第9話【夢、雨、不穏】
「おまえさん、どうにも訳ありだ」
地べた、編んだ蔓の敷物に胡坐をかいて、老人が言った。
露店、逆さにした古びた木箱の上には細々とした飾りが置かれ、しかし全て、肝心の石が外れたり亀裂を入れたり、売り物にしては粗末な有様だ。
これは夢だ、ニレは気づく。
自分の意志や自由が利くではなく、進んでいく情景に身を任せるばかりの夢。
齢を経て余分な肉づきのなくなった輪郭に短い白髭、顎をざらざらと撫でながらの思案、老人の眼が緑色だ。
「うん、きっと、よかろうな。こいつを持っていきなさい」
懐から取り出される小さな布袋、こちらの手を引いて、中身を置いてくる。
息を吞んだ。
夜を削り取ったかと見まがう冷たく深い蒼、蒼の貴石。蒼玉。
瞬きの間に場面が変わる。
「ここだ、この並びが一字違う。鍛錬の部分がおかしいだろう。最初から書き直せ」
父親が立っていて、椅子に座る自分を見下ろしている。
手元にあるのは、見慣れた自分の字で記された術式だが、どうにもあちこちが拙く、線も図も安定していない。何かの形になろうとしてなれていない、ぐにゃりと力をなくしている銀。
試作のための、価値の低い石。石を載せた白い陶器の皿。
実家の作業部屋。
割れてしまうから旅を始めるときに処分した、浅い、丸い、小さな器、確かに使っていた。
またしても場面が変わる。
宝飾雑貨店にいた。
硝子窓が備えられたばかりのよそよそしさで、壁に並ぶ棚には余白が多い。使い込まれていない、新品に近い商談机。
「ふーん。あんた、なんだか普通だなあ。ミナセ様のご紹介だから、気構えしてたぜ」
初対面でも気後れせず、皮肉でもなんでもない簡素な意見を述べてくる、赤い癖毛の小柄な男。
若い時分のトマルだ。
「よろしくな、貴石のにいさん」
場面が変わる。
場面が変わる。
場面が変わる。
今と昔と、混じり合った景色、夢ならではの見知らぬ光景、徐々に速度を上げながらめまぐるしく流れていく。
多くの国を渡るかのよう、楽しさが伴っていたのに、やがて、雰囲気がおかしくなってきた。
途中から何がどうと判ずることも難しくなる、世界がどんどん遠ざかっているのだと気づく頃には、周囲にただただ暗い無の空間が広がりつつあった。
足場はない。
手が何にも届かない。
自分の中にあるものが抜け落ちていく。
自分がどこかに落ちていく。
恐怖が全身を締め上げる、抗えず、暗闇に取り残されようとする刹那。
「ニレ! ……ニレ、起きてください!」
名前を呼ぶ声と肩を揺する力で、ニレは眠りの中から一息に引き上げられる。
枕元の台に置かれている灯りが、夜の暗さに沈んでいた目に痛いほど眩しい。ぼやけた焦点が定まると、寝台の傍に屈み込んだシギが心配そうな顔を向けてきていた。
「勝手に部屋に入ってすみません。うなされていましたよ」
「あ……、……悪い。起こしたか……?」
「気にしないでください。どこか、不調はないですか?」
「……、……ない。夢は見てた……」
最後は恐ろしい夢だったのに、身体を起こしてみれば冷や汗のひとつもかいていない。忙しない夢は疲労感が残るときも多いのに、平常に眠って起きたのと同じ、悪夢だった自覚以外さっぱりとないのが逆に気味悪い。
急な目覚めに追いつかず寝ぼけ半分、出来事をうまく整理できない。
ニレが回りきらない思考に顔をしかめていると、労わる声音でシギに誘われた。
「何か飲みますか? 暖炉で水か、残っているお茶を温めます。きっと落ち着きますよ」
「……そうする」
暖炉に火をくべて、夕食時に飲み残していた茶を鍋で温めなおす。
大きくない炎でも明るく暖かい、火の前に立っているとぼんやりとした頭が少しずつ覚めてきて、ニレはシギに言った。
「シギ。さっき、声かけてくれてありがとうな」
「いいえ。でもうなされるほどだなんて、どんな夢だったか、聞いてもいいですか?」
茶に、干していた薄切りの生姜と林檎を合わせて入れ、隣に立ったシギが椀を手渡してくれる。
ぴりっと辛みがあるのにほのかに甘い、一口ごとに胸元から身体が温まっていく。
「えっと、そうだな、なんだかいろいろ。ほら、夢だろ? 最初は知らない爺さんが飾りの露店やってた。どうもこのあたりの雰囲気じゃなくて……、おまえから南東の細工とか暮らしとか、聞いてたからかな。あとは故郷と、ここの街と……。おれが育った家はさ、親も死んでるし、だいぶ前に手放してるんだよ。だから懐かしかった」
それがいきなり、世界と自分と、引き離された。
竦まされ、呑まれていく、真っ暗な空間を改めて思い出すと、怯えが首をもたげてくる。
夢の中だからこそ、逃げる場所も闘う手段もなく、遮断すらできずに、怖かった。
