第15話【シギ/過去/其の二】

極限まで薄く、弱く、短く。

ヒトの命を獲らねばならない、けれど、できる限り、影響を与えないように、積み重ねてきた。

ひとりから獲るのは、呼吸ひとつ、鼓動一回分の時間。

わずかであっても、多くのヒトから得られれば、多少は鎮まる。

削り取るのに良心の呵責は消えないが、力そのものに負けて暴走するのは絶対に避けたかった。

辛くはあった。

焼石に水を数滴ずつ、垂らすような日々。

天秤にかけるのは本能と、かつて多くの命を奪いかけた記憶や自制心、それでどうにか抑制に傾いていられるだけ。自覚を怠り気を抜けば、力のうねりが生じてしまう。

決まった土地には居つけない、住民が少ない村や集落では足りない、だから大きな街や国を転々とし続けている。細かな争乱や天災が局地的にはあっても、平穏は昔より長く保たれるようになり、あちこちの営みに紛れているうちに人口が増えていくのが慰めだ。

ウツミと別れてからすぐに大陸の横断を思いつき、やがて船に乗り込んで、別の大陸に辿り着くと、歩き、休み、山河や峠を数え切れないほど越え、また海を渡ってきた。

その間にも道具や建造物、人々の衣食住が様変わりして、時代は進んでいく。

そして数百年ぶりに、シギは故郷の土を踏んだ。

久し振りというには年月が経ちすぎていたが、逆にこれくらいの時間が流れるまでは、昔の残滓がありそうで訪れることができなかった。あの頃のような暮らしにも自分にも、戻りたくはなかったから。

随分と、立派になったものだ。

昔と変わらない山の稜線が、同じ方角と距離に臨めていなかったら、故郷ともわからなかっただろう。

まず国境を示す見張り台が大きく高く石造りになっていて、関を通る者には厳しく衛兵と役人が身分と職業を問うてくる。外套の下と荷物を検められて、門を抜けることが許されるまで、多少かかった。行路病者の類はおらず、ぐだぐだと難癖をつけられることや賄賂の要求もなく、堅牢さ、誠実さが窺える。

街に入ると表の大通りも裏の小路も、おおかた小綺麗に整備され、どこかでごみが腐っているときの饐えた臭いも漂ってこない。浮浪者には行き当たるが自由人の雰囲気で、露店や店舗には住民の明るい声が響いている。王都の膝元、街の大きさを考えると、そこそこ誰もが豊かに暮らしているようだ。

賢君が統治して久しいという噂は聞いていたが、なるほど、真実らしい。

「あらまあ、お客様はここの出身でしたか。それならちょっと、お戻りが遅かったですねえ。一月前まで大きいお祭りをやってましたんですけど」

「祭り?」

「ええ、ええ。もう何年もかけて準備をしましてね、ようやっと、今年からね。東区の宝殿はまだ開放されてますから、時間がおありなら行かれてみては? 平穏を願って、いろんな品が捧げられたんですよ」

泊まることにした宿でそんな話を聞きかじって、シギは荷を置いた後、散策に出た。

宝殿への道すがら、街の住人と少しずつ喋ると、祭りの中身もわかってきた。

敗した天地派が歴史から去った後、つまりシギのいた第六区画が地図から消えた後、何人かの権威者の統治時代があり、百五十年前に、今の王に繋がる一族が玉座に就いた。安定した政治と采配による長い平和、その賛辞と記念、さらなる繁栄と盤石を祈るべく、国内外から高名な術師や技師を集めて、聖堂と宝殿を造営、宝物を納める式典を執り行ったという。

「やぁっと静かになったのよぉ。通りなんかぜーんぶ、見物人で埋まっちゃってねぇ。一生分の人山を見たわぁ」

「客が多すぎるってのも困ったもんでよ、椅子は足りねえ卓も足りねえ、肉焼いて汁作って、なんてやってられなくてな。終いにゃ全部ぶち込んだのを大鍋いっぱい煮てよ、それもすっからかんだ」

「外国との技術や術式の討論会もあったって。私たちが使えるようなものがそのうちお披露目されるかもね」

食事や買い物ついでに行き会う人々には、潤いと活気がある。深掘りすれば負の側面もあろうが、我が国、我が街が、外の人間を大勢呼び込むほどになったというのが、住人にとって大きな喜びだったようだ。

