第11話【おやすみなさい】

街から小屋に戻った後は、パンを齧り水を喉に流し込んで、暖を取る間も惜しんで納屋に入った。

陽が落ちた夕方以降、雨雲に覆われた空では星の動きも見えない、仕事を開始してから、一晩のうちの時間がどれほど進んだのか。

意識や手指の動きに全神経を傾ける一方、ときに手順を忘れ何をしているのか不意に見失う錯覚に陥る。

規格外の貴石、どんな石でも一粒ずつ個性はあって、眺めれば愛着が湧く。誰かの手に渡る機会、こんな緊迫を伴っていなかったらどれほどよかっただろう。しかも、こうしている間にもミナセやトマル、街にまた何か騒動が起きているかもしれない。それにここだって安全だとは言い切れない。

集中が途切れると、取り留めのない、悲観や暗い妄想に引きずられかける。

感情の綻びは、平坦に行うべき術式の記述や展開にそのまま映ってしまう。

乱れた式は石粒たちを跳ね除け、あるいは不要な傷や欠けを生じさせる。

「お、っと……!」

今もまた、ニレは術式を途切れさせてしまい、反動で飛んできた石に悲鳴を上げたところだ。

石に触れる仕事は、己の未熟さを真っ直ぐに提示してくる、それが苦しくもあり楽しくもあるはずが、今は油断すると焦燥感に塗り潰されそうだ。規則に準じて着実にこなすべきだというのに、もどかしさばかりが募る。喜ばしい理由ではなく、数多く、速度を出さなくてはならない、責務も軽くない。

自分のできる量と時間で、試行錯誤や長い思案もできる、恵まれていた日頃のやり方とはかけ離れている。

夜の暗さもあり、ひとりで作業をしていたら、投げ出さないまでもどこかで挫けていたかもしれない。

けれど、今晩の納屋には、灯りがもうひとつある。

「はい、口を開けてください」

「え? あ、……あ?」

ニレの口元が苛立ちや焦りを含んだ溜め息をつく前に、何か摘まんだシギの指先が差し出される。

急に目の前に出されて言われるまま開けてしまった口に、放り込まれる小粒のかたまり。たちまち香草と蜜の香りが鼻を抜け、やや遅れて舌に濃い甘みがまったりと滲み出してくる。

飴だ。

煮詰められて打ち粉をまぶされた、丸みを帯びた甘みのまとまり。

強い糖分に不意を突かれたニレが口をもごもごさせていると、隣の椅子で作業をしていたシギも小さな紙包みを開いて飴を口に入れた。

「繰り返しは惰性に繋がりやすいですから。それを舐め終わるまで休憩してください」

「おれ、駄目になってたな、今」

「調子を戻しましょう。飴、まだありますよ」

作業の合間の、ささやかな気分転換。

ニレが腐りかけると、必ずシギが諫めてくれる。一口分の菓子や塩で炒った豆まで出してくれる手厚さで、肩の余分な力が抜け、仕切り直しができる。

さらには、シギの手際は、脱帽するほどによかった。

寸法の違う端切れを過不足なく鋏で断ち、綿の分量を見定める。ニレの術式を経由していくつかの皿に振り分けた石から包みひとつ分を選ぶ手つきには迷いがなく、無作為のようでいて色や粒に均等性を持たせている。店で極めて薄い布ばかりを選んでいたのも、袋状にしたときに石を透かして見せるのを狙ったのだとわかった。

包んだ布の口を閉じる紐の結び目もきっちりと揃い、細部まで作り込めば商品にできそうな仕上がり。

これから使われる石や丁寧に重ねられた布地に、束ねられた紐、既にできて並べられた小袋、整然としているのを見ると不思議と落ち着く。

「シギは手先仕事でも食っていけそうだな」

「僕は素人の範疇を出られませんよ。とはいえ、お役に立てそうでよかったです。数をすぐに用意できるなら、小さな壜でもよかったですね」

「そうか、壜か! 随分前に、細工にならない石を小さい標本用の壜に入れてさ、やったこと、あったな。街に持ってく途中でいくつか割って……、で、やめた」

「それで石の在庫がこんなにあったんですね。この件が落ち着いたら、またやってみては? 硝子壜を発注して、少しずつ詰めて、僕が運びます。売るときは陽の下や灯りの近くに並べましょうか。綺麗で、きっと楽しい」

