5 最終夜
マンションの部屋の玄関を出て、外廊下を通り、隣の部屋のドアが開かれる。まさか、二部屋借りているとは思わなかった。先ほどまで感じていた体の熱は消え去り、背中を流れる汗の冷たさは体を震わせる。
全く同じ構造のもう一つの部屋のリビングのテーブルには一人の男が座っていた。
どう見ても学生ではない。メガネをかけて頭がぼさぼさの三十歳前後の男性。大沢リーダーが彼に声をかける。
「先生。新規入会者を案内しました。」
いつの間にか入会することが決まっている僕を一瞥し、先生と呼ばれた男が立ち上がり握手を求めてくる。僕はできる限り不信感を表に出さぬよう右手を差し出す。
「僕たちの仲間にようこそ。一緒に正しい生き方を求めていこう。」
見た目からは想像できないような強い力で手を握られる。
「じゃあ、入会の申込書を書いてくれないか。これを書いたら、早速先生から
正しく生きるためのヒントを一緒に聞こうじゃないか。今日はそれで終了だ。」
そう言って大沢リーダーが机に入会申込書を置いた。当然のことながら氏名、住所、電話番号が記載項目となっている。
僕がこれまで彼らに伝えたのは苗字と電話番号だけ。直感的に、住所を書くのはマズいと感じた。住所を教えてしまったらこの人たちはきっとどこまでも追ってくる。
「すみません。今日すぐに入会の申込をするとは思いませんでした。今、他にも入りたいサークルがあり、最終的にどこに入ろうか迷っています。もう少し考える時間をもらえないでしょうか。」
咄嗟に口に出た言葉に大沢リーダーはあからさまに目を細める。
「さっきの勉強会で正しく生きることの大切さに気づいたはずだ。君自身、『自分の生き方についても見直してみたい』とも言っていたじゃないか。何を迷う必要がある?」
適当に喋っただけの言葉をよく覚えている。まるで検事か裁判官のようだ。
先生と呼ばれた男も割って入る。
「君のことは大沢君から聞いているよ。多くの新入生は遊びにうつつを抜かしていて、正しい生き方と向き合える人はほとんどいない。君は他の学生とは違う。ここで学ぶべきなんだ!」
先生の真っすぐに見据える視線から僕は目を逸らした。
熱のこもった心地のよい言葉だ。自分のことをこんなにも認めてくれるなんて。心が動かないと言ったら嘘になる。
正直、怪しいサークルだが、仲間が作れて勉強ができるのならば、ここでもいいのではないか。他のサークルだってテニスとか軽音楽とか英会話だとか、どれも活動とは直接関係がないコンパを定期的に開き、飲み騒いでいると聞く。得体の知れなさでは似たようなものだ。
入会してもいいかもしれない、と、心の中のもう一人の僕が囁き始める。今まで知らなかった新しい世界に踏み出すのも経験だ。何事も先入観で決めつけずに歩み寄ってみようではないか。
「わかりました。ちなみにこのサークルでは正しい生き方を学ぶためにどんな事を勉強するのですか?」
先生と呼ばれていた男が、笑みを浮かべながらうんうんと頷くような動作をする。
「それはね。全て聖書に書いてあるんだ。何が正しくて何が悪いかは人間より高次の存在である神様が規定している。だから、みんなで聖書を読み解くための勉強をするんだよ。」
前言撤回。これはサークルではなく明らかに宗教団体だ。
ひきつった僕の顔に気づいたのか、大沢リーダーがしゃべり出す。
「いわゆる新興宗教のようなものではないよ。聖書は世界で20億人のキリスト教徒が読んでいる。無宗教の日本人には違和感があるかもしれないけど、海外では聖書の内容をベースに、哲学や言語学を学ぶことは当たり前の事なんだ…」
その後も、大沢リーダーの語りは永遠に思えるかのように続いていく。要約すると聖書や神様について学ぶことは世界的に見れば普通であること。それらを学ぶことで正しく生きられるということ。終わりのない話を聞かされているうちに、意識が遠のきそうになってくる。
