4 第二夜
翌週、大学では本格的な講義が始まった。
ろくにテキストの説明もせずに、教授が発した言葉が大教室を漂う。意味を掴もうにも、ゆらゆらと空を舞うその言葉が捉えられない。翻弄されているうちに次の言葉、また次の言葉が放出される。まるで紙吹雪を箸でつまむゲームだ。捉えたと思っても、指の隙間からすり抜けていく。気がつけばスピーカーから音割れしたチャイムが鳴り響き、90分の講義が終わっていた。
人気の少ないベンチ。
僕は昼食の菓子パンをほおばって虚ろな眼で空を見上げる。
勉強についていける気がしない。先輩たちから勉強のコツを教えてもらえれば、何とかついていけるかもしれない。いや、それよりも、友人を作ってノートを見せてもらえれば、簡単に単位を取ることができるかもしれないな。などと、調子のいい妄想が脳内を埋め尽くす。もちろん、僕には頼れる先輩も友人もいない。それどころか他人との繋がりすらない。
僕の心の拠り所は次の土曜日の勉強会しかなかった。
土曜日の昼下がり。一週間ぶりにまともな会話を交わすことができる期待と喜びに思わずスキップでもしたくなる。それくらいに浮かれた足取りで、僕は先週と同じ、大学からほどほどに離れたマンションの一室に向かった。楽しそうにおしゃべりを交わす男女のグループと途中ですれ違い、何となく微笑ましい気持ちになる。
マンションの一室に入ると先週とは少し雰囲気が異なっていた。
清楚先輩とリーダー大沢のほか、5人の男女、そしてアサカがリビングのテーブルを囲んで立っていた。アサカと目が合い、お互い中途半端な会釈をする。人数が多いせいか圧迫感を感じた。
先週はいなかった5人が自己紹介を始めだした。誰もが教室の隅っこでおとなしくしていそうなパッとしない相貌をしている。まあ、僕に言われたくはないだろうけど。
みなこのサークルのメンバーで、今日は彼らを含め、本格的な勉強会を行うとのこと。アサカに目をやると、僕と同じで所在なさげな面持ちだ。
改めて全員の自己紹介が終わったところで、清楚先輩が声をかける。
「今日は皆でDVDを見てから、その内容について話し合いましょう!」
DVD?
予想をしていなかった単語に、戸惑いを覚える。
勉強会に来てDVDを見るとは思わなかった。映画か何かだろうか。
6畳一間の狭い和室に、9人が2列になって座る。
春の陽気に加えて人の密度と吐息が、部屋にこもった熱を上昇させる。
隣のアサカ、後ろの清楚先輩との距離が近い。
胸の高鳴りを気取られないよう、必死に目の前の画面に集中した。
20型液晶の小さな画面に映し出されたのは「スクールウォーズ」という昭和のドラマだった。熱血教師が校内暴力が蔓延する荒れた高校に赴任し、問題児ばかりの生徒を更生させながら、弱小ラグビー部を全国優勝に導くというストーリーだ。
時代のギャップを感じさせる部分は多々あるものの、スポーツを通じた青春ドラマとしての出来はよく、純粋に楽しめる作品だった。
最初は教師に反発していた不良少年たちが改心してラグビーに打ち込む姿には心打たれ、仲間が病に倒れるシーンには涙を堪えた。後ろの清楚先輩はよほど熱心に見入っているのか、盛り上がるシーンでは身を乗り出し、先輩の肩や腕が僕の身体に触れた。体の奥からこみ上げる熱は、春の陽気のせいか、ドラマのせいか、それとも清楚先輩のせいだったのかはわからない。
2時間ほどのドラマを見終わった後、9人が円になって感想を話し始めるフェーズになり、最初の発言者として僕が指名された。
「不良少年たちが、熱血教師の真剣さや誠実さに感化され、真面目にラグビーに打ち込むようになる姿に、僕も心打たれました。」
次の発言者はアサカだった。
「最初はバラバラだった部員たちが、心を一つにして全国制覇に向かって行く様子を見て、いい仲間達だなあと感じました。」
他のメンバー全員がうんうんと頷く。
次に、大沢リーダーが口を開いた。
「このドラマのいいところはね、みんなが『正しく』生きているからなんだよ!」
???
唐突に現れた『正しく』生きるという言葉に、僕は違和感を感じた。
口をはさむ暇もなく、大沢リーダーは言葉を続ける。
「正しく生きるには、何をすべきだろうか?」
「何が正しいことかを見極めることではないでしょうか?」
「正しい人の生き方を学ぶべきではないでしょうか?」
「正しく生きる仲間と共に歩むことではないでしょうか?」
先週はいなかったメンバー達が、畳みかけるように発言する。
「いい意見だ。君たちはどう思う?」
指を真っすぐに伸ばした掌を向けながら、大沢リーダーの視線が僕らに突き刺さった。
見渡すと、アサカを除く全員が血走った目で僕を見ている。
助けを求めるように清楚先輩を見る。彼女の表情はいつもと同じく微笑を讃えていた。だが、その目は笑ってはいない。
こういう時の対処法は一つしかない。僕はゆっくりと口を開いた。
「確かに今まで正しく生きるとは何かなんて、考えたこともありませんでした。大学では哲学の講義もあるので、自分の生き方についても見直してみたいですね。」
今までも幾度となく使ってきた、身体に染みついているメソッド。同意と共感だ。一旦自分を空っぽにしてから他者を全肯定し、共感する。決して踏み込み過ぎないことがミソだ。相手と打ち解けることはないが、不快にさせることもない。
続いてアサカが口を開いた。
「…私はこのドラマを見て『正しさ』とかは、特段意識しませんでした。だけど、そんな風に深く物事を見ている皆さんはすごいと思います。」
自分を下げて相手を上げる。無難な受け答えだ。僕はみんなが気づくかどうかわからない位、時間をかけてゆっくりと頷く。
大沢リーダーは表情を変えずに口を開く。
「ありがとう。2人とも正しく生きることについて、よく考えているね。合格だ。これまでの体験会を踏まえ、2人を正式にクレインに受け入れようと思うけどどうかな?」
「異議なし!!」
アサカ以外のメンバーが声を合わせ、示し合わせたように答える。
この茶番は何なんだ。それに『クレイン』とは一体何なのか?僕の疑問を見透かしたように、ニヤリと笑った大沢リーダーが言う。
「C・R・A・N・EでCRANE(クレイン)だ。僕たちのサークルの名前だよ。鳥の『鶴』という意味なんだ。」
やはり目は笑っていないまま、微笑みが貼り付いた表情の清楚先輩が続く。
「鶴は日本の象徴的な鳥よ。日本古来の伝統や正しさを守り続けるというイメージからとっているの。そして…」
「鶴は一生パートナーを変えないの。選んだ人と生涯寄り添うのよ。決して切れない絆という意味もあるのよ。」
清楚先輩の表情が崩れ、恍惚としながら言う。人によっては妖艶と感じるかもしれないその顔は、僕には薄気味の悪さを感じさせた。
「これから正式な入会の手続きを行う。アサカさんはここに残りなさい。君は僕と一緒に隣の部屋に行こう。」
大沢リーダーに手を引かれ部屋を出る時に、アサカと目が合う。その瞳は困惑と少しの怯えをたたえていた。
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