シギがさらりと言葉にする。

視線が合った。

「ニレ、大丈夫ですよ。街には水の『護る者』がついている。明日からはあなたが加護を籠めた石も住人に届く」

シギの眼差しは柔らかい平静が保たれている。

街の異変が解決し、平穏が戻ると疑わない、ゆえに少し先の日々に楽しみを待たせるのに惑いがない。希望と呼ぶのは大仰すぎる、けれど灯れば拠り所になる。

慌てず騒がず着実に、前だけを見据えろと、ニレの背を押してくれる。

「夜明けまでが踏ん張りどころだな。シギ、街まで出てくれるんだろ? 少し寝ておけよ」

「一日二日の徹夜程度、問題ありません。でも、明日からはお互い、食事も睡眠も最低限は確保しましょう。一日で終わる仕事ではないですから」

溶け残りの飴を飲み下して、作業に戻る。

見誤ることは許されない。違わず。正しい手順。ぶれない式。できることしか、できない。それでも精度は上限で。

雨空でも朝は来る、暗い灰色の雲の流れが見えてくるまで、ニレはシギとふたり、納屋で一日目の仕事を続けた。

そこからは、早く遅い、時間の進み方がどうかしてしまったのではないかと疑いたくなる数日を過ごした。

ニレはひたすら加護の式を組んでは石を選別し、シギのいない時間には貴石を生み出して減っていく在庫を補いながら、作業に励んだ。街に向かわせたシギが小屋に無事に戻るか、トマルに何事か起きていないか、ミナセの動向はどうなっているか、頭の片隅で常に気にかかった。

シギもシギで、人心地着くどころではない忙しさなのは明白だった。

夜明け前に小屋を出たのにも関わらず戻りが夜に入るという長丁場、聞けば、小袋にしたおかげで多く石を運び入れられる分、配り手がトマルひとりでは足りないかもしれないと、街の住民へ渡す手伝いも買って出たらしい。

日中はそれぞれに働き、夜に顔を合わせて食事をした後は夜半まで納屋でふたりで手を動かす。シギを先に寝かせて、ニレはさらに一仕事の後、眠りにつく。明け方に目を覚ますシギが荷造りと朝食の用意をしてくれ、早朝、ニレを起こして街へ出発する。また晩までは、別々に動く。

朝も昼も晩も、間違いなく正しく巡っているのに、気づけばもう、という連続。

自分たちの心身と世界が全く一致しなくなってしまったかのよう、安らぎのない多忙とはこういうものかと初めて身をもって知る。

五日目の晩に差し掛かると、ニレは溜まった疲れを誤魔化せなくなっていた。

次の選別をすべく、木箱に入っている石を手で掬い上げる。だが、術式を記した布地に移すところで、手が意思と関係なく震え、指の隙間からいくつかの石をこぼした。

「ニレ、腕が震えているじゃないですか」

「平気だ。このところ細かい作業ばっかりだろ、ちょっと疲れてるだけだよ」

四六時中、気は張っているが、するのは手作業ばかり、本来の体力に限界が来るほどの日数は経っていない。昔には風雨にさらされながら野宿や山越えをした経験だってあったが、へたり込んだ記憶はない。

『護る者』として頑強な身体のはずなのに、しかし、その強さが特異者としての力を由来としているなら、困憊の理由はひとつだ。

一日と空けず、立て続けに、貴石を生み出している。

この数日で、わずかでも上質で、一欠片でも屑のないよう、願うのと願わないのでは、貴石が生じたときの結果がはっきり変わってくると気づいたのだ。以前から五感に触れた事物が貴石の色や種類を定めてはいた、ならば意思が何かしら形として現われてもおかしくない。

今まで、山や地層から掘り出す鉱物と同じで屑が出るのは自然だと考えていたが、違う。意のままの質や数が出なかったのは、裏を返すと、出てきたものを使えばいいだけで、どうしたいとは考えていなかったからではないか。

