第13話【獲る者】
違和感。
何かが、変だ。
だのにわからない。
何かをされた、けれど、どうなっているのか、わからない。
「う、ぐ……!」
身動きが取れない。苦しい。
さっき目の前に立っていた男。
その男が、地べたにニレを押しつけている。仰向けの胸から腹に片膝を沈められて、上からきつくかかる相手の体重、身体を捩っても除けることができない。
しかし何より、どうしてこんな状況になっているのか、それがニレを混乱させる。
理屈ではない。さっきニレは間近に男を見た。驚いて瞬きくらいはしただろう。しかし目を開けたときには、自分の身体が捕らわれていた、そんな有様なのだ。
近づかれたのも、転がされているのも、いつの間にどうなってしまったのか、わからない。
ニレは逆光の中で、男の姿をどうにか仰ぎ見る。
やはり雨に濡らされた、無造作に伸びて肩につきそうな髪が濃い褐色、眼が暗い青色だ。齢は四十を跨ぐかどうかといった様子で、まばらな髭、やつれた頬をして、今は笑みを浮かべている。見覚えはない。
もともと消耗しているとはいえ、ニレが手足をばたつかせても意に介されない。体格が飛びぬけて大きいわけでもないのに、ぴたりと自由を封じてくるあたり、男には体術の心得があるのかもしれなかった。
「くそ……、放せ! おれに何をした……!」
押さえつけられて擦れた声を、ニレは懸命に発する。
すると男が人差し指をそっと笑んだままの口元に立てた。
「しー……、大声出しなさんな。イい子なら酷いことはしない」
肉を喰らう獣が、力量の違う獲物に最後のひと噛みをしてくれようと焦らず窺う、余裕。脱出や反抗を許さないのに、おとなしく息をさせる、手加減までされている。
話すといくらか訛りが混じる、同じ大陸の地方特有のそれではなく、外の国、別の大陸の調子だ。
「……あんた、なんなんだ?」
「『強奪者』。んン、この大陸じゃ獲ル……者、か。『守護者』の坊ちゃんとは逆だな」
あっさりと男が言う。
そうだ。腑に落ちない感覚のひとつは、この男の態度だ。
久しく会う遠縁の年長者のよう、元気にしていたかとでも今にも聞いてきそうな、一方的な旧知の眼差し。
たまたま居合わせたから、ではない。ある程度の予測を立て、ニレを何者であるか知ったうえで、何かしら確固たる目的でもって、押さえつけてきている。
それでもニレには最早、驚く心はほとんどない。
あの雨の路地を抜け、出くわした時点で、互いに只者ではないことは知れている。今ここには、自分の秘密よりも優先するべきことがある。
「この街がおかしくなったのは、あんたが何かしたのか?」
「したよ。だって当然だ、古キ時代からおれはヒトの天敵、ヒトを護るのは坊ちゃんたち。おれの言ってること、おかシいか?」
言い逃れや隠す素振りは微塵もない、男の言動は世界の理には反していない。天地の考えを軸にしている、他者を害することへの罪悪感が希薄だ。睨んで返してもニレは悠々と見下ろされるばかりで、根源的な価値観が別物であるのを思い知らされる。
けれどややあって、男が不思議そうに首をかしげ、無遠慮な手つきがニレの顎をぐいと掴んだ。
「坊ちゃんは面白いな。普通の人間みたいに暮らしテきて、おまけにまだ百年も生きてない。それなのに『守護者』とも『強奪者』とも、縁ができてる」
「あんたとは会いたくて会ったわけじゃない! 大体、なんでおれのこと知ってるんだ」
値踏みをされるような不快さに、ニレはどうにか相手の腕を払おうと抵抗を試みるが、男の手に籠る力が強い。
陽が遮られ、影が落ちてくる。
近く、覗き込まれた。
「あァ、違う、『強奪者』はおれだけじゃない。今はシギって名乗ってる。随分とかくれんぼが上手みたいだが、あれはこの世界で最たる災禍だよ。坊ちゃんはその災禍に惚レ込まれた特別な特別な『守護者』。いいなあ、羨ましい」
「……、なんて言った?」
「全部は聞かされてナいのか。だったら、教えてやるとしよう。おれは誰かが何かを知ってさえイれば、なんでもわかるんだよ」
すらすらと喋る男に視線を合わせられて、ニレは首裏に嫌な汗をふき出す。
全身ずぶ濡れで水が滴り落ちてくるほどなのに、相手の眼だけが虚ろに乾いている。滑り崩れる底なしの砂に足を捕らわれたような、焦りと恐怖がわきあがる。
