『バケモノ』
「先輩、無事ですか⁉」
蛇は土に還った。純粋無垢な、穢れを知らないアスカの手によって。
死亡を確認した後、セカンドへ駆け寄る。彼の上に倒れ込む蛇の遺体を退かし、力を失ったその腕を抱えて。血に濡れたマスクの瞳孔から、その瞳を覗き込んだ。
「アスカさん……俺はいい、早くダンジを。毒を喰らっています」
「わかりました! 先輩、――聞こえますか⁉」
毒爪が貫通した戦闘スーツ。胸部の傷口から流れ出す血は、身体保護性能を破壊されたスーツでは止めることができない。アスカは自身のジャケットを脱ぎ、無我夢中で傷へ押し当てる。たとえ意味がなくとも、彼女は仲間を死なせまいと必死に、――祈った。
「……はは、ざまぁねえぜ。お前らにこんな姿見せるなんて゛よ……――ッゔ」
「あ、あまり喋っちゃダメですよ! 傷が開きます……」
喉奥からゴロゴロと、血を含んだ声。
アスカは急いでマスクを解除し、ダンジの素顔を露わにする。
……血相が青い。眼球が充血し、首のリンパ周辺が青黒く腫れあがっているようだ。一秒一秒と時が進むにつれ、呼吸は浅くなる。
――蛇の出血毒。血液を凝固させるものだが、凝固因子を消費する為に逆に血液が止まらなくなる。最終的には失血死。本来ならば血清によって解毒できるはず……しかし、投与された量と経過時間を鑑みれば、それは。
『――さん、……告せよ……アスカさん!』
無情にも進み続ける時の静寂に、無線機からノイズに阻害される声。
電波状況が回復したのか、コマンダーが呼びかけていた。
『状況を報告せよ! みんなはどうなった⁉』
「コマンダー! ジョージが被毒により重体です……早く救援を!」
『毒だと⁉ ――おい、国防省に医療部隊の使用を要請しろ!』
オペレーターへ指示を下す様子が伝わる。
しかし、国防省管轄の部隊を動かすには、政府中枢からの正式許可を得なければ不可能。そこまで行き届く権限が、たかが部隊指揮官である大月タスクには無い。
……それでは間に合わない。
その悠長とも言える行動に、アスカは腹の底から強い感情が湧き上がるのを感じ、叫ぶ。
「そんな事している場合じゃないでしょ、馬鹿なんですか⁉ 救急車でも何でも……」
『馬鹿はそっちだ、新城アスカ! 親衛隊が、それもアンノウンが病院になど行けるわけないだろう⁉ その肉体は国家最重要機密なのだぞ!』
「そんな……でも、早くしないと先輩が、」
『とにかく迎えに行く! それまでに死なないよう、常に話しかけろ!』
親衛隊は秘密組織である――その弊害がここで響く。
古今東西変わらぬ、日本人の
血清が無ければ助からない。しかしそれは、軍や大型の医療機関でなければ得られない物。……否、それを以てしても助かる保証はどこにもない。――それでも、諦めたくなかった。
ふと、青ざめる唇が動く。酷く掠れた声でジョージは言った。
「なぁ、アサヒよ……惜しい事をしたな? せっかく親父さんの手掛かりになりそうな奴を見つけたってのに……殺しちまった。局長も攫われちまったしよ」
「そんなのはまた探せばいい……奴らと戦い続けていれば、必ず辿り着ける」
「そうかい。――しかし、死の間際に妹の名を叫ぶとは……相変わらずのシスコンっぷり」
「シスコンじゃないって……もう、喋るなよ」
彼が言葉を発する度に血が噴き出す。しかし、まるで人生最後の言葉を搔き集めて、吐き出すように。それだけ必死だった。
それが死を早める。だから喋らせたくない。それでも自然と、アサヒは彼の言葉を欲した。それが途切れる前に、一言でも多く聞いておきたくて。
「アスカちゃんは、お友達を助けにここへ? ……この戦場に単身で乗り込んでくるとは、随分勇ましくなったもんだ」
「……私、強くなりましたか?」
「おうよ。モニター越しで敵が死ぬ度にギャーギャー言ってたとは思えねぇな。……まぁそれは、殺すという行為を見慣れちまったって事だが。だけど必死に見届けてくれようとしてくれたんだよな――俺たちが、先へ進む為の戦いを」
