エピソード2 無愛想な依頼人

 羽田空港の国際線出口は到着待ちの客でごった返している。アナウンスによれば、上海からの便は定刻通り到着しているようだ。

 来日客の名前の看板を持つ人たちを見て、伊織は顧客の名前も顔も知らないことに気がついた。


 中継ぎの山口にLINEをすると、知らないという。伊織はすぐさま電話をかけた。

「適当すぎないか、ちゃんと教えてくれよ」

「大丈夫だって、相手に伊織の顔写真を送っておいたから」

 これから客先訪問だから、と電話を切られた。勝手な奴だ、と伊織は諦めの溜息をつく。


 出口の自動ドアが開き、第一陣の乗客が連なって出てきた。若い女性連れに子供を連れた家族、バックパックの男性、その後に団体客がガイドに引率されていく。誰かを探しているそぶりの人はいないか、伊織は柵の前に立って自分の顔をアピールする。


 ずんぐりしたおっちゃんが気さくな笑顔で手を振った。くっきりしたツーブロックに黒いシャツ、金色のネックレスを下げたいかにも中国人という身なりだ。

「你好」

 伊織も手を振る。良かった、無事に合流できた。彼とならうまくやっていけそうだ。

 ホッとした瞬間、背後からやってきた派手な花柄のおばちゃんにタックルを受けた。おっちゃんはおばちゃんと手を繋いで去って行った。


「違ったのか」

 伊織は気恥ずかしくなり、出口に向き直る。

 しばらくして自動ドアが開き、黒いスーツにサングラスの男が出てきた。出口にいた若い女性の集団が湧いた。男は長身で細身、身体にフィットした黒のオーダースーツを着こなしている。スタイルが抜群に良く、一瞬で目を引いた。


「やだ、違うわよ」

「でもすごいイケメンじゃない」

 彼女たちは中華俳優の空港出待ちを狙っているようだ。来日情報をキャッチしていない有名俳優が来たのかと騒然としている。

 男は騒ぎに目もくれず、足早に立ち去っていく。


 伊織は出口を凝視し続けるが、もう誰も出てこない。すれ違ってしまったのだろうか。山口にほれ見ろ、やっぱりはぐれたじゃないかと文句の電話をしようとスマホを手にしたとき。

「宮野伊織」

 不意に名前を呼ばれた。振り向けば、先ほどの長身の男だ。


 目線のズレからおそらく百八十センチ半ばくらいはあるだろう。

 短めの黒髪に色白の肌、黒のスリーピースのスーツに臙脂色のタイを締めている。

 大ぶりのサングラスに隠れているが、高い鼻筋と形の良い唇から相当整った顔立ちだとわかる。年はアラサーか、考えたくないが同年代とみた。


「あの、ガイドをお手伝いします、宮野伊織です」

「案内してくれ」

 穏やかな低音の声だ。しかし、冷たくて愛想が無い。伊織は一瞬で苦手なタイプだと確信する。

「は、はい。ではタクシーで」

「公共機関がいい」

 こんな良いスーツを着たセレブなら電車でもみくちゃにされたくはないだろう、と気を回したが男は公共機関を指定した。


 伊織は男を連れてモノレール乗り場に向う。男は一定の間隔を保って無言でついてくる。そういえば、日本語で会話が成立している。相手の話す日本語も流暢で見事なものだ。これだけ話せたら日本で過ごすのに全く問題など無いだろう。わざわざガイドを依頼する意味があるのだろうか。


 モノレールの改札にやってきた。伊織は思い出してポケットに手を突っ込む。男が突然、伊織の腕を掴む。細身なのに恐ろしい力だ。

「な、何するんですか」

「お前は何をしている」

 男はサングラスの奥から伊織を凝視している。妙に迫力のある男だ。伊織は緊張に肌が粟立つ。


 男が伊織の手をポケットから引っ張り出す。

「交通カードです、あると便利だから買っておいたんです」

 伊織の手にはペンギンのキャラクターがついた緑色のICカードが握られていた。男は無言のままICカードを受け取った。


「一万円チャージしておきました。都内の電車やバスで使えます」

 掴まれた腕がじんじんする。謝りもしないのか、と伊織は不満に思うが雇い主に文句を言うわけにもいかない。ここは我慢だ、と気持ちを切り替える。

「これが宿泊先の住所だ」

 男がメモを手渡す。男が手配しているマンスリーマンションの住所は新宿だった。


 モノレールに乗り、ボックス席に向かい合って座る。男は長い脚を窮屈そうに組み、外の景色を眺めている。

 どうも話しかけて欲しくない雰囲気だ。伊織も余計なことは言うまいと思っていたが、彼の名前も知らない。ここで聞いておいた方がいい、この先だと余計に聞きづらくなる。


「失礼ですが、お名前は」

 名前も教えてもらっていないのかとどやされるのでは、と覚悟して伊織は遠慮がちに尋ねる。

「好きに呼べ」

「えっ」

 思わず驚きが声に出てしまった。何だこの斬新な対応は。伊織は唖然として男を凝視する。


 男はサングラスを外し、伊織を一瞥する。形のよい眉に長い睫毛、切れ長の瞳は月の無い夜の静謐な湖を思わせた。冷ややかな視線に、伊織の背筋は凍り付く。

 男は物憂げな佇まいで流れる車窓の景色を見つめている。


 観光の手伝いだって、一体何をしにきたんだ。こんなに無愛想で無関心、全然楽しそうじゃない。日本語もできるし勝手に観光でも何でもすればいい。そう叫びたかったが、ぐっと堪えた。

 なにせ、日当三万円だ。相手はお客様なのだ。悲しいかな、八年間こなした営業の性だった。


「あのう、どういうところに行きたいですか」

 名前を教えないなら、「あのう」や「すみません」があんたの名前だ、そう思うことで伊織は精神衛生を良好に保つことにした。

「宿についてから指示する」

 男はもはや振り向きもしない。とりあえず今のミッションは新宿のマンスリーマンションを目指すことだ。


 モノレールは終点の浜松町に到着した。

「ここからJR線に乗り換えて新宿へ向います」

 伊織が路線図を指差す。男は立ち止まり、路線図を見上げる。東京の路線図はまるでスパゲッティだ。ひと目で覚えられるものではないだろう。そう思ったが、伊織は男が気の済むまで待つ。


 改札を通り、伊織は山手線の乗り場へ向う。

「こっちだ」

 男に呼び止められ、伊織は慌てて立ち止まった。伊織が向おうとしたのは内回りだ、男は外回りのホームの階段を上がっていく。新宿へは外回りの方が近い。

 まさか、さっきの路線図を頭に入れたというのか。

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