部屋の奥の時計に視線だけ動かすと、すでに22:00を回っている。今日16:00にここに来てからすでに6時間拘束されていた。夕飯は食べさせてもらっていない。大沢リーダーの話は尽きることがない。僕の集中力と思考力は明らかに低下してきていた。
「で、正しく生きることの大切さはわかっただろう。入会申込書をかいてくれないか?」
大沢リーダーのこの言葉はもう2回目となる。
ここで「もう少し考える時間をくれませんか?」と答えると、再び聖書と神様の勉強をする正当性をエンドレスで説明される。このまま付き合い続けるのはもう限界だった。
「よくわかりました…。すみませんが、23:00に自分の部屋に友人が来る予定なので、一旦家に戻ってもいいですか。明日、改めて申込書を書きます。」
死んだ金目鯛の目でそう言う僕を見て、先生とリーダーは笑った。
「わかった。明日は朝からここにいる。朝8:00にここに来るように。」
僕は疲労困憊の放心状態でマンションを出て、夜の闇に放り出された。小雨が当たりはじめていた。
無論、友人が来る予定など嘘である。そもそも友人自体いない。
それでも架空の友との約束を自らに信じ込ませるかのように、僕は古びたスニーカーでアスファルトを蹴って全力で走った。
眼鏡に当たった雨は乱視で歪む信号機の光をさらに滲ませる。万華鏡のように青・黄・赤の光で満たされる視界には現実味が無い。今までいたマンションの一室と同じくらいに。
年季の入ったアパートのドアを開けて一番にすることはPCの電源ON。まだスマホのない時代、僕が神様とか聖書よりも信じていたのは、ネットに集まった人々の意志であり、匿名掲示板の書きこみだった。そこには信託があった。
"「クレイン」は新興宗教のかくれみのサークル"
薄々わかってはいたものの、改めて事実を突きつけられると、全身から血の気が引くような思いに駆られる。信託は続いていた。
"一人で歩いている新入生が声をかけられる"
"1回目ではおいしい食事を提供して安心させる"
"2回目には「ヒーロー」を見せられる"
"1対多数でプレッシャーをかけ強引に加入させる"
"加入するまで長時間拘束される"
"女性メンバーは積極的にボディタッチをしてくる"
完全に一致している。
孤独な学生を加入させるためのマニュアル的な対応。大沢リーダーが僕を褒めてくれたのも、まるで好意のように錯覚していた清楚先輩の素振りも全て嘘、嘘、嘘だった。
引いていた血の気が今度は頭に集まり始めた。馬鹿にされ、侮られたことに対する怒り。時計の針は0時を回ろうとしていたが、僕は携帯でリーダー大沢に電話をかけた。
「大沢です。どうしたの?」
「すみません。もっと大学生活を楽しみたいので、クレインとは別のサークルに入ろうと思います。それではまた。」
電話を切った直後、その番号は着信拒否に設定した。
ふーっと大きく息を吐きながら、ディスプレイの信託を読み続ける。
"加入後は教団の活動に強制参加させられ、まともな学校生活は送れない"
"自分の意志での結婚はできず、教団が決めた相手と結婚させられる"
生涯一人のパートナーと寄り添い続けるクレイン、鶴のつがいが大空を自由に舞う姿が脳裏に浮かぶ。クレインのメンバー達は自由に舞うことができるのだろうか。
信託に一通り目を通した後、ベッドから天井を眺めて物思いに耽る。
瞼を閉じるとアサカの面影が浮かんできた。
彼女は一体どうしただろう。僕と同じく上手く抜け出せたか。
それとも…
どちらにせよ、僕はアサカの電話番号すら知らない。彼女の無事を祈りながら僕は眠りに落ちていった。
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