エピソード9 強引な聞き込み
「うおおおっ」
観客が野太い雄叫びを上げる。中には女性の甲高い声も混じっている。
伊織が居並ぶ観戦客の肩の隙間から覗き込むと、上半身裸の筋肉質の男と短く刈り込んだ髪を金髪に染め、首に鎖を何重にも巻いた男が素手で殴り合いをしていた。裸の男は全身を覆い尽くす蛇の刺青を施している。
金髪が頬を腫らし、瓦礫の散乱する地面に血の混じった唾を吐く。刺青男の拳が顔面にヒットしたようだ。
地下試合の会場は観客のタバコの煙と安物の香水の匂い、そして獣の汗と血の匂いが充満している。獰猛な目をした血みどろの選手、それを見て歓喜する野獣たち。そしてこの闇試合を手の平で転がすプロモーター。ここには良心のあるものはいない。
伊織は目の前に広がる凶悪な光景に戦慄し、曹瑛を振り返る。
「瑛さん、まさかこれに出場するの」
「寝言は寝て言え」
曹瑛はタバコを床に投げ捨て、靴先で揉み消す。観戦客の輪を遠巻きに、腕組をしたまま会場の様子をつぶさに観察している。天井にはカメラが設置してあった。頭上に一台、左右の柱に一台ずつ。試合の様子を動画チャンネルで配信しているのだ。
観客のスマホ画面を覗き込むと、選手のオッズ表が表示されていた。これは賭け試合でもある。チンピラの同好会ではない、それなりの組織が背後について運営しているはずだ。
コンクリの柱を背にして立つガタイの良い派手な柄シャツの黒服の男を見つけた。黒服は冷静に試合運びを監視している。曹瑛は黒服の傍に静かに歩み寄る。
ひときわ大きな歓声が上がった。金髪が刺青の首に鎖を巻き付け、締め上げている。曹瑛は黒服の正面に立つ。
「何だお前は。見えねえだろう、向こうへ行きやがれ」
視界を遮られて苛立つ黒服が眉間に皺を寄せ、曹瑛を威嚇する。
「龍神を知っているか」
曹瑛が低い声で尋ねる。瞬間、黒服の目が凶暴な色を帯びる。黒服は曹瑛の首を締めようと両手で掴みかかる。
曹瑛はそれより早く黒服の額を掴み、コンクリの壁に叩きつけた。
「うがっ」
黒服は脳震盪を起こし、よろめく。試合は佳境なのか、熱狂的な雄叫びが響く。
曹瑛は黒服を柱の陰に引きずり込んだ。両手で頭を鷲づかみにし、親指で的確に眼球を圧迫する。黒服は恐怖に怯え、曹瑛の手首を掴んで引き剥がそうとする。
「動くな。このまま力を入れるとお前の眼球は破裂する」
黒服は小さな悲鳴を上げて抵抗を諦め、両手を引っ込めた。
「どこで仕入れた」
「俺は知らない。ここの仕切りを任されているだけ……ぎゃっ」
曹瑛はさらに握力をかける。黒服は眼球を圧迫され、やめてくれと懇願する。凄惨な脅しに、伊織は呼吸を忘れたまま呆然と立ち尽くす。
「ここで捌けと言われた。選手には最初はタダで渡せと。龍神をキメたら試合が盛り上がるんだって聞いた」
選手の凶暴性を煽り、残虐な流血試合を誘発しているのだ。
「龍神の流通ルートを言え」
「本当に知らねえんだ。でも、これからもっと量を捌けると聞いた。俺は下っ端なんだよ、もういいだろう」
黒服は怯えきって情けない声で泣いている。曹瑛はこれ以上の脅しは無意味だと判断したのか、手を離した。
「ふざけやがって」
態度を翻した黒服が拳を振り上げ、殴りかかる。曹瑛は前蹴りを放つ。腕と脚のリーチの差は歴然だ。黒服は背中をコンクリの柱に強かにぶつけて激しく咽せる。曹瑛は間髪入れず掌底を額にヒットさせ、黒服は後頭部を柱に強打してその場に崩れ落ちた。
曹瑛は気絶した男の胸ポケットをまさぐり、名刺入れから箔押しのエンブレムに墨文字の名刺を取り出す。
「うわ、趣味悪い名刺、ってこれヤクザだよ」
伊織が曹瑛の手にした名刺を見て驚愕する。下っ端とは言え、ヤクザを易々と倒してしまった。この男にこれ以上関わらない方がいい、と脳内で警鐘が鳴り響く。
「ここまでか」
曹瑛は興味を失ったらしく、その場から立ち去ろうとする。
突如、背後で叫び声が聞こえた。さきほどまでの高揚感に酔った歓声ではない、恐怖の色が滲んでいる。
「うがぁああああっ」
獣のような叫び声が駐車場内を揺るがす。観戦客が恐怖の叫び声を上げて逃げ惑っている。転倒した男を踏みつける女、彼女を突き飛ばして自分だけ逃げる男。逃げ惑う観戦客たちはパニックに陥っている。
白いトレーナーにカーゴパンツ姿の長髪の男がサバイバルナイフを振り回している。その目は残忍な光を放ち、汗だくで呼吸は荒い。極度の興奮状態で自我を失っている。
無差別に振るわれる凶刃に斬りつけられた観客が血を流して泣き叫んでいる。先ほどまで雄々しく戦っていた刺青と金髪も恐れをなして逃げ出す。
「伊織、出口を開放しろ」
曹瑛が鋭い声で出口の扉を指差す。狼狽していた伊織は我に返り、出口に向って走り出す。曹瑛は背中から小型の銀色のナイフを取り出す。シンプルな柄の遠距離用投げナイフだ。
曹瑛は天井のスポットライトにスローイングナイフを放つ。ライトが破壊され、地下駐車場は暗闇に包まれる。長髪男は突然訪れた闇に怯え、唸り声を上げている。
出口に辿りついた伊織は、重い鉄扉を開放した。頼りない街灯の明かりが地下駐車場に差し込む。
「出口はこっちだ」
伊織は大声で叫ぶ。右往左往しながら逃げ惑っていた観戦客たちが出口の明かり目がけて走り出す。
長髪の男は逃げ出す獲物を屠ろうと、ナイフを振り上げて走りだそうとする。背後から飛んできた鎖が首に巻き付きた。長髪は後ろに引っ張られ、転倒する。背後には手綱のように鎖を引く曹瑛の姿があった。
「ぐぁああぉぉ」
怒りの雄叫びを上げ、瞳孔の開いた眼で曹瑛を睨み付ける。口からは涎がひっきりなしに流れ落ちている。
長髪はナイフを手に曹瑛に飛びかかる。曹瑛は鎖を両手で思い切り引っ張り、ぶん回す。長髪の身体が宙に浮いて、柱に激突した。地面に落下し、痙攣したまま白目を剥いている。
「瑛さん、大丈夫?」
伊織が必死の形相で走り込んできた。曹瑛は鎖を放り投げる。
「ドラッグの
曹瑛は醒めた目で長髪をみやる。感情の籠もらぬ声だ。しかし、伊織はその静かな声音に微かなやるせなさを感じた。
パトカーと救急車のサイレンが近付いてきた。ナイフで負傷した若者たちは肩を抱き合って泣いている。アスファルトに散る血痕が惨状を物語っていた。
駆け付けた警察官が現場の状況に仰天し、騒動員の応援を呼んでいる。曹瑛と伊織は野次馬に紛れて歌舞伎町から抜け出した。
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