第12話【快晴と檻】

眩しい。

窓から入る淡い光に照らされているのが、閉じた瞼でもすぐにわかった。

たまにする午睡、秋や冬の晴れの日は大概、こうして陽を受けながらするものと決まっている。

明るくて気持ちがいい、何日ぶりだろう。

長雨だったから、と頭に浮かんだところでニレは一気に跳ね起きた。

「って……!」

勢い任せに起こした身体、脳天が、びりりと痛む。

何かを盛られた茶のせいだと察するも、残る痛みや脱力に怯んでいる暇などない。小声で呻つつ見回すと、自分の部屋、寝台に寝かされていたのだと、まずはっきりした。

強いられて眠りに落とされる前、何が起きたか、何をされたか、何を言われたか。

ここまで自分を運んできたのはシギだろう。靴が床に揃えて置かれ、毛布も丁寧に重ねてかけられていた。

寝台を転がるように降り、窓辺から空を見上げる。

雲を残らず取り払い、拭き上げたかのような、青空。

ぞっとした。

本来なら嬉しく受け入れて然るべき、待ち望んでいたはずの晴天が、何故なのか禍々しく、背筋が震える。

全ては終わったのだろうか。

眠ってしまってから、どれくらいの時間が経ったのか。

シギは。

胸騒ぎがする。

ニレは怠く重たい足元を疎ましく思いつつ、自室を出た。

「シギ! シギ、どこだ?」

隣の部屋。シギの荷物が全てなくなって、貸していた寝具が整えて置いてあった。廊下。食堂ももぬけの殻。書置きの類もない。ただ、洗われた食器がまだ水滴を残していて、眠りこけていたのは一晩だと知れた。外に出て、便所から薪置き場、納屋も見て回る。誰の気配も、ない。

見上げる陽の高さから、まだ昼前ではある、トマルの手紙のとおり物事が動き出したのが今日の夜明けだと考えれば、長い時間は経っていない。

ニレは井戸で水を汲み、手で掬って飲んで、顔を洗った。

冬の空気が濡れた皮膚を痺れるほど冷やして、薬の残りでぼやけている身体の気付けになってくれる。手指や足、四肢の感覚は、まだ完全に普段の状態には戻っていない。でも、問題もない。震えや浮遊感は消えている、動ける。

昨晩のように倒れたり意識を失ったりは、もうしない。

靴紐を結び直し、外套を羽織る。納屋にわずかに残っていた貴石の粒をざらりと懐に入れると、ニレは小屋を後にした。

向かう先は、街。

休んでいてくださいとシギが言った。

あの裏側には、僕が行きます、という言葉が絶対にあった。

ニレを無理やり小屋に残したうえ、荷をまとめて出て行った。もう戻ることも語ることもしないといわんばかり、一体全体、シギがどういうつもりなのか見当がつかない。何をする気なのか。

街の異変も、片付いたのかまだ渦中なのか、自分の目で見てみるまではわからない。この嫌な感覚が取り越し苦労なら、笑って喜べばいいだけだ。

木々の上に広がる青空の濁りのなさが不気味なほどで、少しずつ足を速めながら、森を抜けていく。

街へ通じる道に出たとき、陽はもう南に昇りきらんとするところだった。

遮るもののなくなった陽光を浴びて眇めた目で、ニレは平地の遠く、目指す方角に巨大な壁を見た。

「は……?」

口元から間の抜けた息が漏れたが、許して欲しい。

冬場で土の色のままの田畑、遥か遠くに半ば溶け込んでいる地平の隆起、空は澄み渡って、安らいだ景色の中心に、冗談のような大きさの壁、絶壁があった。何度でも眺めてきた風景、本来なら街のあるべき空間が、突如、きっちりとした灰色の四角で塗り潰されているのだ。

