第10話【やるべきこと】

発端は五日前の夜中。

ヒトに強く干渉する、巨大な力があった。

街ひとつを軽々と越える広範囲、起点から円を描くように、力が伝わったのではないかという。

それは防衛の術式を施しているミナセの館にまで届き、だからこそすぐさまに水の一族たる力で、同じく広範囲に雨の防護を施した。今やこの雨粒が全て、女神の目や耳となり、領地全体の万事を感知しているらしい。

だが、最初の一撃の影響が残ってしまった、翌朝には異変が人々の前に現れる。

朝、眠りから覚めた家族のひとりが、隣人が、宿泊客が、昨晩までとは打って変わってどうかしてしまった、と医者を呼ぶ者が立て続けに出た。

「聞いた話じゃ、言葉が話せなくなったり道具が使えなくなったりしてるんだと。で、もっと厄介なことに周りとの意思疎通も難しくなっちまってるらしい。何を言ってもわからんようだし、おまけに急に笑ったり泣いたりな。口に運べば飯はよく食べて熱も発疹もないっていうから、やっぱりおれたちが知ってるような病でもないんだろう」

トマルの言葉にさっきの理髪店の娘が思い起こされる。

薬屋が混雑していたのも、極端には騒がないまでも、不具合に悩む者が多くいるからだろう。根拠はなくとももしや何かが効くのではなかろうかと、試さずにはおれないに違いない。

「街の連中は、まだ何も知らされてない」

異変があったこと、その原因は目下調査中だということは公に明かすが、不正確な情報はひとつとて出すなと土地の権力者や術者、近しい者たちにミナセが一律に箝口令を敷いたという。

しかし、日数が経てば経つほど、沈黙は人々の不安を煽るものでもある。堪えかねて誰かひとりでももっともらしいことを口にすれば、事実と食い違っていたとしてもあっという間に人々の耳に広がって、無意味な暴動や恐慌状態に転じてもおかしくない。

「だからミナセ様は、あと七日のうちには全て片をつけるおつもりだ。それでどうしてもにいさんに協力してもらいたいそうでな。おれが預かった言伝はそれだ」

「何をしたらいいんだ?」

「水の一族はヒトを護る立場とはいっても、争いとなったら誰かを巻き込むかもしれないってな。もしも本当に特異者がぶつかるとなったら、そりゃ、おれみたいな平凡な人間なんかひとたまりもないだろうさ。だからそうならないように、にいさん、あんたの貴石が必要なんだ」

『護る者』の貴石は、加護、ただそれだけでできている。

除け、逸らし、散らさず反射せず、純然たる守護が形を成しているもの。

そして、この世界に生み出すことができるのはニレだけ。

ミナセの一助となり、トマルや街の住人を害にさらさずに済むよう、危機をいくらかでも除ける方法。

ニレの貴石を、街の住民に行き渡らせ、持たせておく。

街に設けられた一番の大広場を使って異変の原因を捕えようというのがミナセの画策、ゆえに、その周辺に暮らす者たちに余計な被害を及ぼさないための手回しだ。人の多いところでの立ち回りは避けたいはずだが、原因を下手に外に出してしまえば同じことがさらに別の土地に広がる懸念と、逃がしてしまう恐れがある。

「区画の指示は受けた。ひとりずつ配るのは無理だろうが、家や店の単位で頑張りたいところだ。時間はないが数が要る。誰の手でも借りたいところだが、相手の正体がわからんだろ。下手なやつは使えんから、ミナセ様も苦心しておられてな。正直、手助けはない。それでもやってくれるか」

「当たり前だろ」

苦渋と覚悟の決断で七日で終わらせるとしたのなら、準備で満足に動けるのは今日から五日間、どんなに遅くとも六日目の夕刻までには最低限の範囲に貴石が行き届いてなければならない。

街の住人に配り歩くのは、ミナセの采配でトマルが担ってくれる、ニレがすべきは貴石を揃え、街へ運び入れることだ。

「一度目は明日の昼に持ってくる。トマル、まずそれで平気か?」

「承知した、街の入口で待ってるよ。おれは受け取ったらそのまま、方々へ配りに行く。表向きは宝飾雑貨店から明日をも不安な住人たちへ加護を籠めた石の配布、いい宣伝になるってもんだ」

今日の手持ちの飾りをトマルに渡すや即、ニレは店を後にした。

とうに足元は派手に濡れている、水溜まりを踏み抜いて走るのにも躊躇はない。雨も街の様子も、今は気にかけている場合ではない、住処に戻って貴石の用意をするのが最優先だ。

だが。

問題もある。

ニレが貴石を生み出せるのは、多くて一日に一度、無尽蔵ではない。

硬度や粒の形の難で飾りにしなかった石ならばこれまでに溜まったものが山ほど住処にある、反面、与えられた役目が役目なだけに品質は妥協できない。

不純物やひびで弱く脆い石は日々分けているが、さらに選別しなくては駄目だ。そのうえで、一石で充分に働かないなら複数の石を組み合わせるほかない。ばらばらにさせないよう、何かの方法で繋げるかまとめるか、しなくてはならない。

