エピソード11 中国茶の作法

「金が欲しくないのか」

 曹瑛はテーブルの中央に押し返された茶封筒をそのままに、伊織を見据える。

「金の問題じゃないよ。そもそも俺仕事してないし」

 思い返せばガイドの仕事など何もしていない。曹瑛が行きたい場所を調べて、そこについて行っただけだ。こんな大金は受け取れない。


「今回のガイド役は新宿界隈を拠点とする組織の三下と聞いていた」

 曹瑛は手持ち無沙汰にジッポの蓋を開閉している。

「組織の三下……」

「お前こそ何者だ」

 曹瑛は眉根を顰める。

「元広告代理店の営業マンで、今は無職」

 伊織の堂々たる答えに、曹瑛は盛大な溜息をつき頭を抱えた。


 中国と日本、複数の中継ぎを経て話が変わったのだろう。伊織は裏社会の人間にしては脳天気な奴だと思っていた。しかし、裏社会の人間よりもよほど気骨があり、信頼できる。ここまで泣き言を言わずについてきたのは大したものだと、内心買っていた。

 だが、龍神の情報の糸口は掴んだ。そして古巣八虎連の動きは思ったより速かった。これ以上は足手纏いだ。


「この際、腹を割って話そう」

 伊織は真剣な表情でテーブルに拳を置く。

「それで俺に何の得がある」

「そう言われると、その」

 勇気を出して切り出してみたものの、曹瑛につまらなそうに返答され、伊織は言い淀む。曹瑛は歌舞伎町で必要な情報を得た。もうお役御免なのだ。


 歌舞伎町に蔓延る新種のドラッグ、そして曹瑛の目的と正体。それを知りたいと思ったのは、つまらない日常からの逃避なのかもしれない。

 今日はとんでもなく濃密で刺激的だった。だが、命が幾つあっても足りない。曹瑛とは棲む世界が違いすぎる。何故か、悪人だとは思えなかった。この男が何をやろうとしているのか知りたい。これは好奇心なのか、それとも。


「お前は役割を果たした。これ以上は何も望んでいない」

 曹瑛の冷ややかな声と突き放すような言葉は、伊織の胸を抉る。正式な解雇通告だ。

「じゃあ、うち帰って寝ます」

 居たたまれなくなった伊織は立ち上がり、リビングに置いた旅行鞄を肩にかける。重い足取りで玄関へ向う。明日この部屋のチャイムを鳴らしても、曹瑛はもう居ない気がした。これで終わりだ、そう思いながらドアノブに手をかけた。


 不意に空を切る音がして、風を感じた。恐る恐る横目で見ると、ドアに銀色のナイフが突き立っている。振り向くと、曹瑛が無表情のまま大股歩きでドアに向ってくる。

 まさか、気が変わって口封じをするつもりなのか。伊織は恐怖のあまり、一気に全身に鳥肌が立つ。逃げなければ殺される。


「うわあああっ」

 伊織は慌てて肩でドアを押すが、空かない。鍵がかかっている。鍵を開けようとする手が震える。落ち着け、自分に言い聞かせる。ガチリ、と音がして鍵が開いた。

「茶でも飲んで行け」

 背後に立つ曹瑛はそれだけ言うとドアに刺さったナイフを抜き、踵を返した。伊織は拍子抜けして、ドアにもたれかかる。曹瑛はキッチンでなにやら支度を始めた。

 

***


「何も、ナイフ投げなくたって。殺されるのかと思ったよ」

 もとの席に戻った伊織はふて腐れている。

「お前を殺して俺に何の得がある」

 曹瑛は口元には皮肉な笑みが浮かべ、フンと鼻を鳴らす。ティファールのポットに水を入れ、湯を沸かし始める。


 目の前には白露茶荘で買った茶器が並んでいる。曹瑛は厚みのある木製の盆に慣れた手つきで茶器を並べていく。

「これは茶盤だ。流した湯の受け皿になる」

 曹瑛は桐箱から茶葉を取り出し、茶荷に入れる。茶葉は深緑色で、乾燥させて小さく丸めてある。中国茶といえば、ペットボトルの烏龍茶くらいしか知らない伊織にはすべてがもの珍しい。


 曹瑛は沸騰した湯を茶壷ちゃふうに注ぐ。日本の急須を一回り小さくした大きさだ。

「あれ、茶葉を入れないの」

「まず、器を温める。温度が重要だ」

 曹瑛は茶壷の湯を公道杯ピッチャーに注ぐ。公道杯から細長い形状の聞香杯、日本の湯飲みのミニ版、茶杯へ注ぐ。長くしなやかな指の流麗な動きに思わず見とれてしまう。


「これは安渓鉄観音あんけいてっかんのんだ。烏龍茶と同じ青茶に属する」

 茶葉は発酵度により緑茶、青茶、紅茶、黄茶、白茶、黒茶に分けられる、と補足する。

 曹瑛は茶匙を使い、茶荷から茶壷に茶葉を入れる。茶壷を手に取り、軽く振ると、カンカンと涼やかな音がした。

「茶葉が引き締まっていると音がする。良質な証拠だ」

 沸騰した湯を高い位置から注ぐ。ふわりと爽やかな香りが漂ってきた。茶壷を湯で満たすと、表面に泡が浮いてくる。茶壷の蓋で泡を取り、蓋を閉める。


 ポットを手に取り、茶壷に湯をかける。湯は茶盤の隙間から流れ落ちていく。温まった聞香杯と茶杯の湯を棄てる。伊織はここにきて茶盤が必要になる理由を理解した。

 曹瑛は聞香杯に安渓鉄観音を注ぎ、茶杯を被せる。

「これで香りを楽しむ」

 茶杯をひっくり返し、空になった聞香杯を伊織に差し出す。


「すごい、良い匂いがする」

 砂糖を入れない茶がこんなにも透明感のある甘い香りがするとは、伊織は目を見開く。

「蘭の香りだと言われている」

 曹瑛は茶杯を伊織の前に置く。白い茶杯に澄み切った美しい黄金色が映える。口に含むと、清涼感のある香りが鼻に抜け上品な優しい甘みが舌に広がる。喉を通った後も馥郁とした味が微かに残っている。


「うわあ、美味しい。こんなお茶初めて飲んだ」

 伊織は感激して深いため息をつく。気が付けば、さきほどまで乱されていた心が穏やかに落ち着いていた。

「茶壷や茶杯が小さいのは味や香りを逃がさないためだ」

 オモチャのようだ、と思っていたがここにも理由があったのだ。伊織は中国茶の奥深さに感心する。何より、先ほどまで人を殴ったり蹴ったりしていた男にこれほどの風流があることに驚いた。


「瑛さんの仕事ってお茶屋さん、じゃないよね」

 二杯目を味わいながら伊織が恐る恐る尋ねる。気怠げにテーブルに頬杖をついていた曹瑛が眉根を顰める。

「俺の仕事は暗殺だ。組織の指令でターゲットを殺す」

 衝撃的な言葉に伊織は目眩を覚えた。訪れた重苦しい沈黙に心臓が早鐘を打つ音が残響する。


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