「もちろんです! ……私には、その責任があるので」
彼の頭を抱え、二人はその頬に手を回す。
――冷たい。
「……あの蛇野郎、同志だの再興するだの訳の分からん事をほざいて。〈リマインド計画〉とか言ったか、そんな事を口走ったな……何をする気か知らんが、止めねぇとな」
「あぁそうだ、止めるんだよ! あんたも一緒に……だから、そんな最後の言葉みたいなのは止せよ!」
「もちろんだ、……と言いたいところだがそれは無理そうだ。……なんかもう、何も感じねぇんだ」
白くぼやける視界。細胞が死に始めたのか、ナノマシンが肉体を支えきれなくなったのか……それすらも感じれないほど、毒が回ったらしい。
その血まみれの白い世界の中で――ふと、見えたものがある。
人間? 男と女だ。男は大柄で、女は華奢で……自分によく似ていて。
あぁ、そうか。あれは。
「
両親が戦災で死んでからは、いつも一人だった。敵国の人間である父を持ち、その血を受け継いだ自分は、蔑みの対象だった。自分は敵だった。
かつて、親衛隊と出会うまでは。
似通った運命を辿る仲間と出会い、互いの心情を思いやり、共に戦った。過去への断罪ではなく。自分を敵たらしめた戦争、敵と見做した者たちへの復讐ではなく。――その過去から先へ進む為に。アサヒのように。
「アサヒ……必ず、必ずだ。親父さんへ辿り着け、そして暴け! ……
「おい逝くな、――やめろダンジ!」
「先輩!」
そう、呼びかけた時。桐山ダンジの熱は消えた。
微かに体内で
**********
その瞬間。国防省・親衛隊特務課――中央情報処理室。
八一五部隊のアンノウン、そのナノマシンコアのデータが記されたモニターに一つ、表示が変化する。
〈Codename: George、System shutout.
**********
言葉にならない嗚咽を、二人は我慢できない。握りしめた拳をダンジの体に置き、アスカはその上に涙を落して。アサヒはマスクの中に涙を溢れさせて。
失った、――再び。大切な物を奪われたのだ。彼らの前世代が残した、大きな負債に。その傷は子供たちである彼らを蝕む。
「アス……カ?」
ふと、ホールの片隅から自身を呼ぶ声がする。
その声に息を詰まらせた。悲しみと怒りを掻き消す安堵感。と、同時に感じるのは恐怖。……自分が、声の主にアスカだと認識されてしまっている事に。
ゆっくりと、振り返った。
「マリ」
「アスカ……ここで何してんのよ」
「マリ、私は――」
「答えなさいよ! この惨状は何なのよ、あんたが抱えているそのバケモノは、一体何だっていうのよ! ……答えてよアスカ⁉」
震えた唇が強張り、アスカに対して牙を剥く。無事であった親友が向けたその目は、かつてアスカが知っていたものではなかった。
そう、まるで――アスカが初めてアンノウンを、親衛隊の戦いを見た時のような。ヒトではない、バケモノへ向ける恐怖と
「あんたは一体……何をしてんのよ。私たちが何をしたって言うの……何とか言いなさいよ! そして見てみなさいよ……そこに倒れた人たちを!」
血に濡れたマリの手、その指が差す方向をふと見下ろす。
――吐き気がした。ホールから脱出しようとしてテロリストに撃たれた人々の、遺体。その中で、マリが必死に手繰り寄せる体があった。……それが誰なのか、考えずともわかる。以前にも会ったことがある、親友の両親なのだから。
「どうして私たちがこんな目に会わなきゃいけないの⁉ 私たちは何も悪くないのに、普通に生きていただけなのに! パパとママだってそう、さっきまで普通に笑っていた二人が、今はどうして血まみれで動かないのよ⁉ あぁ、嫌……パパあああああああああ! ママああああああああ!」
「マリ……ごめん、私は! ……私は」
何も言葉が思いつかなかった。理由はわかっている。自分には「奪われた」という経験が無いから。否、今しがた初めて経験したばかりで。
「返してよ……みんなを返してよ⁉ この、……人殺しのバケモノ!」
――バケモノ、私が?