同郷とも言える彼らの幸せそうな顔は、シギを安らがせる。あのとき逃げ出した結果がここに繋がっているのなら、誰も殺さなかったのは正しかったんだろう。

「宝殿なら、ふたつ目の路地を右に行くと近いです。あのあたりはまだ観光客も多くて賑やかですよ」

「お若いの、旅商人かい。他所の大陸の小物? へえー、面白そうだ、後で見せに来ておくれよ」

周囲と何気なく接するのは楽しく、貴いと本当に思う。反面、近くに大勢の人間がいると、力を使えと本能の部分が囁きかけてくる。知らず人々を脅かしてしまうのではないか、怖い。

大きな国や街に着くといつも、噛み締めさせられる。

今日も今日とてまた、と思いきや、しかし。

シギは首を傾げる。

過去はどうあれ生まれ育った土地だからか。皆が黒い髪や濃い青の虹彩で、別の大陸より自然と馴染めるからか。

この国に来てから、驚くほど、心が落ち着いている。

間違いないかと自問し、何度も確かめるが、胸の内は静かだ。

最初はあまりに発現を抑え続けているせいで、無意識のうちに力が漏れ出たのではないかと密かに焦った。

この力は生命に直接触れるもの、だから、どれほど弱くとも影響を受けた相手には根源的な恐怖と諦観をもたらす。けれど周りを行き来する誰彼に、それらしい兆候は全くない。

普通の人間になったかのような錯覚が、ウツミの集落にいたときと似ている。死なせなかったとはいえ、あの戦で獲った数万人単位の時間、そのおかげか、力を使おうという気に長い間ならなかったし、実際、使わずに済んでいた。

今、あのときと等しく自分は周囲に害を及ぼしていない。

何故だろう。

不可思議だ。

考えつつ歩くうちに東区に着くと、聞いたとおり、雑踏といえる人出があった。彼らに声をかける露店や屋台が各々の売り物を広げ、道に面している地元の店も大きく戸を開けている。

宝殿はすぐにわかった。

街の中でも一際広い一画、手入れのされた植樹と花々の庭園をゆったりと置き、最奥、塔を備えた白い建物がある。屋根は高く、正面にある半円の窓は多角形を組み合わせた何色もの色硝子だ。近寄っていくと柱や壁に施された彫刻が細かく、天地とこの国を示す装飾がふんだんに施されている。何より明るく穢れのない様が、美しい。

敷地内では警護の衛兵や術師が絶えず目を光らせ、彼らとは別に国の紋の入った腕章をつけた者も行き来している。容姿から判ずるに、聖職者や学者が、案内役をしているのだろう。

入り口付近には板が立てられ、注意事項、禁止事項、それから納められた品々の目録が記されている。

王室の神事に由来したり、名高い職人の集成であったり、祭壇に祀られて然るべきものを平民が拝める機会は稀有だ。次の旅先で話題にも繋がるだろうし、学者がいればこの国がどんな道筋を辿ってきたかも聞けるはず。

床も壁も磨かれた長い通路を進んでいくと、門番のように衛兵が左右に立ち、両開きの大きな扉が開け放たれている。

宝殿の中央に位置する大広間。

数百名がゆうに入れるであろう広さ、乗り越えられない高さの堅牢な柵が手前と奥の空間を分け、向こう側、独立した台が複数設けられている。宝物がそれぞれ、正面から見たときに重なり合わないよう配置を考えてあるらしい。

踏み入る前に、気づく。

なんだろう。何か、ある。気配。敷かれた警備の術式から漂う緊張とは違って、拒絶や圧はない。

ただ、とても、とても大きい。

「立ち止まらないように。戻りは広間を抜けた右手側の通路へ」

思わず足を止めそうになったのを、案内役の声に押されてシギは扉をくぐる。

大広間は、空気が違った。

荘厳だ。

術式の祖となった絵図を精緻な刺繍で描いた垂れ幕。古来の文字で言祝ぎを刻んだ王家の金杯。英傑が鞘から抜く前に戦が終わり無垢で残された剣。革表紙に幾重もの封印を施した古代歴史の原典。一束ずつ染め上げられた十二色一組の絹糸。豊穣を願う祭典で使用される薄焼きの壷や器。最新の測量法によって正確に作られたこの大陸の地図。

