時の花
「まつくまかな」
時の花
時子。笑うと顔が円くなる娘だ。小振りのつんとした鼻が上向いて十二時を差し、よく喋る唇はせわしなく二十分から四十分の間を動き回る。表情筋が透き通って見えるほどの豊かな表情をする。笑う。怒る。泣く。それは僕の初恋がほんの幼稚園の時だったからもあるだろう。ぴんと張ってふっくらとした頬で、彼女は僕にこう言った。
『さくらちゃんはきれいね』
それは隣の学級のお金持ちの娘だ。西洋人形のような目鼻立ちをして、実は染めているんだと噂の、くるくるした髪をした。
僕にしてみると時子の方がよっぽど可愛らしかったけれど、当時ただのうなずくだけのお人形だった僕は「うん」とうなずいただけだ。
小学校も三年生になると、さくらは直ぐにスポーツも勉強も出来る宗次とつきあい初めた。時子は宗次が初恋だったようで、相変わらずうなずき人形の僕の前でわんわん、泣いた。僕はまるで赤ん坊に戻ったように泣く時子に、なぜかドキドキしていた。この時は理由もわからなかったけれど、やっぱりうん、とうなずいた。
時子は男子にからかわれた。表情がくるくる変わって、無視というものが出来る娘じゃなかったから。
女子の友達には「そんなに反応するから」と窘められていたけれど、僕はただ、うなずいた。そのままの時子が好き……だった。
時子は中学の後半から色めき出した。元々表情が示す通り、奔放なところがあったから。年上の彼氏が出来たらしい。僕はもうこの時には遠くから見守る事しかできなかったけれど、教室で相変わらずくるくる顔を変えている様子が変わらないなら、この七色の表情を守ってくれるなら、それが僕でなくてもいいか、とまで思いつめてはいた。
高校は別になったから、次に時子に出会ったのはさくらと宗次との結婚式だった。時子は愛想を覚えたようだ。もう三十の声が近くて、恐らく焦っているのだと思う。まぶたが垂れてきたおおきな目が落ち着かず、酷く老けて見えた。彼女は笑わないと虚無のような顔になる事を初めて知る。虚無とお愛想が交互に出る様子を僕は見ていられずに「時ちゃん、二次会抜けない?」思わず声をかけた。
「洋ちゃん」
時子はみるみる涙を溜めた。表情の動きがまるで幼稚園のころと変わっていなくて、僕はぎょっとする。
僕は安い居酒屋で時子の愚痴を聞いた。心臓が小学校三年生の時を思い出す。ドキドキした。白々しい蛍光灯でも、時子は輝いて見えたからだ。けれど僕ももう大人だったから、この緊張感が所謂つけこめるかも、という打算から来ていることも知っていたし、この時の僕はちょっとした株で小金持ちだった。
「私、誰とも結婚できないんだ」
どうやら不倫状態に陥っているらしい時子に、僕は「じゃあ、僕としよう」とうなずいた。時子は涙をすっこめて、大きく目を見開いて。そろそろ烏の足跡も見える顔の皮膚という皮膚、筋肉という筋肉に驚きをはりつけている。目一杯の表情が一分を越すほど維持されると、僕の方が不安になって「初恋なんだよ。時ちゃんが」おろおろとしてしまう。
次の瞬間、時子は咲いた。雨上がりの大輪、はにかみの色をした……ああ。
ああ、僕はこの日この時の為に生まれてきたんだ。そう確信するほどの笑顔は、長くは保たなかった。
「洋ぢゃん」
直ぐに萎むように泣き笑いになり、また涙が顔を覆う。「やざじい」お世辞だとでも思われるのも腹立たしくなり、僕は憤慨して「このまま、市役所に婚姻届を取りに行こう」時子の手を引く。そこらを歩いていた酔っぱらいをひっ捕まえて保証人にして、僕らは本当にその夜に届けを出した。
それから僕は株に失敗して、笑い多い土地に引っ越した。西の訛りは時子に良く似合った。「アホかあんたら」三人の子供と纏めて叱られても、何か痛快で爽やかなものが流れるようで、悪くない。
牛馬のように働かせてしまった。子供の世話も手が追いつかなかった。僕の母親は陰口を叩いた。時子の中年半ばに入った顔には、確かに疲れがあった。時子はいい女だ。それこそ「お前は嫌な女だよ」と本人の前ではっきり口に出せるほどに。それが完全に男のエゴであることもわかる齢になって、僕は弱気だった。
「疲れたなら、別れてもいい」
そうしたら、時子は僕を睨み殺そうとした。「どの口が叩いてるの」僕が嫌な女と口を利けるなら、時子もまた僕をハゲデブカスと罵るほどだ。「洋ちゃんがいなかったら、きっとうち生きてられへんかった。本当や」時子はひどく老いた顔をした。僕は不惑間近にして幾千もの軽い言葉に惑わされた事を恥じて。
「愛してる。時ちゃんだけなんだ」
時子の小じわが、一気に顔中を走った。プロポーズの時と何一つ違わず、時子は笑った。
「うちも……私も、愛してる。洋ちゃん」
時の花 「まつくまかな」 @kumanaka2023
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