第三幕「Pas de deux -パ・ド・ドゥ-」

 「私なんかで良ければ……」


 エリカとの、3度目のデートの帰り道。 決死の覚悟で交際を申し込んだ俺が拍子抜けするほど簡単に、彼女はオーケーの返事をくれた。しかしながら、彼女の澄んだ瞳は、遥か遠くにある掌中に収まらない何かを見つめているようで、その瞳に、俺は映し出されていなかった。俺は、その瞳をよく知っていた。


(ああ……これ、今までの俺じゃん……)  


  虚しい気分にならなかったと言えば嘘になるが、エリカを俺のモノにしたことには違いなかった。


(エリカが、他の男のモノになるなど!)


 俺は、エリカと俺以外の男とのまぐわいを想像し、嫌悪感から、全身から血が噴き出るほど身体中を掻きむしりたいという衝動に駆られた。


「どうしたんです? 私、何か失礼な態度をとってしまいましたか?」


 俺の異変に気付いたエリカが、心配そうに俺の顔を覗き込みながら訊いてきた。


「いや……まさか、オーケー貰えるなんて思っていなかったから、からかわれているんじゃないかって不安になっちゃって……」

「そんなことありません……私、ちゃんと、ツバサさんのこと、好きです」


 俺は、そのまま、エリカを強く抱きしめた。 南の空には、オリオン座が、多少の憂いを帯びながら燦然と輝いていた。


***  

 エリカが高校を卒業して直ぐに、俺たちは同棲を始めた。 妹から聞いた話によると、エリカの家は相当裕福な家らしい。 エリカの方から、俺が一人暮らししているアパートに一緒に住まわせてくださいと言われた時、俺の中に、ごくごく自然な疑問が浮かび上がった。


「俺としては、エリカと多くの時間を共にできることはとても嬉しいことだけど……その……エリカのご両親は、反対していないのかい?」  


 エリカは、ばつが悪かったのか、暫く俯いてから、形の整った唇を開いた。


「実は私……プロに成りたいんです! 一流の選ばれしダンサーに成る才能がないことくらい、自分でもよく解っています。それでも、私は、バレエを続けたいっ! 一流のダンサーには成れなくとも、一生涯、バレエに携わるプロたちの中のひとりに成りたいんですっ! それで……大学に進学せずにバレエを続けるという選択肢を選んだ私は、家に居られなくなってしまったんです……生活費はアルバイトをしながら、ちゃんとお支払いします……だから……私と一緒に暮らしてくれませんか?」  


 エリカの大きな瞳から、熱を帯びた涙が零れ落ちた。


***  

 エリカと2人で過ごした時間は、俺にとって至福のひとときだった。 人並みの感情など生来持ち合わせていないと信じて疑わなかった俺の、一体どこから、これほどまでの感情が湧き上がってくるのか? 俺の20年の人生において、俺の心か身体のどこかに貯蔵されていた感情が堰を切ったように溢れ出した。


 小鳥が囀るような可愛らしい声、 俺の話を聞く時に、真っ直ぐ俺を見つめる大きな瞳、 わりとおっちょこちょいなところ、 負けず嫌いな性格、 エリカのすべてが、愛おしくて、愛おしくて堪らなかった。  


 俺は世界一幸せな男で、世界一エリカを幸せにしてあげることができる男だと思っていた。俺たちはこれからもずっとずっと、死ぬまで一緒で、寄り添い合って生きていくのだと思っていた。


 だから、エリカから、あの話を切り出されたとき、俺の目の前は真っ暗になった。


「ツバサさん……あのね、私、カンパニーのオーディションを受けようと思うの……」

「いいんじゃないか? カンパニーってことは、プロの団員になるってことだろう?」

「ええ……まあ、直ぐに団員に成れるかどうかは、私の実力次第なんだけど……“トレイニー《訓練生》“ か ”アパレンティス《実習生》“ に選ばれる実力は充分にあるって、先生も後押ししてくださっていて……」

「そうか……先生が太鼓判押してくれてるなんて心強いじゃないか! それで、どこのカンパニーのオーディションを受けるんだい?」

「……イギリスの……バレエカンパニーなの……」  

 エリカは、言いにくそうに答えた。俺は、暫くの間、声を出すことができなかった。予期せぬエリカの言葉に対し、思考が全停止したからだ。シャットダウンした脳が再起動した時、俺は、エリカのスラリと長い手脚を拘束し、何処へも飛んで行けないようにして一生俺の側に置いておきたいという、狂気に満ちた感情に支配された。 「俺は、反対だよ! 何も、海外に行かなくてもバレエは続けられるじゃないか! それに、君は、両親に勘当されているんだ! そんな不自由な立場で、よくもぬけぬけと、そんなことが言えたもんだ! 先生に何を吹き込まれたか知らないけれど、冷静に考えれば、君がどれだけ、無謀な冒険をしようとしているのかわかる筈だっ! 絶対に後悔するに決まっている! 俺は、絶対にエリカをイギリスになんて行かせないっ!」  


 それから数日間、俺たちは、一言も言葉を交わさなかった。 そして、1週間後、俺が大学に行っている間に、エリカは俺の元から飛び立って行ってしまった。

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