古くから継承されてきたものと、近年の技術の粋が結実したもの、多種多様に並んでいる。

全てが威厳や風格のある、最上級の品だ。

場にいる者が皆、それぞれの品の前で眼を見開いたり細めたりしながら、ほうと小さな息ばかり吐いている。もとより余分な私語が許されていない場所だが、それ以上に感嘆したり呆気に取られたり、言葉もなくなる、というのが正解だろう。

「……ん?」

柵と周りの人々の流れに従って順々に見ていたシギは、今度こそ足を止めた。

不意、掴み取られたのだ。

身体のどこかを、ではない。

全神経を吸い寄せられて、ぴたりと、動けない。

大広間の出口も近い隅に置かれていた、金細工。

両手に載るほどの大きさ、実際の細枝や蔦に似せた流線型、磨かれすぎていない金で台座が編まれている。その上に花の蕾か、小さな卵か、柔らかく守られる形で嵌められているのは、石だ。

琥珀や柑橘、淡紅色の花をうっすらと削り取って重ね、陽に透かしたような、暖色の石。

この場にありながら大きな主張をしておらず、黙って身を潜めているような雰囲気なのに、どうしてなのか。

「あれか……!」

ここに立ち込める大きな気配の出所、いや、それより前、この国に入ってから自分を宥めていたのは、あれだ。

間違いない。

目が離せない。

獲れる。あれは自分が獲れるものだ。奪って然るべきものだ。ヒトではない。でも獲りたい。ヒトではないのに。どうしてだろう。でもそうだ、ヒトではない。それなら。許されるんじゃないか。

急速に、惹かれるのと等しい強さで黒々とした衝動が湧く。

けれど次の一瞬には、剥き出しの害意を先んじて受け止められたかのよう、丸くゆったりと抱き込まれる心地になって、満ち足りてしまう。隙あらば荒もうとする本能が、自然と凪ぎ、緩やかに整えられていく。

ただの金細工ではない。技巧や贅の尽くし方の話ではない。今までに見てきた金や石や宝飾品とは、何もかもが違う。

まるで、そう、ヒトの時間の結晶だ。

目録にはどう記載されていたか。品数も多かった、じっくり読み込んでもいないから、全部は憶えていない。

誰が、どうやって作ったのか。古いのか、新しいのか。

「おい。……おい! あんた、放り出されちまうぞ」

いつからか柵に手をかけ、かじりついていたらしい。

すぐ後ろから来ていた見物人に苦々しく潜めた声をかけられ、はっとしてシギは身体を離した。

柵に触れるのも禁止事項のひとつだ、衛兵に捕らわれても文句は言えない。案内役のひとりがこちらの動向を厳しい表情で注視していたが、すかさず深く頭を下げて詫びると、渋いままながらもお咎めなしで済まされた。

「まあ、わかるぜ。金細工だろ。あれは魅入られるやつが多いからな。おれも何度、見に来たことやら」

さっきの声の主は、柄の大きくないひょろりとした年若い男だった。

シギの見た目から近い齢だと思ったようで、小声で馴れ馴れしく話しかけてくる。

「有名な話、聞いてないか。あんた、他所から来たの?」

「流れ者でね。あの細工がなんなのか、知ってるのか?」

「あくまで噂だ。でも誰も否定しないしできない、そりゃあもう、まことしやかなやつさ。聞きたいなら話してやってもいいけど……、なあ?」

つまるところ、この男の正体は訪問者に案内だのなんだのとまとわりついて、ちゃっかり小銭稼ぎをする輩だったわけだ。

話はこうだ。

祭りの準備が始まった年、聖堂や宝殿の建設にあたって、国は各地区に窓口を設け、平民からも寄付を募った。金銭は勿論、装飾用に融かせる金銀、古い貴金属も受け付けた。

そうして、この区域で役人がまとめ上げた寄付に、いつの間にか布に包まれた金細工があったのだという。

一目で熟練の職人が作ったとわかる一品、最初の簡易鑑定で、金は本物、大粒の石も、よくある水晶や石に模した硝子のような安価な代物ではない、それどころか特に希少性が高い貴石だと判断された。

