第55話 一石は投じられた
「あうっ」
床に倒れ込む灰色の髪をしたメイド。そいつは姿勢をすぐに正し、頭を深く下げる。
「すみません! すみません!」
今はその謝罪の言葉すら、イライラした。
「何をしているの!?」
腹が立つそのメイドをもう一度蹴飛ばそうとしたところで声が響き、俺とそいつの間に割って入る奴がいた。そいつは小さなメイドを抱えるように庇い、俺を睨みつけて見上げてくる。
「…………」
「あなた、何をしているの!? 使用人に……それもこんな小さな子に!」
「……ちっ」
そいつが婚約者のセシリアであることに気づいて、少しだけ冷静になる。本当ならこの女ごとぶん殴りたいところだが、ただの使用人ならともかく、こいつに手を上げるのはマズイ。
「……次はねえぞ、クソガキ」
女の腕の中で泣きながら謝るガキを見下ろして静かに言い放ち、その場を去る。
いつまで経っても、俺の中にあるイライラが消えることはなかった。
×××
それが家のためならばと、私はその話に応じた。相手は南側を束ねる大貴族フォルス家の長男。向こうの家柄や立場だけを見れば、周りからは羨ましがられるほどの婚約者だろう。
けれど、私、セシリア・ワイルダーは彼を婚約者だとは思っていない。それはきっと彼、ゼロード・フォルスだってそう。そもそも私達の関係に当てはめられる言葉なんてない。
私達は初めて会ったときから水と油のように合わなかった。もちろん私にだって問題はあるんだろう。でも彼の、ゼロードの性格だけは受け入れられなかった。
暴力的で、乱暴者。さらには不真面目なところもあるし、極めつけは相手の気持ちを考えない。私以外の多くの女と関係を持っていることだって知っている。彼の気持ちが一切私に向いていないことだって知っている。
私だって、彼の事はまったく好きじゃない。それでも、彼の母親であるリーゼロッテ様には良くしてもらった。彼に対しては思うところしかないけれど、リーゼロッテ様には感謝しかない。
だから、きっと彼がフォルス家を相続して当主になっても私と彼の関係性は冷え切ったままなんだろうと思う。典型的な政略結婚、いいえそれよりも冷たい関係でしょうね。少なくとも彼の性格が少しはましにならない限りは、私から歩み寄ることすら無理だと思っていた。
でもまさか、こんな子供に手を上げるなんて。
「あなた、何をしているの!? 使用人に……それもこんな小さな子に!」
私の腕の中では小さなメイドの子が震えながら何度も何度も必死に謝っている。少し入るのが遅かったけど、確かに彼がこの子を蹴飛ばしたのが見えた。それどころか、さらに蹴ろうとしたことも。
「……ちっ」
到底信じられない行いをする彼の返答は、まさかの舌打ちだった。その態度に私は彼を強く睨みつける。この人は……まさかここまでだなんて。
「……次はねえぞ、クソガキ」
そう吐き捨てて去っていく彼。その背中を見れば、かつてない程の怒りを抱えているのが分かったけど、だからってこんなことをしなくても、と私の中にも怒りが沸き上がってくる。
彼が曲がり角を曲がり終えるのを見届けて、私は腕の中の子を見た。大きな怪我は無さそうだけど、大丈夫だろうか。
「……大丈夫?」
「はいっ……ありがとう……ございます……」
「なにがあったの?」
「私が……私がいけないんです……急いで走ったから……だからゼロード様にぶつかってしまって……全部私が……」
自分を責める小さなメイドの頭を撫でる。妹がいるからか、放ってはおけなかった。
「あなた……名前は?」
「そ、ソニアです……」
「そう……ソニア……いい? 今あったことは忘れなさい。あなたはちょっと運が悪かっただけ。思い出しちゃダメよ……あと、今日は出来ればあまり人と会わないようにした方が良いわ。私もなるべく早く帰るように働きかけるけど、このあとあの人があなたを見てしまったら、また殴られるかもしれないから」
「……はい」
頭を撫でて微笑む。大丈夫。小さいけど私の言ったことは分かるはずだ。
ゼロードに関しても、彼は今とても機嫌が悪いけど、会わなければソニアが理不尽な暴力を受けることはない。
「行ってソニア……少しでも楽しいことを考えて今日の残りを過ごしなさい」
「……はい……ありがとうございます、セシリア様」
頭を深く下げて、彼が消えた方とは反対側へと駆けていくソニア。彼女がこれから……いえ、今後彼の目に留まらないことを願った。
廊下の奥の部屋に入っていったソニアを見送って、立ち上がって歩き出す。少しだけ気分転換に屋敷の中を散歩しようとしただけなのに、とんでもないところに出くわしてしまった。時間も少しかかってしまったし、ひょっとしたらリーゼロッテ様がもう来て待っているかもしれないと思って、足早に来た道を引き返した。
そうして元の部屋の扉が見えたところで、その扉に手をかけようとするリーゼロッテ様を見た。
「リーゼロッテ様」
「あら? セシリアさん、どうしたの?」
リーゼロッテ様に走りよって、息を整えながら苦笑いする。
「す、すみません……ちょっと時間があると思って散歩してたら、遠くまで行ってしまいました」
「あらあら……セシリアさんでもそんなことがあるのね」
微笑んで扉を開けるリーゼロッテ様。その後に続いて、私も中に入る。優しげな彼女の横顔を見て、私は思わず声をかけていた。
「あ……」
「? どうかしたの?」
振り返るリーゼロッテ様に、言い淀む。さっきのことを話すべきかどうか。
「……セシリアさん?」
「いえ、なんでもないです。行きましょう」
結局、私は話さないことを選んだ。息子が小さなメイドに手を上げたことを伝えて、リーゼロッテ様が悲しむ様子が見たくなかったのもあるし、これからの時間を楽しみにしている彼女の気分を壊したくもなかった。だから、言わなかった。
――そこまで大ごとでもないし、ソニアもこの後は彼に会うのを避ける筈。だから大丈夫よ
そう自分に言い聞かせた。
この時、私がもしもリーゼロッテ様に話していれば何かが変わったのかもしれない、なんてことを思う。
でもきっと。
話したとしても、変わらなかったんだろう。
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