エピソード8 地下試合

 靖国通りからさくら通りに入り、歌舞伎町の深淵へ向う。

 居酒屋から焼肉まであらゆるジャンルの飲食店、カラオケ店や麻雀店が立ち並ぶ。半被を着た飲み屋の店員が割引チラシを強引に押しつけてくる。

 曹瑛は彼らに目もくれず、足早に通りを抜けて行く。

 背後で客引き同士の言い争いが始まったかと思えば、小競り合いに発展している。酔っ払いが電柱に抱きついて嘔吐していた。


「阿鼻叫喚の地獄絵図とはこのことだ」

 伊織は肩を竦めて青ざめる。前を歩いていた曹瑛がおもむろに振り返った。

「お前は本当の地獄を知らない」

 曹瑛は真顔だった。伊織の背筋が一気に凍り付く。脅し文句ではない、ただ事実を述べている、そんな表情だ。この男は一体何を見てきたのだろうか。


 街の空気が変わった。ここは歌舞伎町中心部だ。奥に林立するラブホテル街のネオンが怪しく輝き、ここに来て人通りがぐっと減った。

 画像加工の著しいキャバクラやホストクラブの看板、露骨な売り文句の風俗店が目立ち、禁止されているはずの客引きの姿も多い。

 男二人連れだと良いカモらしく、ミニスカートにヘソピアスの女達やいかつい黒人キャッチが熱心に勧誘してくる。


 曹瑛は落書き塗れのシャッター通りと化した細い路地へ入っていく。そこにはビールケースに座る黒いフェイクレザーのフードを目深に被ったピンク頭の男と、黒髪ソフトモヒカンのペイズリー柄ジャンパーの男が酒瓶を片手にタバコを吸っていた。

 どう見ても輩だ。しかも歌舞伎町の最奥にいるハイレベルな奴だ。伊織の焦燥など知らぬ振りで曹瑛は二人の前に仁王立ちする。


「地下試合をやっているのはどこだ」

 曹瑛はまるでコンビニの場所を聞くように尋ねる。伊織は全身の血が凍り付いた。曹瑛は来日したばかりで、道を聞いていい奴とよくない奴の区別がつかないのだ。伊織は曹瑛の袖を引っ張る。

