は大根、卵、ちくわ、こんにゃく、餅巾着を頼んだ。

「…いただきます」

 薄茶色に染まった大根を頬張った瞬間、あまりの美味しさに僕は感動した。つゆの程よい甘みと、食材本来の旨さが口の中いっぱいに広がった。とても温かい味だった…。

「お客さん、いい笑顔ですね」と、大将さんは僕に言った。それまで僕は、ずっと笑う事を忘れていた…。

「このおでんが凄く美味しくて…」

「いやどうも。しかしお客さん、とても良い目をしてますね」

「え?」

「夢に向かってひたすら頑張る、とても情熱的な目をしていますよ」

「情熱的…その情熱も、なんだか消えてしまいそうですよ…」僕がそう言うと、大将さんは僕の手をそっと握って言った。

「大丈夫。諦めずに頑張って生きてれば、きっと良い事があります。私だってそうでしたよ。何度も何度も諦めそうになりました。でもその都度踏ん張り踏ん張って、こうして妻と一緒にやっと自分の店を持つ事が出来たんです。それが人生ですよ。あなたはまだ若い。これからですよ」

 おでんの温かさと、大将さんの優しい言葉に、僕の目から思わず涙が溢れ出た。


 大将さんと女将さんに心からお礼を言い、僕はお店を後にした。外は雪が降り、身震いするほど冷えていた。けれど僕の中では、夢に向かって突き進もうとする活力と情熱が熱く燃えていた。


 そして7年後、僕はアシスタントを経て念願の漫画家デビューを果たした。漫画は大人気を博し、某有名漫画家T先生からも高い評価を受けた。そしてその1年後にはアシスタントの女性と結婚し、幸せな生活も手に入れた。これもすべて、あの小料理屋の大将さん達のおかげだ。いつか必ずお礼に行きたいと思っていたが、多忙なためになかなか行く事ができなかった。しかしやっと貴重な休日を取る事ができ、僕はあの懐かしい小料理屋へとやって来た。けど、あの人にはもう会う事ができなかった…。 

 お店の戸に貼られた張り紙には、大将さんが癌を患い亡くなったため、小料理屋を閉店すると記されていた。

 僕はとてもショックを受けた。今迄ずっと大将さんの励ましの言葉を支えに頑張ってきた僕にとって、あの人は心の恩人だったのだから…とても残念でならなかった…。


 その夜、僕は一人部屋に籠り仕事をしていた。だが思うように筆が進まない…そりゃそうだ。あんな悲しい知らせを見てしまったのだから…。


 夢でもいいから、あの人にまた会いたい…。


 そして、あの世にも不思議な事が起こった。


 喉が渇いた僕は水を飲みに部屋を出ると、台所の方からとても良い匂いがしてきた、とても懐かしい匂いだ。

「…おでんだ…あのおでんの匂いだ!」

 僕は台所へと向かった。そこには、おでんをグツグツと煮込んでいる大将の姿があった…。

「お久しぶりです」と、大将はこちらを振り向いて言った。

「…お久しぶりです」

 僕は大将さんの幽霊を見ても、『怖い』という感情は微塵もなかった。

「僕、あなたにまたお会いしたいと思っていました」

「私もですよ。ご立派になられましたね」

「…おでん、いただけますか?」

「はい。今お持ちしますんで、どうぞお掛けになってください」

 皿に盛られた熱々のおでんがテーブルに出された。具は大根、卵、ちくわ、こんにゃく、餅巾着、あの時と全く同じだ。

「いただきます」

 僕は大根をそっと口に入れた。これだ。この味だ。程よい甘みのつゆが染みた大根の優しい味…とても懐かしい味だ…。

「おいしいです…とてもおいしい…」と、僕は目を潤ませた。

「ありがとうございます…」大将さんは一拍開けて言った。「私が死んだ所為で店は無くなり、家内と娘に迷惑をかけてしまいました…それがとても残念でなりません…娘は…まだ7歳になったばかりで…」大将さんは左手で顔を覆いながら泣いた。

「…でも大将さん、あなたとの思い出は絶対に無くなったりなんかしませんよ。女将さんと娘さん、そして、あのお店を訪れたお客さん達の心の中で、ずっと生き続けるんです」僕は大将さんの手を握りしめた。「この僕もその一人です。大将さんの、あの時の言葉を支えに生きてきました。今の僕があるのは、あなたのおかげなんです。本当に、ありがとうございます」

 大将さんはにこりと笑い、静かに消えていった。


 あの時食べたおでんの味を、僕は今でも忘れない…。

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おでんの味 一希児雄 @kijiohajime

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