貴石を選り分け、ひとつでも多く、街まで運ぶ。時間は限られている。

絶対に遂げなければならない。けれど。やる。やってみせる。しかし。間に合うのか。足りるのか。出来得る限りのことをする。だが、それで。それで本当に、トマルやミナセを、誰かを、街を、護れるのか。ちっぽけな、石ばかりで。

成さねばならないと強く思う分だけ、暮らす場所や友人を脅かす事変を実感して、焦りや怯みも混じり込んでくる。

指や爪先が冷えて重たくなる、寒さで体力を奪われて、息が切れる。

大通りに出て、交差した道を左へ、金物店、表の壷に何も挿していない生花店、通り過ぎていく。酒場、宿、両替商も静まり返り、家具店、よろずの修理店、誰も見当たらない。精肉店のあたりまで来てやっと、ぽつぽつ人影が見え隠れする。

パンを買うならここと決めた赤い壁が目印の店、雨を避けられる軒下に、ニレはシギを見つける。買った包みを湿らせないよう鞄の奥へしまい込んでいる、異質だらけの街の中で、見知って馴染んだ姿に気が緩む。

シギがこちらに気づき、途端、険しい表情をするのが見える。肩で息をしているニレの腕をとって、同じ軒下に引き入れてくれた。

「どうしました? 何かあったんですか」

「シギ、おれ……、おれは」

「落ち着いてください。顔色が真っ白ですよ」

シギが懐の深くから乾いた手布を取り出し、拭えと手渡してくれる。

手布で顔を覆って大きく息をすると、柔らかな温かみに、まとわりついていた寒さが薄れる。ニレはぐいと顔をこすって、しっかりしろと己を立て直す。深い呼吸を数回、喉を落ち着かせて、話した。

「おれは、今すぐ小屋に戻らないといけなくなった。街中に配るためにひとつでも多く加護を籠めた石がいる」

街に起きている異変、得体は知れていないこと。

ミナセが指揮を執って解決に向けて取り組んでいること。

その一助として、加護を籠めた石を人々に提供するよう依頼があったこと。

シギに開示できる情報は全て並べて、説明する。

「小屋に戻れば石はある。選り分けて、できるだけやるしかない」

それから。

ニレは、意を決する。

シギに言った。

「シギ。街は今言ったとおりで、まずいことに巻き込まれるかもしれない。だけど、頼む」

走りながら、ニレは考えていた。

ひとりで全てを行うとしたら、あまりに時間が割かれてしまう。自分の他に、例えば信頼のおける運び手が確保できれば、小屋と街の行き来を任せて、その分、多くの石を振り分けられる。

シギ。シギなら。

ただ、街に近寄ることで、起きている変事に絡めとられる危険性もある。何かあったときに責任が負えるのかといったら、わからない。まだ数か月も過ごしていない場所のために身体を張らせるのは無茶でしかない、拒まれてもともと、だが、言うしかない。

今、頼れる者は他にいない。

一回だけでもいい。

どうか。

「助けて欲しい。おれひとりじゃどうしたって足りない。手伝ってくれ」

一息に言い終えたとき、ニレはシギがわずかに、けれどはっきり目を瞠ったのがわかった。

刹那のそれはただ純粋な驚きのようで、光を吸った瞳が青色になる。

次には陰って憂慮や拒絶を示されるのではないかと構えたが、ニレは正面から、慮った微笑みを向けられた。

「やれ、でいいんですよ。僕はあなたに雇われているんですから。できることなら、いくらでも」

「だけど、そりゃ、おれは頼むしかないけど……、そんな安請け合いでいいのか? 雇うとかどうとかの問題じゃない、大体こんなことが起きるなんて……、何があるかわからないんだぞ!」

不服も戸惑いも滲ませることなく、すぐに首を縦に振ったシギに、ニレは語気を強める。

縋る心持ちで頼んでいるのは事実、けれど、快諾されていい話ではないことも理解している。

そんなニレの揺らぎを見越してなお、請ける意を曲げずにシギが自身の胸元を軽く叩いた。

「あなたがそんなに声を荒げる大仕事なら、なおのことです。逃げて解決する話ではないでしょう。時間もない。使えるものは迷わず使ってください」

街に安らぎを取り戻すための手助けと、第三者を危ぶまれる事態に関わらせる無謀、天秤にかけて葛藤している暇はない。放っておけば去る災いではない、むしろこの段階で収束させるべく、痛手を厭わない強靭さで臨まなくてはならないのだと、背筋を伸ばさざるを得ない。

危ない仕事を頼んでしまってすまない、そう喉元から出かかるのをニレは押し止める。

代わりに、言った。

「ありがとう。改めて頼む。やってくれ」

「はい。任せてください」

ひとりから、ふたり。

心が楽になる、支えてくれる手足が増えればぐらつきが減り、知恵も増える。

帰る前に少し、そうシギが考え込む。

大きな仕事を完遂するには準備も肝要、街にいるうちに揃えるべき物資や不足がないかを今一度確かめておこうということらしい。押し麦と豆を余分に買い足すのに加え、ニレはここからの作業についても尋ねられた。