寄付とはいえ融かすのは論外、誰か権威者に所蔵させるべきではないかと例外的に保存の案が持ち上がったが、王都から来ていた視察団の中に高位の術師がいたことでさらに事態が転じる。

これはどうもただの金細工ではない、と。

決定打は、どこにも術式を施した形跡がないのにも関わらず、金細工が桁違いの加護の力を帯びていたことだ。

検証にはさらに名うての術師や鑑定人が呼びつけられ、調べれば調べるほどに、単なる人間の手による細工ではないことが明らかになった。

何かしらの加護、『護る者』に属する者の手業ではないか。

まだ金や石の状態が新しいことから、最近作られたばかりで、職人本人か、限りなく近しい者が運んできたとみて間違いない。

役人たちは大慌てで、事情を知る者がいないか探そうとした。

寄付をした平民の名簿を虱潰しに当たったが該当者はおらず、界隈の地区で人探しが行われても、見つからなかった。名前どころか、男か女か、年齢も何も手がかりがないのだから当然だ。

どこからともなくもたらされたかのよう、作り手知らずの名品、どうするかの判断は、終いには王家直属の機関に委ねられることとなった。

「天地が『護る者』を遣わし加護と共に祝するならこの国も安泰ということ、謹み宝殿に納めよ。って言ったかどうだか、ともあれおれたちも拝めるようになったんだ。事なかれでしまい込んだり無視したりしたら、お怒りを買うかもしれないだろ?」

「それで、『護る者』の仕事だって結論が出たのか?」

「半々だよ、まだ言いきっちゃいない。だから噂なんだ。でかい声で『護る者』だなんだって言うと叱られるからな、こっそり、あちこちで話のタネになってる。ははっ、あんたも内緒話の仲間入りだ。あの細工が超一級品ってこと以外は、知らんぷりで黙っとけよ? この街を楽しんでってくれ!」

シギは葡萄酒二杯分の金を男に払って宝物殿を後にした。

男自体は胡散臭かったが、話の中身を単なる法螺話だと片付けるのは難しい。ただの職人が作れるものではない、特異な力のある者が関わっているだろうことは、自分がさっき痛いほど感じ取っている。

帰り際に改めて見た立て看板の目録には、加護宿りの金細工、とだけあって、聞いたとおり、『護る者』とは記されていなかった。

本物としかいえないとしても、偽物でないとはっきり証明できなければ仮定は仮定のままにしておくほかない。天地の降ろした力をヒトが解き明かすには、時間も要るだろう。

何年かここで暮らせば、もっとあの細工について知ることができるだろうか。

そうでなければ、職人や関係者をどうにか探し当てられやしないか。

あの加護を分けてもらえたなら、自分の力を今よりもっと抑えておくことができるかもしれない。

それは、希望ともいえること。

「……さすがに無茶か」

現実的ではない、シギは即座に、望みの小さな芽吹きを一笑に付す。

久しく穏やかな心地になっているから、叶わぬ夢を見たくなるのもしょうがない。

柔い心でいるのは嬉しいものだ。まだ陽も落ちていない、このまま宿に戻るのは惜しくて、シギは宝殿の周囲を少し見て回ることにした。

来たときとは別の路地に入ると、そこもまた露店がひしめき合っている。

古書。木彫りの置物。果物と野菜、花。いくつか樽を積んでいるのは麦酒か。浅い箱を抱えて歩き回っているのは炒り豆売りのようだ。手札を使う占い師。蠟燭や食器といった日用品。