例えば空から幕を下ろせばああなるか。そうでなければ、地面が立ち上がったのか。

否、違う。

あれは天から地までを覆って閉ざし、外と内を隔てるもの。

こんなにも空が晴れている理由に、ニレは思い至る。

夏、夕立の、馬の背分け。

昨晩まで広く拡散していた雲が、今は全てあの街の上に集約されているのだとしたら。動かず、流れず、幾層にも重なる黒雲から激しい雨が落ち続けているのだとすれば。

眺める光景の辻褄が合う。

遠目にも違わぬ豪雨、ミナセが雨を使役している。

神秘的にさえ映る、神話や伝承の挿絵か、絵画か、そんな光景だのに、まだ何も終わっていない現実を、こんなにも見せつけられる。

ニレは走り出していた。

街道には、数日前と変わらず、ほとんど誰もいなかった。あるいはさらに通行が厳しく止められているのかもしれない、街側は無論だが、港側からの馬車や荷運び人の姿もない。たまに、界隈の住人らしき者が、街の方角を眺めては心細そうな顔でうろうろしている。

雨の壁に近づいていくにつれ、風に流された飛沫が霧雨になって触れてくる。冷たい頬に自分の呼気が触れて生温い。高くまで昇った陽が細かな水に光を通して、宙にうっすらと虹をかけている。

さらに向かっていくと、音も耳に届いてくるようになった。最早、雨とは呼べない、滝の如き落下音。雨粒の不揃いな状態が失われて、上空から一筋に連なった水の響きだ。

なかなか縮まらない距離を走りに走って、荒れた呼吸で喉から肺まで痛くなる。鼓動が、心臓の形が浮き上がっているのではないかと不安になるほど速く強い。

絶え絶えの息で街の傍まで来ると、まとまった人の姿があった。

「そこ、下がっていろ!」

「迂闊に近寄れば無事では済まんぞ!」

ミナセに従属する術師、衛兵たち。街の外側で暮らす農夫や商人の集まり。

注視してみると、術師と衛兵には野次馬を牽制する他に、数人ずつまとまって外から見回る組、その場で待機する組がいるらしかった。街から出る者あらば捕縛せよと声を上げている、ほとんどの者が内側に神経を尖らせている。

だが、場にいる全員が一様に、恐れをなしたふうで街から一歩引いている。

当然だ。

日頃は塀や柵で囲われている街が、今は雨によって区切られている。

真っ直ぐに空から落ちて、こちらとあちらを切り離している水。怒涛の如く降り注いでいるのに、跳ねてくる飛沫は柔らかな程度だ。足元に水の一筋はおろか水溜まりさえなく、内側へ内側へ水全体が流れて、自然の天候では起き得ない法則が働いている。

隔絶。

まるで、檻だ。

触れたら最後、指先から切り落とされるか叩き潰されるか、そんな想像も難しくない。

しかしミナセが、考えるにシギも、この中にいる、今まだ雨が降り続いているということは、一連の根源にあたる者も、また。

ニレは走って乱れた息を落ち着かせ、人の集まりを掻き分けて前に進む間に、己に問いかける。

ここまでは来た。けれど、もう光景からして常識を超えている。中の様子は一切わからない。踏み止まることこそが正しい選択かもしれない。ミナセの足を引っ張りたくはない。それに観衆がいる中で人間離れした真似をすれば特異者であることをさらけ出すも同然。

でも。

終わったら勝手な判断を省みていくらでも謝罪し、罰を受けてもいい、もし加護を求められることがあるなら全ての力を尽くすと街に向けて誓う。次に顔を合わせたら昨晩からの一件を雇い主として盛大に叱り、納得いくまで話をしようとシギへの意を決する。

それにもうすぐこの街から発つ、今なら、いくらかの注目を集めたとてどうとでもなろう。

黙って待っているのは、やはり無理だ。

ニレはひととき目を閉じ、懐に忍ばせてきた貴石を、外套の上から触れて確かめた。

ここは港側の正面入口、他へ迂回している時間はない。衛兵と術師が輪を描くように街を囲み陣を組んでいるが、この水を前に、外から内へ入る者がいるとは考えていないようだ。