「瑛さん、ヤバいよ」

 伊織が必死に小声で囁く。曹瑛は剣呑な視線で伊織を威嚇する。


「なんだてめぇは」

「訊き方ってもんがあるだろうがよぉ」

 ピンク頭とソフトモヒカンが曹瑛に凄む。曹瑛は全く動じず、二人を見据えている。場所を訊いただけなのにキレるとは一体どんな単細胞なんだ、伊織は唖然とする。


「知らないならお前達に用はない」

 曹瑛は吐き捨てるように言い、口角を吊り上げる。その態度は火に油を注ぐ。

「ケンカ売ってんのか」

 モヒカンが曹瑛のスーツの襟を掴もうと手を伸ばす。曹瑛は上半身を捻ってそれをかわし、モヒカンの脛を靴先で蹴り飛ばす。

「ぐおっ」

 モヒカンは激痛に身体を折り曲げる。剥き出しの頚部に垂直に肘を落とした。モヒカンはひび割れたコンクリの上に突っ伏して身悶えている。


 一瞬にして仲間がやられ、ピンク頭は呆けたように口を開けたままガタガタ震えている。

「お前は知っているか」

 曹瑛は大股でピンク頭に距離を詰める。

「ひ、ひえっ」

 ピンク頭はあっさり仲間を見捨てて逃げ出した。曹瑛は足元に転がっていたビールケースを軽々拾い上げ、ぶん投げる。


「ふぎゃっ」

 ケースが太腿に命中し、ピンク頭は脚がもつれて転倒した。あんなものを剛速球の如く投げるとは、恐るべき腕力だ。

「や、やめてくれ、許してくれ」

 ピンク頭は尻もちをつき、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で震えている。

「質問の答えになっていない」

 曹瑛は冷酷な眼差しでピンク頭を見下ろしている。


「クソ野郎っ」

 戦意を取り戻したモヒカンがビール瓶の底を壁にぶつけてかち割り、凶器に変える。それを低く構え、曹瑛に突っ込んでいく。

「瑛さん、危ない」

 伊織は咄嗟にモヒカンの腰にしがみつく。モヒカンは怒りに任せて振りほどこうとするが、伊織は意地でも動こうとしない。


「こいつ、離しやがれ」

 モヒカンが手にしたビール瓶を振り上げた。刺される、伊織は慌ててモヒカンを突き飛ばす。そこに待っていたのは曹瑛の渾身の右ストレートだった。

「ぶぎゃっ」

 モヒカンは鼻っ柱を潰され、コンクリの上に転がり泣き叫ぶ。鼻は真横に向いて鮮血を垂れ流している。咳き込んだ弾みで、折れた血塗れの歯が二本転がり落ちた。


「ひどい、血が出てる。ああ、歯まで」

 伊織が寝転がったまま呻き声を上げるモヒカンを気の毒そうに覗き込む。 

「正当防衛だ」

 曹瑛は拳をガードするために巻き付けて使った臙脂色のタイを几帳面に締め直す。膝をついてモヒカンの襟首を掴み上げた。

「地下試合の場所は」

「こ、この先の廃ビル、地下パーキング」

 モヒカンは路地の先を指差す。曹瑛はモヒカンから手を離し、立ち上がる。そして何事も無かったかのように路地を出ていく。


「瑛さん、やりすぎだ」

 伊織は曹瑛に怒りをぶつける。

「やらなければやられる。それに、お前も加担しただろう」

 曹瑛は意地悪な笑みを浮かべ、伊織を振り返る。

「あれは、咄嗟のことで。瑛さんを助けようと」

「頼りがいのあるガイドだ」

 困惑する伊織を尻目に、真鍮のジッポでマルボロに火を点ける。


 薄暗い通りだ。雑居ビルの切れかけの蛍光灯が不規則に点滅し、アスファルトを照らす。

 曹瑛は廃ビルを見上げる。壁全体を覆うように雑多な落書きが施してある。窓は割られ、ベニヤ板が打ち付けてあった。地下から重低音を効かせた音楽が漏れ聞こえてくる。

 裏手に回り込むと、駐車場の入り口だった場所に鉄の扉が据え付けてあった。扉の前には耳朶が埋もれるほどピアスをつけた坊主頭がパイプ椅子に座っている。


「あんたら、チケットあるのか」

 坊主頭が脚を組んだまま曹瑛を見上げた。くちゃくちゃと不快な音をさせながらガムを噛んでいる。

「選手を連れてきた」

 曹瑛は背後に隠れるように立つ伊織を全面に突き出す。


「この男は総合格闘技を得意とする。池袋では負け知らずだ。飛び入りでもいい」

 曹瑛は至って真顔だ。伊織は目を血走らせて曹瑛を二度見した。

「ちょっと、なんでそんなデタラメ」

 我に返り慌てて抗議する。曹瑛は素知らぬ顔でタバコの煙を吹かしている。

 坊主頭はその様子を訝しい目で眺めていたが、面倒になったのかインカムでボソボソ呟いている。

「中にいる黒服と交渉しな」

 坊主頭は鉄の扉を開け、入るように促す。


 天井の低い地下駐車場だ。大音量のダンスミュージックが鳴り響き、柱には赤色の工事灯が吊されている。大勢の若者たちがもみくちゃになりながら怒声を上げ、中央で行われている闇試合を観戦していた。天井を這う剥き出しのダクトから吊られたスポットライトが汗だくで殴りあう選手を照らす。

 こんな世界が現実にあるなんて。異様な熱気と興奮漲る雰囲気に、伊織は圧倒される。

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