眺めていて飽きない、必要なものや面白いものがあれば、買っておくのもいいだろう。

冷やかしにならない程度の距離感とゆっくりした速度で一区画進み、初めて別の路地と交差する、角地。

シギは立ち止まった。

切り花を桶や樽に挿して売っている隣、陰。一人で座るなら少し余裕ができるくらいの狭い場所。

蔓を編んだ敷物に、伏せた木箱を台にしただけの簡素な露店があった。年老いて細身の、白髪の男が鷹揚に胡坐をかいて、布で何かを磨いている。

さっき宝殿で大きな力に触れたばかりだ、自分の感覚が狂っているのかと、一瞬、迷った。

けれどまた次の瞬間には、あの惹かれるさざめきが胸に甦って、思い違いではないとシギは確信せざるを得ない。

「嘘だろ」

同じ。

同じだ。

あの金細工と。花弁色の、石と。

大きさは違う。こちらの方が小さい。でも等しいものだ。

木箱の上に細々と置かれているのは石を用いた装飾品、裸石や原石がいくつか載せられた小皿もある。平民にも身に着けやすくありふれた、加護の式を籠めた飾り細工だ。

露店にしても主人と思しき男の様子にしても、あまりに質素。だが、並ぶ指輪や首飾りは、滑らかな金や銀に石が座し、つい触れてみたくなる煌めきを放っている。

「あの……、売り物、見せてもらってもいいですか」

シギは露店の前に膝をついて尋ねた。

主人がこちらを見る、瞳が夏の梢に似た緑色で、別の大陸の出身者だと察しがつく。

「悪いが、駄目だ」

静かな短い返事、それと共に周囲の雑踏に紛れながらも、何かが弾かれたような、小さな音が立て続けに響く。

指で示された木箱の上、シギは図らずも身を引いた。

今の今まで、小粒ながらも星のように瞬いていた石が、どれも割れ、砕け、細工から外れている。

自分のせいだ。

何をしたつもりも全くない、が、シギは直感する。自分の力がどういう仕組みか作用したからだと、背筋が粟立つ。

主人が、大きく息をついた。

「おまえさん、どうにも訳ありだ」

恐怖や嫌悪の溜め息ではなく、感嘆の響き。

目の前で壊れた細工に頓着するふうもない、騒ごうとも暴こうとも思わないのか、ちょっと珍しいものを目の当たりにした、それくらいの態度。

壊したのは自分、他者に迷惑をかけている、ともすれば逃げ出していてもおかしくなかったが、主人の落ち着き払った態度がシギをこの場に留めてくれる。

考える顔つきでまばらな顎髭を撫でた後、主人が懐から小さな布袋を取り出す。

節くれた硬い手がシギの腕を引く、緩めた布袋の口から手のひらに載せられたのは、蒼い、一粒の石だった。

「うん、きっと、よかろうな」

真夜中の夜空をそっくり宿したかのような、深い、蒼。蒼玉。

息を呑む、美しさ。

触れているだけで、ゆっくり心がほどけていくようだ。荒みや胸の奥の澱みが、消える。

「こいつを持っていきなさい」

「えっ、いや、……こんな上等な石は」

主人の声で我に返り、このまま握り締めてしまいたいのを堪えて、シギは蒼玉を押し戻す。

さっき駄目になってしまった数々の石は、庶民でも手の届く範囲だったろう。だが、今のこの一粒は、素人目であっても等級が遥かに上、値打ちがまるで違うはずだ。

けれど、指先が石から遠のいた途端、渇望が始まる、離れ難い。

それでわかる。普通でないのは細工ではない、石だ。石が何かの力を持っている。

そしてやはり、シギの衝動を抑えてくれるのだ。

どうして、こんなことができるのか。とかく、この機を逃したら、後悔で足りなくなるのは目に見えている。なんの石なのだろう。何者なのか、主人自身のことも、聞いてみなくては。

しかしどこからどう切り込むべきか、何を言うべきか、長く生きてきたのに類似の事柄さえなかったから、情けなくもてんでわからない。迷子さながら、口をつく言葉を、選ぶ余裕もない。

「今、飾りが壊れたのは、説明は難しいんですけど、多分おれのせいで……。あなたは、その、どういう方ですか。ここに置いてある石も、普通の石じゃないですよね」

「おれは職人だ。細工を作っちゃ売る、ご覧の通りだ。金銀やら糸やらは仕入れが違うが、石は全部、自分で用意してる。それでおまえさん、この石がいるんだろう」

「あ、ええと……、いります。いくらですか。壊した分も。おれの有り金、全部出します。足りないなら、工面できるまで待ってもらえると……」

「金はいらんよ。必要か、そうでないか、それだけだ」

拒まれてはいない、けれど、多くの言葉を割いてもらえるわけでもない。こちらには何も尋ねてこない。しかも金は不要だと言う。甘えて受け取ってしまったら、もう会話も終わってしまうのだろうか。