何かされる、ニレが直感したのと、新たな人影の気配、呼ばれたのが同時だった。
「若木君!」
「ミナセ……! こいつが」
よく聞き知った声になんとか首を向ける、視界に長い金茶の髪が揺れて見え、叫んで返す途中。
すとん、とニレは暗闇に落ちた。
一瞬、目を塞がれたのかと思い違う、どこを向いているのかもわからなくなる、真っ暗な空間。
かけられていた男の体重が消えたどころか、身体が宙に放り出されて、何も捉えられない。
二度目だ。
あの日の、あの晩の、夢と同じ。
しかし今度は世界が離れていくのではなく、暗闇に一点の白が現れる、広がり、どこからか生じた景色になって急速に近づいてくる。
眩むほどの光。傾斜を描いている緑。山か、森だろうか。
吸い込まれているのか、落ちているのか。どちらにせよ崖から落下する夢に近い、腹の中が浮く感覚に思わずきつく目をつぶる。
次に瞼を上げたとき、ニレは景色に取り込まれていた。
立っているのは、低山のようだった。
名を知らない枝葉の木々、小さな花。森の途切れた中腹にいて、眼下には広く見通せる平地、光景に目を疑った。
平地をこちらと向こうで真っ二つに塗り分ける、ヒト、ヒト、ヒトの群れ。あまりの数に地面に何が敷かれているのかと、すぐには人間だと判断がつかないほど、粗末であれ上等であれ、揃いの鎧や防具を着け旗を掲げた、生きた人々の集合。
槍や剣の切っ先がちらちらとあちこちで光を反射し、歩兵の後に控える騎馬兵の馬の嘶きが聞こえる。
整然と列をなして並び、ときにうねる、何千か。何万か。大地を分厚く覆う、こんな数は、今まで見たことがない。
戦争。
覇権争いか領地争いか、いずれにせよ歴史書に残ってもおかしくない、時代の分かれ目にもなろうかという規模。
近くこちらに背を向けている自軍が青、対峙している相手が赤と銀の基調。
ここは青の軍勢の最後方に位置しているのだとわかる。
空白地帯を間に挟んで、将が一声上げるか、喇叭が吹かれるか、そうなれば一斉に前進し動き出すだろう、ひりひりとした士気の昂ぶり、緊張感で遠目にも鳥肌が立ちそうだ。
「 」
近く、声がした。
短い命令。
知らない国の言葉なのに、意味がわかった。
何をとも、誰にとも、言われない、即ちそれは見渡している全てを示す。
手懐けられ教え込まれ、指示されたなら意図を汲み上げて理解し、抗う選択肢は持ち得ない。
何より、鼓動や呼吸を止められないのと等しく、力を振るわずには生きていけないのだから。
難しいことはない。
意識を向けるだけでいい。
穏やかだ。
水面の波紋が音もなく広がっていくように、誰彼の別なく、辺り一帯を流れていく。
目に映らないそれは、自身から生じ、自身に還ってくる。
まず兆しにひとつ響く、平地のどこからか金属が不規則に擦れる音。
後はそれを追って、次々、あちこちが落ち窪んでいく。
身にまとう武具ごと、その場の人間、誰もが崩れていく、光景。
敵は敵、味方は捨て駒、ゆえに区別はない。
比類ない力を放って圧倒し、膝を折らせよ、希望を砕け、生を断て。
それが、この身に与えられている役割。
ある者は膝から折れて祈り座す形で、別の者は隣り合った者とぶつかり合い歪に重なる、あちこちで異変に気づいた者が何か声を上げようとして口を開け、しかし息を漏らすことなく倒れていく。術師が式を展開する暇を与えない。苦痛の呻きや断末魔の一声もなく、無機質な金属音の連続、背から手綱の主がずるりと落ちて、馬たちだけが騒ぎ出す。
幾千幾万の、つい今まで確かに息づいていた人間が、ヒトの形をしているだけの物体と化す。
力を奮う。
奪う。
無差別に。
手当たり次第に。
胸に満ちる。
手応えに安らぐ。
奪う命の気配が降り注いでくる。
けれど断固として否を叫びたくなる。
四肢が震える。
胃の腑が締め上げられ、泥のような熱が止めようもなく喉元を逆撫でる。
臓腑を引っくり返しそうだ。
相反する、これは拒絶だと、自覚するより先に己の足元が揺れた。
地面に頽れる寸で。
「大丈夫」
耳元で声がして、身体を起こされた。
反転、周囲の景色や音の全てが掻き消えていく、瞬きをするごと、世界が切り替わっていく。
「全て、終わっていることです。囚われる必要はない」
水の流れ続けている音、その中に、よく通る声。
