松尾芭蕉翁真伝

坂崎文明

古池や蛙飛びこむ水の音

「しかし、あの時ほど冷や汗をかいたことはない」


「ですが、思わね名句も生まれました」


 後の蕉門十哲の高弟、杉山杉風すぎやま さんぷうが頬をゆるめた。


「確かに」


 松尾芭蕉は数週間ほど前の危機的な出来事を想い返していた。


 隅田川を望める芭蕉庵は江戸深川の元番所、森田惣左衛門屋敷内にあった。

 芭蕉は屋敷内のの番小屋を改装して芭蕉庵と名付けた。

 かつては松尾桃青と名乗り、芭蕉庵は「泊船堂」と呼ばれていた。

 が、門人の季下から芭蕉一株を贈られ、それを草庵の庭に植えた際、松尾芭蕉に改名し「芭蕉庵」に改めた。


 その日は芭蕉庵で「蛙合かわずあわせ」という句会が開かれていた。

 かわず、カエルに因んだ句を詠み合うため、焦門下の高弟が勢揃いしていた。

 が、表面上は句会なのだが、幕府の隠密組織の情報交換の場でもあった。

 元番所、つまり、通行人や荷物、船舶などの検査や徴税を行った場所、現代でいえば、税関というか警察署的な土地の敷地内にある芭蕉庵。

 かつて芭蕉庵は「泊船堂」と呼ばれ、隅田川を往来する船からも直接上陸できる場所でもある。

 「松尾」といえば京都の松尾大社由来の秦氏有力氏族名である。

 秦氏の一族には服部半蔵などの江戸の治安をあずかる者もいる。

 伊賀上野村出身の松尾芭蕉には忍者説もある。 

 伊賀といえば伊賀忍びがいる。

 俳人、松尾芭蕉のもうひとつの顔は各地の動向などを探る隠密組織の元締でもあった。


「……蛙飛びこむ水の音」


 芭蕉の耳に僅かな水音が聴こえた。 

 おそらく、何者か、複数の侵入者が来ていると思われる。  

 焦門の高弟の服部嵐雪はっとり らんせつが素早く動いた。

 服部半蔵麾下きかの手練れの忍びでもあった。 

 他の高弟も一斉に庵外に飛び出していく。

 鈍い打撃音が連続した後に沈黙が訪れた。


「古池や」  


 杉山杉風すぎやま さんぷうが詠んだ。

 芭蕉庵の隣の池はかつて杉風が魚問屋を営んでいた際はになっていた。

 今では魚もいないため、水面は自生した草に覆われ、まるで古い池のようになっていた。


「古池や…蛙飛びこむ水の音」   


 芭蕉が句を締めた。


「危機一髪でしたな」


「蛙が知らせてくれた」


「何か褒美でも取らせますか?」


「蛙にか?」


 芭蕉の顔がほころんだ。


「旨いお茶を一杯、所望する」


 服部嵐雪はっとり らんせつが息も切らさず帰還した。


「我らは蛙ですか?」  


 杉風が言葉を重ねる。

 芭蕉庵に戻ってきた高弟たちが一斉に笑った。

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