「ニレ。石の選別から、どうやって進めるんですか?」

「石に加護の術式を直接籠める。一掴み分くらいの石なら一度にまとめて出来ると思う。粗悪なやつは割れたり欠けたりするから、そこで取り除く。ただ、質はともかく一粒じゃ話にならない程度の石もあるから……、何石かまとめないとだ」

「なるほど。でも、石自体がその段階で術式を含むのなら、飾りの形にする工程は必須ではない、ということですよね。金や銀がなくてもいい、と」

納屋でする手順を頭の中で組み立てる、要なのか省略可能なのか、効率も算段したらしく、シギが言った。

「端切れと紐、あと、綿。石をいくつか布で包んで口を紐で結ぶ。簡易的な香り袋のような形にするのは? 小粒の石だけだとかえって包むのも難しいでしょうから、綿で少し膨らみを持たせるんです。僕も手伝えますし、いつものような飾りにするより時間もかからない。どうでしょうか?」

「おまえ、凄いな……!」

指輪や首飾り、簡素でも髪紐と、定番の細工を作ってきた時間が長すぎるだけにニレでは思いつかない、シギの着想。簡略化しても穴を開けて金線や銀糸を通す手間は避けられないだろうと考えていたが、その必要もない、持ち運ぶのも気遣いせずに済む。

布の端々と細紐は仕立て専門の服飾店で、綿は糸巻き職人の工房から、幸い、すぐに買い取れた。街の現状に気弱になっている者が多いのだろう、面倒な交渉も持ちかけられなかった。

雨水を避けるために油紙で包んで、ニレは他の荷の隙間、濡れない場所へ収める。背に感じる、それは今や単なる布地だけの重量ではなし、果たすべき責任の重みでもある。

笑い声や喧騒ではなく、どこの住民とも知れない叫びや医者と薬を求める声に送られて、今度こそ街を出る。

広々、寒々としている街道、森までを急ぐ。遠目に臨める農家や小さな集落も、ひっそりと息を潜めて沈黙して見える。

街から離れる道すがら、シギが言ってきた。

「僕からも伝えておきたいことがあります」

「なんだ?」

「あなたと分かれていろいろと回っている間に、街の人たちから僕も少し話を聞いたんです。何かが起きたことはそれで知ったんですが、皆さん、五日前に夢を見たと」

「夢……!」

半ば叫んで足を遅くしたニレに、一歩先、シギが頷いて返してくる。

野菜売りの若い男、燻製作りをする老夫婦、穀物店を営む姉妹。立ち寄った先々で、おかしなことがあって、と。

凶事に見舞われたとき、直前にあった些細な出来事をもしや予兆だったのではないかと考える人間は多い。雲の流れが違ったやら、鳥の鳴き声が騒がしかったやら、普段は受け流せる事象でも結び付けてしまうことは特段おかしくない。

しかし今回は違う、というのがシギの直感だったそうだ。

「夢くらい、誰だって見ますし、内容が悪夢だとして珍しくもありません。ただ、複数の人間が口を揃えて夢を見たと、それ自体を憶えていること、他人にわざわざ話すことは普通ではないです。しかも同じ晩に。少なくとも、彼らは干渉されたんでしょう。ニレ、現にあなたも夢にうなされていました。森の中まで何かしらの力が来ていたと見る方が自然です」

あの晩の夢。

異変の波。

「おまえは、夢は?」

「僕は見ていません。それに、干渉された全員が全員、その後におかしくなってしまったふうでもない。あなたに変わりがなかったのは、水の女神にとって幸いでしたね」

同じ場所にいて夢を見たり見なかったり、後の異変も、条件や度合いがあるのだろうか。夢が本体なのか、ぶつけられた力の結果が夢になるのか。情報が少なすぎて、関係していそうだという以外の仮定や推察は意味を持たない。

はっきりしているのは、ニレは確かに夢を見た、つまり何者かの力に貴石の結界が貫かれた。屑石でも質は様々で、全てが破られたのか一部が崩れたのかは判然としない。

突破されたのは恐ろしいが、反面、これは今から組み合わせていく石の指針にもなる。力の衝突を想定するなら随分と昔にミナセに砕かれた石と、森に撒いていた石、質を思い返せば必要となる最低限の加護を導き出せるはずだ。

「シギ。売れ残ってる飾りは何がある?」

「五等級の首飾りが三、準四等級の指輪が一、三等級の指輪も一です」

「全部、鞄から出せるか? 森に入ったら小屋まで道なりに埋めて、防除の足しにする」

森の加護を全て敷き直してはいられないが、次の干渉があるかもしれない。ひとつだけなら日常使いの石でも、合わせれば相乗効果で多少の抵抗にはなるはずだ。

「急ぐぞ」

ニレは歩きながら強く拳を握る。

やるべきことを、やるだけだ。

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