『護る者』だ、突き詰めていけば生み出す貴石を自在に操れるようになるのではないか。

安穏とした中では知り得なかった、この状況下でようやくというのは情けないが、現段階で最大限に利用すべきだ。

貴石は、今は大粒でなくていい。小さくて構わない、結晶や裸石として純度高く、歪みなくあれ。

ただ、思うようにいけばいくほど、身を削られるよう、体力気力が失われていくのだった。

眩暈や耳鳴りが頻繁になり、上腕から指先まで細かに震える。作業を進めろと自身を叱咤して振り払っても一時的に症状が離れていくだけで、蓄積された疲れは抜けない。

ニレはシギに言う。

「シギ。こんなときに悪い、おまえの故郷の、花弁色の石の話。あれ、もう一度聞かせてくれ」

「『護る者』の貴石の話ですか? いいですよ」

南東大陸に存在する、『護る者』が生み出したと伝わる希少な貴石。緻密な式によって作られたのだろう金細工の台座。未だに砕けず平穏の象徴として現地の人々の傍にある。

どんな想いで、何を願って、それほどまでの業を成せたのか。

現代まで伝わるほどの偉業をやってのけた先代と、同じ血が流れているはずの身体、数日すら耐えられずしてなんとする。

「あの石は、その界隈のみならず、平穏の象徴として最たるものなんです」

シギが語る声を鼓舞にして、ニレは疲労を抑え込み、その晩で既に数回目になる術式を展開した。

そして、迎えた六日目。

昨晩から、最後だからと仮眠も放棄して、ニレは貴石を用意し続けた。結果的に石はほとんどなくなってしまったが、それでいい、できる限りの数は送り出した。

頭の芯から手足の先まで気怠さを覚えつつも、納屋の中を形ばかり整え、小屋で食事のための蕪や芋の皮を剥く。

果たして、日暮れ前、トマルからの手紙と共に、シギが小屋へ帰ってきた。

開いてみれば、手短に現状に関する報せが連なっている。

今日の分で、必要な範囲より多くの住人に貴石を配り終えられたこと。

ミナセが異変の元凶にあたる者に目星をつけたらしいこと。

よって明日は予定通り街が閉鎖され、内外共に出入りが禁じられること。

ここ数日の仕事に対するニレとシギへの労わりの言葉で締めくくり、手紙が終わる。

解決に向けて滞りないのがわかって、しかし、本題はここからだ。

「明日は夜明けから丸一日、街は一時封鎖で外部の人間は入れないそうです。住民は外出禁止の厳命があったようですよ。衛兵や術師があちこちにいました」

「領主直属のやつらだな」

街の封鎖は容易くないが、ミナセなら、違反者への罰則を振りかざしたり警戒を強めたりせずとも、それこそ誰の是非にも関わらず遂行する方法を持っているだろう。前線に立ち、万全を期すための指示を周囲に出す様が目に浮かぶようだ。

解決する。そう信じられる。だが、無事で済むのかはわからない。

友人が。世話になった街が。深い傷を負うかもしれない。

スープを煮る鍋の番をシギに代わってもらい、焼いた塩漬けの肉を切って皿に分けていても、ニレは心が街へ向いて胸の中にないような気がしてくる。自分の仕事の区切りがついても、単にそれだけ、心配や緊張が解けていくわけではない。

大切な人間や場所がぎりぎりの均衡を保っているのを知りながらでは、日常に戻るに戻れない。

「街が心配ですか」

パンの一片を口に入れようとした手が、止まっていたらしい。

ニレがはっとすると、さっきついた食卓の対面、シギが苦笑を浮かべていた。

「心ここにあらず、でしたね。駄目ですよ、きちんと食事は摂ってください」

「悪い」

「いいえ。いろいろ考えてしまうのはわかります」

疲れている。腹も減っている。煮た野菜と麦のスープは温かくて美味いし、肉の塩味が舌に沁みる。

数日ぶりのしっかりした食事、改めて向き合うと、口も胃もすんなりと飲み食いを受け入れた。喉が詰まるとか全部は食べきれないとか、そんな軟弱な感覚もまるでないまま、身体が栄養を貪欲に取り込む。

空腹が落ち着いていくのは悪くなかった。余分に空いていた腹という隙間が埋まって、擦り減った気力が少しずつ戻ってくる。

食べ終わる頃には、さっきまでぐるぐるとまとまらなかった思考が、ひとかたまりになった。

「明日、街に行く」

誰にでもなく、ニレは言った。

決意の表明としては短くて簡素、だからこそ、意味の取り違えようもない。

先に食べ終えて小鍋に湯を沸かしていたシギが、数瞬、火元から振り返ってこちらを見た。明らかな小さい溜め息があって、しかしすぐに異を唱えるでもなし、いつも通りに茶の準備を進めていく。

