エピソード12 友達の条件
「お茶のおわかり、ください」
伊織は空の茶杯を差し出す。曹瑛は無言で茶壷に湯を注ぎ、二煎目を淹れ始める。
「仕事って何年目ですか」
「十四の時に初めて殺した。それから二十年は経つ」
曹瑛は平然と答えながら、茶壷から公道杯に茶を注ぐ。綺麗な指だ。その手で何人を殺めたのだろうか。
細身なのに尋常ではない腕力、俊敏な身のこなし、どんな武器でも扱えるスマートさ、何事にも動じない姿、すべてに合点がいった。
「組織を退職したのはパワハラとか、給料が割に合わないとか、ですか」
「強いていえば、人間関係だ。専属コーディネーターが内紛で殺された」
曹瑛はマルボロに火を点ける。その瞳には微かな憂いが滲んでいた。伊織は茶を飲んで動揺する心を静める。
「てことは、瑛さんも命を狙われているわけ」
「そうだな、円満退社ではないから裏切り者として追われている」
細い煙が天井に立ち上って消える。
「日本に来たのは前職の追っ手から逃げるためなの」
「違う。人を探している」
「わかった、それが龍神と関係あるんだ」
伊織は閃いたとばかり、手を叩く。
「人探し、手伝うよ」
伊織はテーブルから身を乗り出す。
「もう手がかりは掴んだ。お前は足手纏いになる」
とりつく島のない曹瑛に、伊織は怯んだ。しかし、一度落とした目線を上げ、曹瑛の目をじっと見据える。
「受けた仕事、やり遂げたいんだ」
「それはお前の自己満足だ、知ったことか」
食い下がる伊織に曹瑛は小さく舌打ちをして、長くなったタバコの灰を灰皿に落とす。
「じゃあ、友達として手伝う」
曹瑛は唇を歪め、あからさまに眉根を顰める。
「正気か、ここまで話たのはお前を追い払うつもりだった。一体何を聞いていた」
「瑛さんは、決意して悪の組織を退職して新しい人生を踏み出そうとしている」
伊織はしたり顔で語り始める。「悪の組織」のところで曹瑛は天井を見上げ、半開きの目で溜息交じりの煙を吐き出す。
「俺は就職活動がままならず、悩んでる。瑛さんと似た境遇なんだ」
伊織は神妙な表情で黄金色に光る茶を見つめる。全然違う、と曹瑛は反論したくなったが、面倒なのでグッと堪える。
「龍神の取引を仕切っている人を探して、はっ、まさかドラッグの売人に転職する気じゃ……それはやめた方が」
伊織は恐ろしい考えに青ざめる。曹瑛は沈黙を守ったままタバコを揉み消した。
「俺は中国東北部、ハルビンの貧しい寒村で生まれた。金に目が眩んだ両親は年端もいかぬ俺と兄を八虎連という黒社会の組織に売り飛ばした」
曹瑛はまるで他人事のように冷静な口調で語り始める。
曹瑛を助けようとした兄は抵抗し、使者に殺された。凍えるような寒さの雪の降る夕暮れだったのを覚えている。
曹瑛は拉致され、組織の所有する農園で強制労働を強いられた。おそらく栽培されていたのはドラッグだ。体力の無い子は死んでゆき、曹瑛は生き延びた。
組織に忠誠を誓う暗殺者に育成すべく、十歳になった曹瑛は養成所へ送り込まれた。そこでも過酷な日々が待っていた。人体を的確に破壊する術を叩き込まれ、あらゆる武器に精通できるよう厳しい訓練を受けた。
地獄のような世界で生きる目的はただひとつ、兄を殺した男への復讐。復讐のためにはどんなことをしても生き延びる。復讐への執念こそが、狂気と暴力の渦巻く環境で曹瑛の正気を保つ礎だった。
「生き延びるために組織の命じるまま、人を殺めた」
曹瑛の淡々とした語りはあまりに重く、伊織は沈痛な面持ちでただ押し黙る。
仕事をこなしながら兄の仇を探した。使者は二人、まだ生きていれば壮年だ。幹部にのし上がっているのなら、正体を暴くことは不可能に近い。下っ端には会うことはおろか、顔を知ることすら困難だった。
ある情報筋から誘拐と
「名前は黄維峰。今回の取引は特別だ。奴は自ら日本に出向く」
曹瑛は暗い瞳に殺気を宿す。地下試合にいた黒服はこれからもっと量を捌ける、と言っていたことを伊織は思い出す。
「瑛さん、ありがとう。話してくれて」
伊織は目頭が熱くなるのを感じた。やるせない怒りに身体が打ち震えている。
「くだらない同情などするな」
ここまで話せば怯えて逃げ出すと思っていた伊織の反応に、曹瑛は内心戸惑う。
「友達として、俺も手伝うよ。そいつを見つけて取引を止めよう」
伊織は拳を握り絞める。龍神の取引を放置すれば、タカヤの彼氏のような悲劇の連鎖は止まらない。
「誰が友達だと言った」
「契約破棄だから雇用関係は無くなった。それに、腹を割って話をしてくれた。だからたった今から友達」
伊織の屁理屈に曹瑛は呆れている。
「でも、条件がある。絶対約束して欲しい。人を殺さないって」
「それは時と場合による」
「暗殺者は過去の仕事だろう、だからもう殺さなくていいんだよ」
伊織は真っ直ぐに曹瑛を見つめる。曹瑛は言葉を失い、黙り込む。
「瑛さんの淹れたお茶、良い香りがしてすごく美味しかった。本当に感動したよ。それに色も澄んで、すごく綺麗で。こんなお茶を淹れることができるのは心が綺麗な人だ」
悲惨な過去が無ければ、明るい光の中を歩んでいられたはずなのに。伊織は悔しさに唇を噛む。
「そうだ、新しい仕事はお茶屋さんがいい、きっとたくさんの人が喜ぶよ」
伊織は名案だ、と悦に入っている。
「先に風呂に行ってこい」
曹瑛は立ち上がり、茶器の片付けを始めた。伊織に背を向けたその顔には微かな笑みが浮かんでいた。
伊織は頷いて着替えを持ってバスルームへ向かう。熱いシャワーを頭から浴びると、一気に疲れが押し寄せてきた。今日はあまりにもいろんなことがありすぎた。でも、悪くない一日だった。
入れ替わりで曹瑛がシャワーを浴びている。この部屋には寝室にベッド、リビングにソファがある。どっちで寝るか交渉をしていなかった。
「瑛さん、どっちで寝る……ぶふっ」
バスルームから出てきた曹瑛の姿に、伊織は堪えきれずに吹き出した。
「何がおかしい」
濡れた髪をバスタオルでがしがし拭きながら仁王立ちする曹瑛は、奇妙なペンギンに似たキャラクターが真ん中についた黄色いTシャツに黒のジャージを履いている。
たらこ唇に目を見開いた謎の生き物と目が合って、伊織は腹を抱えて爆笑する。
「ど、どこで売ってるのそのシャツ」
「
曹瑛が真顔で答えるので、伊織は呼吸困難に陥る。オーダーメイドのスーツを隙無く着こなし、セレクトショップの店員を唸らせる見目麗しい男の部屋着がこれほどまでにダサいとは。
「俺はこっちで寝る」
曹瑛は意味がわからない、とぼやいてソファに横になり毛布にくるまった。伊織は自動的にベッドで寝ることに決まった。
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