滲む視界をはっきりさせようと目元を拭う、考える前にそうして、自分に自由が戻っていることにニレは気づく。
傍らに膝をついた姿勢、上背を支えてくれる腕と手のひらがあり、間近の黒い影は水に濡れて艶を増した髪だとわかる。
紛れもなく、追いかけ、捜していた相手。
「シギ……!」
「はい」
呼びかければ、短い微笑みで返してくる。
昨晩と同じ少しの苦さのある笑み、けれど、水を滴らせている以外は何事もない姿でもって、シギがいた。
無事だ。
よかった。
まずほっとする、だが、浸ってはいられない現状がニレを即座に取り囲む。
見回すと、さっきまで自分の上にいた男がやや離れた場所に転がっていて、半身を起こし、頭を振って呻いている。
どうやらシギが殴るか蹴り飛ばすかして、退けてくれたらしかった。
「あいつ、おまえがどかしてくれたのか」
「少し手荒になりました。ニレ、立てますか?」
先に立ち上がったシギが力強く腕を引いてくれる。
ミナセが駆け寄ってきて、こちらが無事であることにわずかに安堵を覗かせ、すぐさま毅然として男との間に立つ。
「おまえたちが何故ここにいるのかは後で問う。今は下がれ」
「ミナセ、なんともなかったか?」
「私は問題ない。だが、先程の光景……、青に、赤と銀の備えだと……」
応答と共にミナセが訝しむ、『獲る者』の力の範囲に巻き込まれ、ニレと同じ景色を見せられていたのだろう。
しかし、大規模の争いであるとしかわからなかったニレとは違い、ミナセには一致する符号があったようだった。何かに思い当たったらしく、ただ、信じ難いのか、珍しくも言いよどむ。
一拍の間を置いた後、ミナセが男に詰問した。
「貴様が北大陸のビサイか。記憶の『獲る者』、敗戦国の筆頭諜報者。数日前、貴様の手配書を港にて受けている」
「記憶って……」
その力には耳に憶えがある、ニレが見やるとシギが口元を固く結んでいる。
しばらく前に終わったと噂のあった北大陸での戦。敗れた国の捕虜として扱われるべきところを、周囲から自分の記憶を奪い取って檻を去り、この西大陸の入口、堅牢なはずの港も同様の手口で通り抜けてきたらしい。
容姿も、名も、立場も、相手から残らず自分を忘れさせてしまいさえすれば、存在を消せる。
そして、この街では、無差別に人々の記憶を獲った。
一晩のうちに喋れなくなり、話が通じなくなった者たち。道具も使えず、表現や制御の方法がわからないから、感情の動くまま泣き、笑い、急に叫ぶ。習慣、知識、言語、経験、あらゆる蓄積を引き剥がされて、身体以外が赤子に戻ってしまったも同然だったということだ。
気配なく目の前に立たれ、押し潰されたとニレが思ったのも、その間の記憶を抜き取られていたからだろう。
そっくり奪うこともあれば、部分的に操作し相手の動揺や違和感を利用する、一言で記憶と括れても手段は数知れない。
情報収集と暗躍に長けている、ミナセの包囲をもってしてすぐに正体が知れなかったのにも、納得がいく。
「不法にこの地に立ち入り、加えて我が民に害を成した理由を答えろ。それに先程の光景、どうやって知った? 貴様自身のものとは到底思えん」
ニレははっとする。
見せられたのが、いつか誰かの記憶だとするなら。
ビサイが直前に話したこと。
『シギ』、その『世界で最たる災禍』である証明。
ミナセが言う。
「あれはここより彼方の地で、かつて争った天地派とヒト派の、最後の争乱だな?」
教わった南東大陸の歴史。
八百年前、大きな失策で敗北したと文献に残る天地派の軍。
シギの昔の話。
汚れ仕事の血筋。
自国の内でも隠されていた存在。
遂行できずに、逃げてきた、と。
その後、隣国と併合した土地。
さっき体験した、景色。
濡れている黒髪。
左手の指輪に、紅柘榴はもう留まっていない。
ただのヒトではまず間違いなく耐えられない雨を浴びた、姿。
ばらばらの事柄が整い、揃って繋がる、もともとそうであっただけ、現れるのは元来の姿でしかない。
考えるまでもなく、だが、真実を理性が肯定したとして、感情がついていけるかどうかは別だ。
ニレはシギを見た。
眼差しの先で、一度、シギが目を伏せる。
よく通る、声だった。
「僕の記憶です」
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