夜泣きをする子供でもなし、怖い怖いと口にするのは気恥ずかしくもあったが、シギが頷きながら耳を傾けてくれたおかげでニレは見た夢の最後までを話せた。
「どうなるかってところで……、ちょうど。助かった」
「よかったです。あの、少し立ち入ってしまうんですが、さっき、故郷と言っていましたね。あなたの生まれはこの大陸の南部でしたか。僕はきっと寄っていない場所ですよね」
夢の一部として久々に思い起こした、生まれ育った場所。
そういえばシギから各地の情報を教わることはあっても、逆の立場で話したことはなかった。旅商人といえど全ての街を巡ってきたでもなかろうし、せっかく尋ねられたから、ニレは思い浮かぶ故郷の特徴をかいつまんで伝えた。
「わざわざ見て回るような土地じゃないな。大昔は近くで金剛石が採れたらしくて、だから飾りを作る職人がもともと多くいたんだってさ。おれの家もそう。石はもう採りつくしてて何も出てこないけど、飾り作りだけは続いてたんだよな。静かなところだよ。密かな名物は干し葡萄を入れて焼いたパンだな。新鮮な食いものがあんまりない土地だから」
「干し葡萄を入れて焼いたパン、ですか」
繰り返して言った後、シギが柔らかく笑う。
「あなたや土地のひとたちにとって、故郷の味なんでしょうね」
「そうなるのかな。まあ、おれも忘れてない」
「何よりですよ。大事なことですから」
喋ることでどろどろした夢が身体から吐き出され、代わりに穏やかな記憶へ移行する。
シギの静かな声、揺らめく炎と茶の味、包まれるような安心感に、ニレは再び眠気を覚えてあくびを漏らす。
「眠れそうですか? 片付けて、戻りましょう」
「うん。おまえのおかげだな」
そうして火や食器の後始末をふたりで始めたとき、不意、雨が窓を叩いた。
ぽつぽつと短い雨音が続いたのは瞬間のこと、直後には流れ落ちる轟音で天から水が降ってきたのがわかった。夏の、稲妻を伴う豪雨に近い、大きな雨粒に違いない。
外は暗くて見えないが、厚い雲が急に流れてきたのだろうか。
宵の口、シギの指輪を作り終えてから外を見まわったとき、空模様や風に雨の兆候はなかったようにニレは思う。
「冬にこんな雨が降るなんて……、珍しいな」
「まるで嵐ですね」
屋根や壁を遠慮なしに打つ、少し大きな声を出さなければいけないほどの強さで、雨が降る。
それぞれの部屋に戻り、ニレは毛布に潜り込んだ。身体が温まったからか眠気が逃げていくことはなく、すぐに瞼が重くなっていく。茶がうまかった。シギもすぐに寝入るだろうか。朝はまだ遠そうだ。注文のあった飾りを作らないと。明日は豆のスープが食べたい。とりとめのないことが、浮かんでは消える眠りの前のひととき。
五感が薄らぎながらも、雨音だけは聞こえ続ける。
冬の静けさを破るかのような雨が、気にかかった。
季節外れの雨。
降り出した雨は、土砂降りの勢いこそ失ったものの、数日が経ってもやまなかった。
夢を見た翌日、翌々日と過ぎ、重なり合う雲に陽が覗く時間さえなく、絶えず、天から覆いつくしてくるかのように降る。
天気が崩れた最初の晩に感じた気がかりは、五日も経つとはっきりとした違和感と異変の予感になった。
今朝は霧雨。
服の裾や隙間から雨に入られないように外套や手袋をしっかりと着込んで、ニレはシギとふたり、住処から街に出向いた。
冬の雨に濡れるのは冷えすぎて身体に障る、昨日までは雨の勢いが弱くなく、街に出るのが躊躇われて揃って小屋にいた。けれどいよいよ食材も買い足しが必要となってきて、トマルの店へ納品もしなくてはならない。今日はようやく外に出られそうだと判断して、久しくふたりで森を抜けていく。
細かく舞う水粒が髪や顔に吸いついて湿るものの、この程度ならまだ耐えられる。
長雨で足元も悪い、普段より時間はかかりながらも、正午前には街中へ入ることができた。
人影はまばら、悪天候の日に出歩く者が少ないのは道理だが、それだけではなく様子がおかしいとすぐに悟った。
昼飯時、雨なら、外仕事を休む大工や壁塗り職人の連中が昼酒を飲んでいたり、たくさんの煮炊きで飯屋の窓が白く曇っていたりするのに、今日は騒ぐ声もなく寒々しい。広場では開いている屋台が数えるほど、店の主も声をかけてくるでもなく、芋や根菜を置いたまま厚い襟巻や上着に口元を埋めている。港と行き来する荷車も心なし、落ち着かない早足だ。
大きく構え、冬の寒さにも雨にも負けない、住人の息遣いや活気がいつだってあった街がやけに静まっている。
「こんな人出だ、売る方は今日は適当でいいから、買い物、済ませておいてくれ。おれはトマルの店に納品しに行く」