アスカを今にも呪い殺さんと、マリの叫びは親友の精神を抉る。呆然と立ち尽くす自分に向け、マリが突き刺すその言葉は、視線は、感情は……
それで悟る。自分はもう、現実を知らない平和主義者ではない。傍観者でもない。
私は……奪ったんだ。
戦いという行為に身を投じて、殺戮の輪の中に自然と入り込んで。彼らを支えるのだと自己暗示して、その気になって。そうして向けられる言葉と視線は、自分たちがバケモノと罵ったテロリストへのものと同じ。
「……あんたもなのね。あんたの爺さんも、この国からたくさんのものを奪っていった。えぇ……それと同じよ」
「――? アスカさん、何の話です」
不意に口に出された、アスカの祖父の話。何も聞いたことのない話、しかしその中にある「奪った」という言葉に、妙に引っかかる。
次にマリが発する言葉が、それを裏付けた。
「ほんと……流石は〈戦犯の孫〉ね」
**********
泣き崩れ、精神が壊れかけていることを表情が物語る。喉が枯れるほどに叫んだマリは、肩を落として下を向く。そして、アスカの顔を見なくなった。――もう、二度と。
ふと我に返り、ヘリの
『……みんな、乗れ。もうじき軍がやって来る、撤収だ』
破壊された壁の外、コマンダーが乗るβ機が
「コマンダー……マリは、どうすればいいですか。別班が処理する時間もないでしょう?」
『……致し方あるまい。その様子を見るに、暗示によって全て忘れさせることも不可能に近い」
その返答は最悪の形で。望まぬ形で突きつけられる。
『最悪の場合、銃殺だ』
「――⁉ そんなことって」
『あるさ! ま、最悪の場合での話だが……現状は非常にそちら寄りだ。お友達の様子を見るにな』
「そ、それは……証拠隠滅と捉えても?」
『そう捉えたいなら、それでいいさ』
マリは全てを見た。親衛隊とファントムの存在、そしてアンノウンを。
その
見た物と一緒に存在も消してしまうなら、十分すぎる条件。
『アスカさん、今は友情を謳っていられる状況じゃない。僕の判断で命令を下す。その時は……
――どうして? どうして親友を、マリを撃たなければならないの。彼女は何を悪い事なんてしていない。テロに巻き込まれた被害者なのに……どうして。
そんな戯言は無常に切り捨てられる、アスカは理解していた。
コマンダーは、――大月タスクとはそういう男だ。それが如何に無情で残酷な命令であっても、組織の為とあらば必ず下す。たとえ自分の良心が判断を鈍らせても、それを組織への忠誠心で押し殺せる。ある意味で優秀な男。
そんな男を、〈現実〉という荒波が後押しするのだ。アスカがどうこうできる事ではない。
「――マリ、私」
「アスカ……? ねぇ、なんなのよ。その手に持っている物でどうする気⁉ あんたは私まで殺すの⁉」
持ち込んだ拳銃には、残弾が数発入っていた。それを握る手が震え、スライドがカタカタ
と鳴る。
銃を握る彼女の目を見て、マリは恐れた。何故ならそれはもう、……かつての親友には見えなかったから。
「この人殺し……あんたとなんて出会わなければよかった! このクソ、バケモノ!」
「あ、あぁぁ……」
「ねぇ、アスカ! アスカああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ⁉」
回天翼の轟音と共に、東京の夜空に響く叫声。
それに掻き消されたのか、はたまた元より無かったのか。
銃声が響くことはなかった。
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