茶葉を小ぶりの匙で三杯、鍋の湯に落として、火から離す。茶葉が開くまでの間に、椀をふたつ、乾燥させた果実を保存している器を棚から取り出す。

シギの声は静かだった。

「行って、何をするんですか」

呆れや反対ではなく、混じり気なく、問う言葉。

茶を淹れる丁寧な仕種は相変わらず、けれど突き放したり理詰めで説かれたりするよりも、きつくニレを戒めてくる。

「そう言うんじゃないかとは思っていました。でも、できることがありますか? あなたは職人で、兵でも術師でもない」

現実的な問いかけだった。

街へ入れる入れない以前に、その場に立ったとき、何ができるのか。役に立てる見込みがあるなら最初から協力の要請もあろう。事態を複雑にしないためにも、感情的にならず、踏み止まるべきで、異変の渦中に飛び込むのはただの無謀だと。

シギが言いたいことはよくわかる、真っ当で、ニレは反論を持てない。

だが、じっとしているとも、言いたくなかった。

できることはした、けれど、結果を待つだけではいられない。同じ特異者でもミナセのようには振る舞えない。争いになっても闘う力はない、そこは憂いてもどうしようもない。唯一できること。今日は夜明け前に貴石を生んでいるから難しい、しかし、明日になれば。

口を噤んだニレの前で、シギが茶を注ぎ分ける。

前と同じに入れられる、干した生姜、林檎。匙で混ぜると琥珀に色づいた茶を含んで、椀の底へ沈んでいく。

「あの街が大切なんですね」

「長く世話になった場所なんだ、当たり前だろ」

「トマルさんや、目をかけてくれる領主もいますしね。その彼らも、あなたが自ら危険を冒すのは喜ばないと思いますが、どうですか」

「……、定番の、嫌な言い方だな」

ニレは椀に息を何度も吹きかける。

茶の味は、今日は生姜が強いのか、一口ごとに辛く感じた。

鍋を置いた後は、食卓の反対側に戻らず、シギが傍らに立って茶を飲み始める。しばしの間を置いて、謝られた。

「僕の意地が悪かったですね」

「おまえの言ってることが、わからないわけじゃないよ」

ニレが見やると、シギが表情を緩ませる。

温和な笑みの中にかすかな苦みが滲む、それから再度の、謝罪。

「ニレ。ごめんなさい」

「なんだよ。何回も、謝るこ、とじゃな……」

言いきろうとして、ニレは呂律が回らないことに気づく。

口が、否、舌先だけでなく手足や体躯そのものが、急に重たくなっていく。砂袋を括られたかのように、ずっしりと、鈍くしか動かなくなる。まだ茶の残るカップを持ち上げてみようとして、できない。

「あ……?」

慌てる心中とは真逆に、四肢は緩慢になり、身体の芯までが揺らぎ始める。視界がゆっくりと反転していく、驚き立ち上がろうとして、けれど、ニレはもう自分の体重を足で支えていられない。

傾き倒れる身体は、シギの腕に受け止められた。そうなると予期していた流れる動作で、床についた膝の上、頭が落ちないよう半身を抱えられる。

難なく、見越されていた、それで、さっき飲んだ茶の中に何かが混ぜられていたのだと、ニレは翳り始めた脳裏で察する。

「ここ数日、石を出し続けて消耗していましたね。あなたの、『護る者』の貴石は、命そのものでできている。無理もないことです」

耳に慣れた声音と全て理解している口振りが、教えていない秘密と予想だにしない事柄を聞かせてくる。

押し寄せる疑問が喉元に詰まっても、言葉の形にならない、ニレの身体はもういかなる動転も表すことを放棄している。

どういうことなのか。

いつから。

なんで。

相手を掴みにかかりたいのに、腕も指も落ちたままだ。

名も呼べない。

問えない。

「あなたはすべき仕事を終えましたよ。だから休んでいてください」

どうして。

どうしてだ。

意識が溶ける。

もたれかかるしかない相手の身体が穏やかに温かい。

おやすみなさい、最後にそう聞こえた。

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