「わかりました」
街角でシギと分かれて、ニレはトマルの店へ足早に向かう。
途中、紋章入りの馬車が水溜まりを跳ね上げつつ無理をした速度で駆けていくのが見え、また別に使用人に大きな鞄を持たせて脇目も振らず路地を抜けていく中年の男と行き違いもした。馬車は身分の高い者を診る、後の中年男は街で診療所を開いている、共に医者のはずだ。
かと思えば薬を扱う店の前にだけ押し合いへし合いのひとだかりがあり、出入りする住民の長い列と調合する薬の匂いが切れ間なく道に広がっている。
広場の市や飯屋からは人が消え、医療と薬が暇なく求められている、これはどうしたことか。
異常だ。
一帯の封鎖や街に入るときに報せがあったわけではないから、疫病の類ではないだろう、しかし、何かが起きている。
すると今度は道沿い、壮年の夫婦と年若いひとり娘が家族で営む理髪店だが、戸が勢いよく開くと同時、まさにその娘が往来に飛び出してきた。
寒空と雨の下、年頃の女が薄い寝間着一枚で片足にだけ靴を引っかけている只事ではない姿、けれど表情はむしろ明るく楽しそうで、全てが嚙み合っていない。
わけもわからず、思わず足を止めたニレに、娘も気づいた。
薄着を恥じらうどころか、動きを止めてじっと見つめてくる。注視してくる野良猫の眼の丸さで視線を逸らしもしない、さっきまでとは一転した無表情には喜びも怒りも何も汲み取れるものがない。
続けて、慌てふためきながら表に出てきたのは彼女の両親でもある夫婦で、娘を捕まえにかかった。
「おまえ、こんな格好で!」
心配で膨らんだ父親の怒鳴り声。
娘が一瞬だけ驚き呆けた顔になり、直後、大粒の涙をぼろっと頬にこぼすのが見えた。肩や腕を引いて戻そうとする夫婦に逆らって手足を突っ張り、言葉にならない声を上げて雨に濡れた土泥にも構わずその場に座り込もうとする。靴が脱げ、素足が汚れるのも意に介さない様相、親の手を振り払おうと身体をよじると憚らない声で泣き喚いた。
「あああああう!」
夫婦ふたりがかりで抱え込むようにしてそれをどうにか中へ引き込み、戸の鍵をがっちりとかける音と、まだ叫んでいる娘の声が周囲に響き渡る。
前に髪を切るために訪れたときは、夫婦どちらも歯切れのいい仕事ぶりで、おとなしく口数少ない娘が店の中の細々した掃除や道具の手入れを手伝う、いい店だった。
一瞬の出来事、しかし、一家族の揉め事として片付けられるような話では、絶対にない。
街に散らばる異様さに、ニレの背筋に悪寒が走る。
とにかく何がどうしたのかを知らなくてはならない。
まず宝飾雑貨店へ行き、トマルが無事であることを確かめねばならない。
外套の襟が開かないようきつく握りしめて、気の逸るまま走り出していた足を、さらに急がせる。
二区画を直進、右の路地へ入ったら、細い横道を三本跨いで、今度は左手、進んだ道の斜向かい、覚えきった道が、こんなにも遠い。
店は開いていた。
ほとんど飛び込む形で店内へ踏み込んだニレに、商談机の向こうに座っていたトマルが椅子を倒す強さで立ち上がった。駆け寄ってきて、外套が吸った雨で手が濡れるのも構わずにニレの両肩を掴んでくる。
まず何を言うよりも先に、変事がないかを確かめる眼差しで上から下まで、そうしてトマルが安堵の息をついた。
「にいさん……、よかった。なんともなかったんだな」
「おまえも大丈夫そうだな。なあ、何があったんだ? あっちこっち、様子が変だぞ」
「何かがあった。いや、何がどうなってるのかってことはさっぱりわからん。おれはミナセ様から言付かって、にいさんを待ってた。今朝は雨が弱いだろう。きっとにいさんが森を出て来るはずだって、お計らいだよ」
「どういうことだ?」
ミナセの名が出たことに、ニレはいよいよ悪い予感が現実に近づくのを否めない。
領主としてそれなりの術師や衛兵も抱えているはずの立場の者が、水面下で動いている、その事実が示唆すること。
「始まったのは五日前の晩だ。何かが起きた、それを察知したミナセ様がずっとこの雨を降らせてる。水の一族が使う防壁やら結界やらなんだとさ。どうも元凶はこの街にいるらしくてな……、街やここら一帯を護りながら、その何かの正体を探っておられる」
「ミナセが直接やってるってことか?」
「そうとも。わかるか、にいさん? あの方にそこまでさせるなんてのは、ちょっとやそっとの輩の仕業じゃない。おれにだって見当はついちまう」
つまり『護る者』あるいは『獲る者』、しかも害意を持った何かしらの特異者が、この街に入ったのだ。
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