財布を出そうとした手も半端に、まごつくしかないシギはしばらく主人に見つめられ、言われた。

「その耳の輪をひとつ、使わせてもらえると助かるが」

「この耳飾りですか?」

「石がそう大きくないからな。簡単な飾りに仕上げるから、着けるといい。もとからおまえさんに馴染んでいるものを使った方が、据わりがよくなる」

シギが旅を始めてから買った、数個の耳飾り。

旅生活は不安定だ。正面から賊に襲われるなら、昔叩き込まれた体術や心得で、闘うか逃げるかできるくらいの技量は持ち合わせがある。しかし盗みや紛失、他にも窮地に陥って手元の路銀がなくなったときに、換金できる別の何かがあった方がいいかと考えた。

当時の三ヶ月分の宿代を削って求めた金の輪、質は悪くないはずだ。

石も意匠も施されていない、加工されるのは問題ないが、主人にとっては余分な手間だろう、いいのだろうか。

だが、断る理由もない。

シギは言われるまま、左耳から金の輪を外して主人に渡した。

「やけに素直だが、おれはこれをどうにかしてかっぱらおうとするかもしれんよ」

「……そんなこと、するんですか? だとしても、話しかけたのはおれ、渡したのもおれだから、盗られたのは自分が悪いと思うだけですよ」

「やれやれ。いささか投げやりとも言えるな」

呆れたような言い方をされる、けれど主人の声色は終始、穏やかだ。

無愛想で商売向きではない、ただ根は優しいのだろう。

木箱の上が片付けられ、出されるのは、空いた板の上をちょうど覆うくらいの布と、蓋を紐で縛った小さな壷、木筆が一本。

主人が壷の紐を解く、中は水で溶いた黒の染料らしい。

布の中央に石と金を置き、染料に木筆を浸す。

そこからは、迷いひとつない精巧な職人の手つきで、行われた。

大波のようでいて規則的な曲線、連ねられる輪が道具を用いていないとは思えない正円。線は滑らかで、細かいのに擦れも途切れもせず、粛々と術式を構築する。

丸み。流線形。この大陸ではなく、どこかで見た、式の形。

あれは確か、ここから真反対に位置する大陸だった、シギは思い出す。

手を止めず、主人が初めて、尋ねてきた。

「おまえさん、この土地の生まれか?」

「あ……、はい、そうです」

「そうか。ここは随分昔、大きな戦があったってな。どんなになっちまってたかわからんが、そんときこのあたりで暮らすのは、今と違って大変だったろうな」

「……そうでしょうね」

主人がシギを見ることはない。

乱れず、ぶれず、術式を記していく、緩急も濃淡も自在に、筆が布を駆けていく。

「おれはな、ここに来て昔の話を知ったとき、嫌な気になった。そんなのがまた起きるのも、まっぴらだ。だから祭りがあるのを聞いて、まあ、自分のやれる分だけだが、石と加工用の金を用意した」

「えっ?」

「先に作った細工はもう、おれの手を離れたから、知らん。で、この蒼玉だ。これはな、その細工に使った石と同じときに、おれの手元に来た。人間でいえば兄弟みたいなもんだ。どうしてか、何かしようにもしっくり来ないでな。……おまえさんを待ってたんだろう」

信じられない、今日は幾度そう思わされるのだろう。

すぐ後ろも隣の露店も、人々の行き来は止まらず足音にまみれている、だのにまるで隔てられているかのよう、主人と自分のいるこの一角だけ、よく声が届く。

「この石は、おまえさんを護る。標にもなる。ただし、ずっとじゃない。すぐか、遠い先になるのか、そのうちいずれだな、これが砕けるときは、護りを失うが、次の標も見つかったときだ」

主人の言葉は独り言めいていて、問いかけをさせない。

線。図形。古い時代に定められた文字。全てが合わさって、見惚れずにはおれない、術式の描き終わり。

「さて。おれは見られながら術式を展開するのはあまり好きじゃないんだ。代金はいらんが、頼まれてくれ」

「構いません。何をすればいいですか。そっぽを向くとか?」

「そうだ。後ろを向いて、ここからもうふたつ先の角を左手へ曲がってくれ。パン屋がある。そこに干し葡萄の入った丸いパンがあるから、ひとつ買ってきてもらえるか。午後の分がちょうど焼き上がる頃合いだ」

