第四幕「Mime -マイム-」

 木造アパートの2階の俺の寝室の窓からは、真夏の残り香を内包した残暑の陽射しが照りつけ、クーラーのタイマーが切れた六畳間の温度を一気に押し上げた。悪夢に魘され微睡んでいた俺は、むわっとした熱気に吐き気を催し、水分補給のためにキッチンへと向かった。  

 その時、丁度、インターフォンの音が響き、俺は、ドアスコープから来訪者を確かめることなく、無防備にドアを開けた。


「エ……エリカ?」  


 エリカが俺の元を去って約1年。俺は、毎日、エリカの夢を見た。てっきり、先ほどの夢の続きを見ているのだと思った俺は、夢と現の狭間を彷徨うような呆けた顔をしていた筈だ。


「ごめんなさい……」  


 すっかりやつれてしまったエリカの大きな瞳から、大粒の涙が零れた。その涙が、エリカの頬を伝い、俺の手の甲を濡らした時、俺は、これがうつつであると認識した。


「いいよ……俺の元へ帰って来てくれた……それだけでいいから……暑いだろう? 中へお入り」


 俺は、戸惑うエリカの手を取り、抱きしめた。夢破れて帰国したエリカの瞳からは、以前のような輝きが失せていた。 俺は、彼女の笑顔を取り戻すために必死に明るく振る舞ったが、彼女は朽ちていく花のように日に日に衰弱していった。寝たきりになってしまった彼女のために、俺は、大学を休学し、四六時中、エリカの側で甲斐甲斐しく世話を焼いた。


「なあ、エリカ、君の辛い気持ちは痛いほど解るけど、そろそろ前を見ないか? 俺は君のことを絶対に裏切らないし、君が必要なんだ……今から新しい夢を見つけて、大学や専門学校に通うことだってできるんだし、俺もエリカの力になるから!」


「……たい……」  


 エリカの愛らしい唇から、俺が最も聞きたくない言葉が紡ぎ出された。


「し……に……た……」

「それは、本気で言っているのかい?」  


 エリカは、虚ろな目をしながら頷いた。


「わかった……それなら、俺も一緒に逝くよ。エリカが居ない人生なんて、俺は耐えられそうもないから……」  


 エリカの、感情を喪った瞳から、冷たい涙が零れ落ちた。


「ごめんね……ちょっと苦しいけど、我慢してね……俺もすぐ逝くからね」


 エリカは、白く美しい顔を歪ませ、踠き苦しんだ後、俺が愛した唇を動かし、 「あ…り…が…と…」

 と声にならない言葉を発した。  


 ―― エリカの時が止まった。  


 俺は、エリカを狂おしく抱きしめた。徐々にエリカの身体から熱が失われていくのを肌で感じながら、愛おしい唇に俺の唇を重ね合わせた。ひんやりとした感触……  俺は、テーブルの上に用意した薬を一息に飲み干した。

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