第二幕「Fondu -フォンデュ-」

 子どもの頃から、俺は、感情というものを一切表に出すことがなかった。“出さない” というのは、厳密に言えば誤りであって、正しくは、俺の中には “感情“ というものが欠落していたのだ。特に生まれ育った環境に問題があったわけではない。両親は優しかったし、ふたつ年下の妹も、俺に懐いていた。 俺に言わせれば、“感情の欠落それ” は、一個体のシステムの初期不良みたいなものなのだが、それを、クール、とか、ミステリアス、とか……勝手に妄想を膨らませた女たちが、誘蛾灯に誘われるようにして、俺に近寄って来た。だから、俺は、自ら”女”というものを欲しがったことは、ただの一度もなかった……  あの日、”エリカ”と出逢うまでは……


***    

 俺は、彼女に近付く為に、まるで人が変わったかのように、死に物狂いで行動した。 まずはじめに、妹のセイラをだしに使って、里奈の友達が所属しているバレエ教室の見学に行った。


「いやあ……先日の舞台はとても素晴らしかった! 特に、貴女が演じた “オデット” と “オディール” は素晴らしかった! 偶然、高校の友達と舞台を観ていた俺の妹が、すっかり、貴女に魅了されてしまって……『今からでも、バレエ始めることってできるのかなぁ?』なんて言い出したもんだから、ならば、見学だけでもさせて貰おうってことになりまして、すみれさんに連絡をさせて頂いた次第なのです。ご迷惑ではなかったでしょうか?」


 『白鳥の湖』の公演後、主役であるオデット役の菫という里奈の友達に、無理矢理、彼氏紹介された俺は、菫にせがまれて、こっそりLINE交換をしていたのだ。  俺の偽りの言葉にご満悦なご様子の菫は、

「迷惑だなんてとんでもない! そう言って頂き嬉しい限りです。先生もご見学の件、快諾しておりますので、今日は、いくらでも心ゆくまで見学して行ってくださいね。先日の舞台に出演していた子たちのほとんどは、この “中高生・大学生” クラスにおりますので」

 と言って、したり顔でウォームアップを始めた。当然、俺と妹は、自分のことを見ていると思い込んでいるのだろう。「さあ! 私を見て!」と言わんばかりのそぶりを見せる菫の姿から、俺は、すぐさま視線を逸らし、広々としたスタジオ内を見渡し “彼女” の姿を探し求めた。 菫を入れて、5人の生徒が、各々のペースでウォームアップを行なっていたが、“彼女” の姿は見当たらなかった。妹は、欠伸をしながら、俺の耳元で囁いた。


「なあ、お兄、私、バレエとか、全然興味ないんだけど……お兄の目当ての女見つけたら、本当に、iPad買ってくれるんだろうな?」


 “バレエ“ ではなく、“バレーボール“ にのめり込んでいる活発でボーイッシュな妹がバレエに魅了されたなんて大嘘だった。


「ああ……オマエがそれ相応の働きをしてくれれば、iPadくらいいくらでも買ってやるよ!」  


 そうこうしているうちに、バレリーナの卵たちが、1人、2人……とスタジオに、舞い込んで来た。


「皆、顔ちっせーよなっ! オマエの顔、少し分けてやれば?」


 俺が、セイラをからかうと、セイラは容赦なく俺の足の甲を踏みつけて来た。あまりの痛みに耐え切れず、思わず、ギャッと、間抜けな声を発した瞬間、スタジオの扉が開き、8人目のバレリーナの卵が入って来た。


「あっ! 藍浦あいうらさんじゃない? こんなところで何やってるの?」


 妹に向かって話し掛けてきたバレリーナの卵の顔を見た瞬間、俺の手脚は緊張のあまり、ガクガクと震えた。心臓の音がバクッ、バクッと、叫び声を上げ、俺は、このまま召されるのではないかと思った。それなら、それでもいい、とさえ思った。


「うっす! 天羽あもう先輩! 実は、私、この前の『白鳥の湖』の舞台観に行ってて、バレエ、イカす! って思って、ちょっと見学しに来ました。あー、これは、私の兄貴っす!」  


 セイラは、俺の脚の脛を蹴り、挨拶するように促した。


「あ……あの……はじめまして……俺、セイラの兄の、藍浦あいうらツバサっていいます。いつも……妹がお世話になっているようで……何よりです……」  


 緊張のあまり、声を震わせる俺の目を真っ直ぐに見つめながら、彼女は、


「セイラさんと、美化委員会でご一緒させて頂いております、天羽あもうエリカ、と申します。私たちの舞台に興味を持ってくださりありがとうございます」

 と言って、女神のような微笑みを浮かべた。この瞬間から、俺の双眸は、彼女以外を捉えることができなくなった。

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