呼吸を整える。

空気を吸って、吐き、再度吸ったところで息を止める。

ニレは観衆の中から一気に、術師の手薄な箇所を突いて前方、水で塞がれた街の入口に一目散に駆けた。

「貴様、何を……!」

後ろ、力任せに外套の裾を掴まれた気がしたが、既に水の壁の中に飛び込んでいたニレはそれ以上の拘束を受けない。

寸前に聞こえた人々のどよめきや術師の慌てふためいた影が掻き消え、直後、鼓膜が捉えきれず無音かと誤るほどの轟き。

飛び込んだ瞬間から、そこはまるで水牢、拷問場所だった。

水が、重たい。

視界がきかない。

項垂れよ、地に伏せろと錘の如く激しく打ちつけてくる雨。

下手に口を開けば水に入り込まれてすぐさま溺れてしまうだろう、手で口元を覆い、慎重に、小さな息を繰り返す。

耳をつんざく音と衰えることを知らない勢いの豪雨に圧しかかられ、最早、冷たさや寒さは二の次になる。くじかれそうな身体をどうにか耐えさせるのが精一杯、前が前とも知れないような状態だが、進むしかない。

ニレはトマルから聞いた話を思い出す。ミナセの考え。石を配った区画。大広場。

今いるのは、街を東西に抜ける軸ともなる大通り。これだけの雨の中を無駄に歩き回る余裕はない、一番近い道で広場へ向かうのが最善だ。

半ば手探りながら、しばらくすると、水がどう流れているのかもわかってきた。

落ちてくる雨が無限なのではない。地についた雨は傾斜に関わらず様々の建物の壁をめがけて流れ、今度は降るときと同じ速度で地面から空へと昇っていき、また降って循環している。しかもこれだけの流水なら落ちているごみやら何やら足元にぶつかってきてもおかしくないはずだが、どうやら動いているのは本当に水だけだ。

店や住居の戸口は駆け上がる水で厳重に蓋をされているのも同然、住民の出入りなど考えるまでもなく皆無だ。

強い力、水の『護る者』が大昔から語り継がれ、地位を得てきた理由は、まさにこれなのだろう。

しかし、命を即座に奪わないというだけの苛烈な雨をもってして、いまだに状況が転じないところを見るに、ミナセがあたりをつけた相手はよほどの手練れなのだろうか。

時間の経つごと、胸元で、小さな石粒が加護を失って砕けていくのが肌でわかる。

石が全てなくなったらどうなるかはしれない。尽きる前には新たな石を出さなくてはとニレは構えていたが、大広場に踏み込んだとき、その一歩を境にして、急に、身体にかかる重みが消えた。

外から街へ入ったときと真逆、今度は水の壁から、抜け出たのだ。

「ここは……」

雨の重圧から解き放たれ、ひととき呆けたが、前に進むことに必死で置き去りにしていた五感が正常に働き始める。

いつしか口の中に溜まっていた水を咳き込みながら吐き出し、鼻奥を痛ませつつも、空気を胸の奥まで行き渡らせる。頭からつま先までずぶ濡れ、身体を伝う水で足元に水溜まりが広がっていく。

顔を手で拭いながら空を仰ぐと、嵐ならば目、雲の渦の中心といえよう、ぽっかりと大広場の上だけが晴れていた。

冷気も遮断されているのか、冬の陽であっても暖かさがある。ニレは辺りに注意を払いながらも、外套や靴の紐を解いて脱ぎ、できるだけ衣服を絞って、靴からも水を振り落とした。無風でこの温度なら低体温にならずになんとかなるだろう。

大広場。

ここはもっと狭いと、思っていた。日頃は人の行き交いに物の売り買いで、端から反対側まで見通せた試しがない。今は移動式の屋台がいくつか並んで、取り残されているだけ。がらんとして鼠一匹いない。雨音はしている、けれど、降雨を浴びていたさっきまでと比べたら段違いに静かだ。

雨に追われた者を晴れ間で擁する場所。

路地をあの雨で覆いつつ大広場を開放しておくのは、相手を間違いなく追い詰められるようにしているのか。

生かして捕えるための咎人への情けであり、誘導し逃げ込ませるための罠。

ニレはどうにかここまで抜けられたが、あの水に打たれ続けていたらすぐに命に関わる。長くさらされてはいられない。

脱いだ外套から、石粒を取り出してみる。欠けていない石を数える方が楽で、紫水晶と砂金石の二粒が残っていたものの、手のひらの上、かすかな音を発して砕けた。

「こイつは僥倖」

知らない声。

驚いてニレが手元から顔を上げると、男が立っていた。

突然現れたとしか言いようのない至近距離、まさに、眼前に。

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