「わかりました。その店の、美味いんですか」

職人の見事な技を垣間見た、夢現から覚めた心持ちで、シギは立ち上がると膝を軽く払う。

本当に代金を受け取ってもらえないのだとすれば、雑用を頼まれるくらい、何ら否はない。

木筆と染料を置いて、主人が微笑んだ。

「美味いぞ。それにおれには懐かしい味だ。おまえさんも食ってみるといい」

狭い道を、人々の隙間を抜けながら進むのはいくらか面倒だったが、目的の店はわかりやすくそこにあった。

温かく香ばしい匂いがする、つい頬が緩んでしまう。

やや大きい半球型のパンを、主人と自分の分、ふたつ買った。抱えた小脇でまだ熱い、ほとんど冷めさせず、持ち帰れるだろう。

だが。

シギが戻ったとき、主人と、猫の額ほどの露店は、忽然と消えていた。

曲がる角を違えたのか、似たり寄ったりの路地だからどこかと混同しているのか、自分の誤りであって欲しかった。

切り花売りの横、直前まで使われていたのを裏づけて、整った四角で地面が空いている。

あの店は敷物を巻き、木箱に全て収めれば移動は容易い。

どこかへ、行ってしまった。

石や渡した金の輪の所在よりも、あったはずの場所が消えた、まずその現実がシギを打ちのめそうとする。

けれど、後ろから投げられた声にシギは振り返った。

「にいちゃんさ、葡萄パンのやつ?」

同じ目線の高さではなく、だいぶ下に、声の主がいた。

この近くで暮らしているのだろうか、十歳になるかどうかの男児が四人、遠慮もなく腰回りにまとわりついてくる。

「干し葡萄のパンは持ってるけど、おれに何か用か?」

「ここにおっちゃんいたじゃん。石売ってるおっちゃん。今日はもうおしまいにしたから、パン持ったにいちゃんが来たらこれ渡せって。で、パンもらえって」

「なんだって?」

こどものひとりが、まだ大きくない手で無造作によこしてくる。

蒼い煌めき。

金の輪はどことなく花を連想させる縁と爪を作られて、今は石を留めている。

「おまえたち、そのおっちゃん、どこに行ったかわかるか?」

シギの問いに、こどもたちが一様に首を横に振った。

「知らねー。おれらもこないだここ来て初めて喋ったんだ。何日前だっけ?」

「んー? 一昨日? その前? もとは遠くから来たって、それは言ってた」

「きらきらしてる石、今日も見せてもらいたかったのに。つまんねーな」

「怪我とか病気とかするなよって、おれたち、おまもりもらったんだ」

口々に言うこどもたちの手首には、穴を開けた石に皮紐を通しただけの、腕飾りがある。

小さい、けれどあの主人の石だ。

シギはパンをひとつ渡し、彼らがそれを分け合いながら楽しそうに去っていくのを見送った。

残された、蒼玉の飾りとパン。

浮かれて初対面で距離を詰めすぎたのかもしれない。関わり合うのを避けられたのかもしれない。こちらがそうであるように、恐らく向こうにも、軽率には明かせないものがあったのだから、仕方がない。

深入りしないでいるのが、互いのためだと。

それでも、仄めかしながら話してくれた。こんなにも稀な石を譲ってくれた。

優しい騙し討ちで消えられて、ちょっとした腹立たしさも落胆も、感謝も、伝えられなかった。

一言も、礼を言えないままの、別れになってしまった。


シギが露店の主人に会うことは二度となかった。

代わりに、次の標とやらを探そうと、また旅を再開した。石を扱う職人や店があれば寄って、それとなく蒼玉の反応を試す。

果てしなく、飽き飽きする、だが、今までの旅路とは眺める景色の鮮やかさが変わり、澄んで色濃く思えるようになった。

裏切りと逃走の続きに現れた、貴石一粒の、希望。

あの金細工が『護る者』の手による品だと確定され、貴石の『護る者』より、と宝殿の目録が改められたのは、八十年ほど経ってからだ。

シギはそれを、別の大陸で、偶然、他の旅人から聞いた。

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