エピソード3 話が違う
雑踏の洗礼を受けて新宿駅西口の改札を出る。
都会の人混みには暮らし始めて八年経っても慣れないものだ。伊織の地元は倉敷、瀬戸大橋の見える海沿いの町で育った。瀬戸内の温暖な気候と穏やかな海、田舎にはまだいる絶滅危惧種のヤンキーに囲まれて、お人好しだが妙に度胸があって物怖じしないのはそのおかげだ。
マンスリーマンションまで徒歩十五分。伊織の腹がぐうと鳴った。そう言えば、昼ご飯がまだだった。伊織は一定の距離を保って背後をついてくる男を振り返る。
「お昼ご飯は食べましたか」
「機内食は食べないことにしている」
質問の返事になっていないが、つまりは腹ぺこということで良いのだろう。通りにさぬきうどんの店を見つけた。これぞ日本らしい食べ物だ。
赤いのれんをくぐると、うどんの湯気と鰹だしの匂いが食欲をそそる。伊織は西の人間なので、うどんは親しみ深い。スーツケースは席に置いて注文窓口に並ぶ。
「うどんは小麦粉で作った麺です、美味しいですよ」
「これは何だ」
男がメニューを指差す。何でもいいと言うかと思いきや、興味を持っているようだ。
「これは甘く味つけしたあげ、これはカレーで、これは卵、白いのは大根おろし、大根を細かくすりおろしたものです」
男は伊織の説明を聞き、真剣に悩んでいる。吟味の結果、男はきつねうどんを選んだ。伊織は定番の釜玉うどんを注文する。
「お米が食べたいならおにぎりをどうぞ、天ぷらはかきあげにとり天に」
ガイドらしいことができて伊織はご満悦だ。
薬味コーナーでねぎや生姜を盛り付け、席に着く。男が伊織がうどんと生卵をかきまぜているのを凝視している。
「それは生卵だな、そのまま食べるのか」
真剣な顔で尋ねられ、伊織は手を止めた。
「え、食べますけど」
「中国では生卵は食べない」
男は伊織の食べる釜玉うどんを珍しそうに見つめている。
「うどんは地域ごとに特徴があって、香川県のさぬきうどん、秋田県の稲庭うどん、長崎県の五島うどん、愛知県のきしめんが有名です」
広告代理店時代、食フェスを企画することがあり、そのとき調べた資料の記憶が役に立つ。
「この店はどこのうどんだ」
「香川のさぬきうどんです」
意外にも話題に食いついてきた。食べ物の話題はアリだな、と伊織は心に留めておく。男は澄ました顔でうどんと掻き揚げ、たらこおにぎりを平らげた。
***
オフィス街を抜けて住宅地へ、コンビニエンスストアの角を曲がったところにマンスリーマンションはあった。管理人から鍵を受け取って男はエレベーターに乗り込み、五階のボタンを押す。部屋は角部屋、広々した1LDKだ。外観はやや年季が入っていたが、内装はリニューアルされほぼ新築のようにきれいだった。
男はベランダに出てタバコを吹かし始めた。ベランダからは新宿の高層ビル群が見渡せた。部屋にはテレビに冷蔵庫、電子レンジに洗濯機と家電は一通り揃っており、自宅感覚で生活できるようになっていた。
手持ち無沙汰の伊織はスマートフォンで東京の観光地を検索する。
外国人に人気なのは浅草だ。スカイツリーも外せない。文化に興味があれば上野、海鮮なら豊洲より築地だろう。男が希望を言ってくれると助かるのだが。
「お前、荷物は」
ベランダから男が戻ってきた。伊織は訳も分からず帆布の肩掛けバッグを指差す。
「着替えはあるのか」
「夜は自分のアパートに帰りますよ」
愛想笑いを浮かべる伊織に、男は唇を真一文字に引き結んだまま目を細める。
「命が惜しければお前もここに泊まれ」
「はい……?」
命が惜しければ、って日本語を間違えているのだろうか。伊織は困惑する。金が欲しければの間違いか、いやしかし男の日本語はここまで完璧だった。
「えー、少々お待ち下さい」
伊織はうわずった声を上げる。男から間合いを取ってじりじりと後退り、ベランダに飛び出した。
この話を持って来た山口に怒りに震える手で電話をかける。十コールしてやっと応答があった。
「山口ー貴様ぁ!!」
「伊織か、うまくやってるか。貴様って時代劇以外で初めて聞いたよ」
背後に喧噪が聞こえる。大当たりのアナウンスにパチンコ店でサボっていることが判明し、さらに怒りがわき上がる。
「観光の手伝いって聞いたのに、住み込みを要求されてるぞ」
「希望通りにしてあげてよ、割のいいバイトじゃん」
山口の間延びした声が憎たらしい。
「二十四時間拘束だと時給換算で最低賃金は……っていうか金の話じゃなくて」
「俺も先輩からの依頼でさ、詳しく知らないんだよ。お、今確変中だからまたな」
一方的に通話は切れた。伊織は頭を抱える。一日中あの無愛想な男に拘束されるなんて、一体何の罰ゲームだ。
「問題でもあったか」
男はソファに腰掛け、悠々と脚を組んでいる。
「夜は自分の家に帰って毎朝ここに来ますよ」
「お前が逃げ出さない保証がどこにある」
男の冷酷な視線に伊織は震え上がる。心の奥まで見透かすような暗い瞳だ。伊織は虎に睨まれた兎のように萎縮する。この男、一体どんな人生を送ってきたのだろう。
「お前のアパートは池袋だな」
「えっ」
伊織は絶句する。男は伊織のアパートの住所を読み上げる。山口は伊織の顔写真だけでなく、個人情報まで売り渡したのだ。終わりだ、伊織は白目を剥いた。こんな得体の知れない外国人に自宅を知られてしまうなんて。
「ちょうどいい、池袋の店に用事がある」
男はスマートフォンを操作し始める。
「電車で四駅、十分程度か」
「日本語ペラペラで、なんでも一人でできるじゃないですか、どうして」
伊織は破れかぶれで文句を言う。
「行くぞ、東京観光につれていってくれ」
男は立ち上がり、スーツの裾を正す。俺のアパートは観光名所じゃない、と伊織は溜息をつく。
「あなたは俺の住所まで知ってる、せめて名前くらい教えてください」
伊織は男の目を真正面から見据える。名前くらい教えてもらってもいい、それが道義というものだ。
「俺の名は
曹瑛と名乗った男はフンと鼻を鳴らし、皮肉な笑みを浮かべた。
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