エピソード5 池袋ガチ中華

有茶具吗茶器はあるか

 曹瑛は書棚の整理をしていた小柄な老店主に中国語で話しかけている。レトロな丸い金縁眼鏡をくいと持ち上げて、老店主は曹瑛を見上げる。70代後半くらいだろうか、愛想の良さそうな老人だが曹瑛を値踏みする眼光は鋭い。

你是老虎吗お前が虎か

是的そうだ

 曹瑛は無表情のまま頷く。老店主と曹瑛は睨み合う。


 遠目で見守る伊織は中国語が分からないので、彼らの会話の内容は把握できない。本を探しにきたにしては随分深刻な雰囲気だ。

五楼五階だ

 老店主はそれだけ言って、書棚の整理を始めた。曹瑛は踵を返し、店の外にある錆の浮いた非常階段を上っていく。


 二階と三階は本場の中華食材店のようで、独特の香辛料の匂いが鼻を突く。四階は倉庫だ。曹瑛は白露茶荘と書かれた五階の扉を開けた。

 香ばしい茶の匂いに包まれた店内には所狭しと茶器や茶葉が並ぶ。曹瑛は店の商品には目もくれず、奥にいる紺色の長袍を来た女性店主に話かけている。


 手持ち無沙汰の伊織は曹瑛を待つ間、店内を見てまわる。鮮やかな色の花や鳥が描かれたお手軽なマグカップから本格的な茶器セットまで、値段もピンキリだ。

 中国茶器は日本のものに似ている。急須と湯吞のセットだが、ずいぶん小ぶりだ。こんなオモチャのような湯吞では、何杯お代わりしないといけないのか。


「用は済んだ」

 いきなり背後から声をかけられ、茶器に見入っていた伊織は驚いて振り返る。曹瑛は大きな箱が入った紙袋を持っている。

「茶に興味があるのか」

「中国茶は作法が複雑と聞いたことがあって、どうやって使うんだろうなって」

 ディスプレイされた茶器セットを見ても器の種類が多く、一体どう使うのか伊織には見当もつかない。


 曹瑛は茶器の棚を物色し始める。店主にあれこれ尋ねて納得がいったらしく、茶器セットと茶葉を買った。

 曹瑛が選んだ棚の高い位置にディスプレイしてある茶の価格はキロ数万単位だ。スーパーの二百円もしない麦茶パックしか馴染みがない伊織は、思わず値札を二度見した。


 雑居ビルを出たときには、すっかり陽が落ちていた。ビルにネオンが灯ると、中華系の飲食店の派手な看板が目立つ。

「池袋はガチ中華の店が多いんですよ」

「ガチ……」

 曹瑛は眉根を顰めて首を傾げる。そうだ、会話に不自由しないのですっかり忘れていたが、彼は外国人だ。


「がちんこ、本気って意味です。日本向けのアレンジでなく、本場そのものの味の中華料理ってこと」

 興味はあれど、客も店員も中国人で本場そのままの雰囲気と聞いて、気後れして入ったことが無い。中国語が分からないと注文もできないのだろうという先入観もあった。

「行ってみるか」

「えっ、いいんですか」

 曹瑛の提案に、伊織は反射的に頷いた。


 日本に観光に来たはずの曹瑛と池袋西口のガチ中華「沸騰小吃城」へやってきた。店内は熱気と喧噪が渦巻いている。大声の中国語があちこちから聞こえてきて伊織はひたすら圧倒される。

 ちょうど席が空いてすぐに案内された。メニューはスマートフォンでQRコードを読み取る形式だ。伊織はこの方式が苦手だが、曹瑛によれば中国ではメジャーらしい。


「これがガチ中華……!!」

 伊織はメニューを見て驚いた。餃子や炒飯などの定番料理もあるが、そのラインナップは中華料理といえば思い浮かぶ絵面を悉く裏切ってきた。

「この店は小吃、一品料理の店だ。日本で中華料理と言えば上海・広東・北京・四川が知られているのだろう。だが、中国は広い。だから地域毎に特徴がある」

 この店には福建、東北、重慶、湖南、湖北とバラエティに富んだ地方料理があると曹瑛が教えてくれた。


 メニューは中国の簡体字だが、日本語の説明も書いてある。素材が分かるが味のイメージがつかない。メニューを凝視して深刻な顔で悩む伊織に、曹瑛はしびれを切らした。

「適当に頼むぞ」

「お、お願いします」

 その方がきっと間違いない。伊織は青島ビールを、曹瑛は烏龍茶を注文した。


 これだけ混雑しているから待たされるかと思いきや、料理はどんどん運ばれてきた。

 じゃがいもの細切り炒めにきゅうりのピリ辛和え、空心菜炒め、海鮮のXO醤炒め、羊串、餅米と海老入りシュウマイ、鶏肉のカシューナッツ炒め。狭いテーブルがあっという間にあつあつの料理で一杯になった。


「じゃがいもって、こんな細切りにするの珍しい」

 伊織は前菜のじゃがいもの細切り炒めに手を伸ばす。

「酸辣土豆絲、中国ではメジャーな家庭料理だ」

 じゃがいもがシャキシャキ感と酸味が癖になる味だ。青唐辛子の辛味が隠し味になっている。あっさりしているのでいくらでも食べられそうだ。


「日本では焼き鳥がメジャーで、羊って珍しいよ」

 羊串は小ぶりな羊肉を長い串に刺してある。全体に赤いスパイスが絡めてあるが、辛いだけでなく独特の風味があり肉はジューシーだ。羊の臭みが全くない。

「このスパイスはクミンとトウガラシを混ぜたものだ。中国では羊串はよく食べる」

 曹瑛は珍しく饒舌に中国の食文化を教えてくれる。伊織は感心するばかりだ。


 あれこれつつくうちに、独特の旨み豊かな味つけの虜になった。どの料理もハズレがない。珍しい味に舌が驚くが、それがだんだん癖になる。

「これ注文してみる」

 伊織は写真で美味そうに見えた鴨肉の煮付けを注文する。きっと間違いないはずだ。

 しかし、運ばれてきた鴨肉をつまみ上げた途端、絶句した。


「こ、これって、鴨の、頭」

 伊織は目を見開いて息を飲む。

「アヒルだな」

 曹瑛は箸を持ったまま固まる伊織を見て、意地悪な笑みを浮かべる。アヒルの頭を縦に真っ二つにして煮込んである、頭の姿煮だ。嘴と顔の形がはっきり分かる。


 グロテスクだが、恐る恐る食べてみると香辛料を効かせたタレがよく沁みた肉は美味しかった。

 その後も伊織はエビと間違えてザリガニを注文し、驚愕する。曹瑛が平気な顔で食べているので、ものは試しと食べてみた。味がぷりぷりで旨味が凝縮されており、思いの外美味かった。

「ガチ中華にハマりそうだよ」

 あれだけあった料理は綺麗に平らげた。


 青島ビールは薄味であっさりしているように感じたが、油の多い中華料理にはぴったりだと思った。口の中をさっぱりさせてくれる。


 何となく近寄りがたいと思っていたガチ中華の店だが、曹瑛のおかげで親しみが沸いた。

 この店を選んだのは伊織の希望だったので財布を出そうとした。

「経費のうちだ」

 曹瑛はアリペイで支払いを済ませてしまった。


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