第8話【指輪】
「僕の失敗は第六領地の勢いを削ぎました。記憶の『獲る者』と別れた後に知ったんですが、そのあたり一帯は反対に隣国に併合されていたんですよ。皮肉なことに以前より栄えて、僕にとって救いではありますね」
暗所に置かれた日々と、命懸けになった逃走。牙で追われ死に沈みかけたところを掬い上げた手。
過去の開示。
ミナセを介してニレに届いた資料は商売を始めてからの経歴で、それより前にあったことは記されているはずもない。
シギがシギと名乗るより前の、根幹、生身に触れるようなもの。
「今更だけど、おまえ、秘密にしてたんだろ。おれなんかに聞かせてよかったのか?」
「傷を見られていなければ、黙っていましたよ。でも、知られたなら、あなたには嘘を話したくなかったんです。少なからず僕を信頼してくれているのが、今日までの暮らしでわかっていますから」
ニレは何も言えなくなる。
事実だという証はないのだから、真偽はわからない、作り話であって欲しいとさえ思う。
惨たらしい責任を負わせ、背いたからと狼をけしかけるようなお偉方には憤らずにいられない、が、土地や国の攻防には大きな力が必要で、口先の正義や綺麗事で片付かないことも知ってはいる。善悪は判じられない、その土地からすればシギが裏切者であるのも真実で、ただひたすら苦々しい。
あとは、素直な恐怖。
歴々の領主が手放さなかったほどの、殺戮に優れた才。表に出されなかった、つまり暗殺業の類になるのか。地位の高い者が使役するのなら馬鹿や愚鈍では務まらない、だから教養や学問、体術を仕込まれたのだろう。
いつだって理性的にいることや、軽い身のこなし、多数の知識は、その片鱗。今も、すぐさま誰かの命を奪えるのだろうか。
「旅を始めた理由のひとつは、僕を知る誰かに捕まって、万一にも利用されるようなことを避けたかったからです。自己満足の罪滅ぼしですよ。あとは、たくさんの国を歩くのが面白くなったからですが」
シギの淡白な説明、今は努めてそうしているように、見えた。
幼い頃から冷たく育てられたうえに、十代の半ばにもならないうちに命を取るか取られるかの目に遭った、身体だけでなく、どれほどシギが痛めつけられてきたのか、想像もつかない。
とても一口では言い表せそうにない、数々の感情がニレの喉元でもつれて絡まる。
「それで僕は、今ここに置いてもらっています。初めて会った日に、お互いに信頼が必要だと言ったのは僕です。あなたがこれからのことをどう判断をしても、反論はありません」
「出て行ってくれ、みたいなことか?」
「そうです。無理になったとか、不信感がわいたとか、ですね」
シギが並べる易い言葉が、どうであれ理由を長く拵えることはないと暗に言ってくる。
自覚と客観視を伴っての先回り、拒まれることをとっくに受け入れているのだと、ニレにもわかる。
それはそうだ。地平線の彼方にあるような地での出来事とはいえ、厭うことはあっても歓迎は難しい。
でも。
「おまえは人並じゃない雰囲気あるから、納得できる……、正直怖い」
「そうでしょうね」
「だけど、今ここで放り出すなんてのはしない。そういう鍛練をさせられてきたのはわかった、でもおまえ、誰も手にかけてないじゃないか」
可能にする技術や力があることと、実際に行使することは、同一ではない。
短いながらもここで共に暮らして、自分で見てきた相手の姿が、ニレにもある。世には多くの人間をいたずらに傷つけるような者もいよう、しかしシギがそうだとはどうにも思えない。
ここまで語ってくれた誠意も、ないがしろには、したくない。
ニレはふと気づく。
向かい合う相手に困惑しているだけではなく、自分自身の何かもざわついている。
これをうまく伝えらえる言葉は、長い時間をかけなければ探しきれないだろう。簡単にしか、言えなかった。
「ちょっとはわかる。家業とか継ぐとかで振り回される……、みたいなのな。おれはほら、こんな呑気だけどさ。少しは本当に、わかるよ」
勝手に与えられ、それによって翻弄される、数ある中でもそういう理不尽。
自らに刻まれていて消えてもくれない、捨てられるならいっそ捨ててしまいたいと考えたことも、数知れない。
ニレの力とシギの境遇、類似と呼べはしないが、近しく重なり合っている箇所がある。
比べることではない。慰めにもならない。
ただ、爪の先ほどだけかもしれないが理解できるから、昔の話を聞いただけで拒絶に転ずることは、しない。
言い切ったとき、ニレはシギが微笑むのを見た。
心底困ったような、それでもつい笑ってしまったような、上辺を取り払った表情の気がした。
「あれこれ腹は括っていたんですが……、まいったな」
朝になって考えが変わっていたら教えてくださいとシギが言い、寝てる間によっぽどのことがあったらなとニレは返した。
勿論、翌朝は至極平穏にやってきて、ニレがシギを小屋から追い出すこともなかった。
そうしてその一件を境に、シギの様子がいくらか変わった。
隠し事という枷が外れたゆえだろうか、ちょっとしたときの笑みが増えて、指一本分、距離を寄せられた感覚。不快ではなく、傍らにいて初めて伝わってくる、かすかな温みに似たものが、漂うようになった。
数日が経って、夕方、ニレはシギと納屋にいた。
給金とは別の手当てとして、悪い出来事に遭わないようシギに前から渡していた留め針。
外套の襟元につけさせていたのだが、破損してしまったらしい。
ニレが今日の仕事を終えようとしていたとき、街から戻ったシギが謝罪しながら見せにきたのだ。
様々の細かな石粒を縒った銀糸に通し、幾本かまとめた房を垂らしていた針なのだが、気づいたときには数本が切れて、石もどこかになくしてしまっていたそうだ。
「すみませんでした」
「いいよ、気にするな。考えてみたら、おまえは荷物背負ったり降ろしたりも結構多いもんな。多分、引っかけたんだろ」
形あるものはいつか壊れるのが理。
しかしシギが珍しく気を落とした顔だったから、ニレは新調を提案して、さらに今のうちに作ってしまおうと作業場へふたりで入ったところだ。
ニレには慣れた作業台。夜の始まりに備えて灯りを置き、近くに来いとシギを促す。
売り物にする細工を渡したり、必要な素材を運んできてもらったり、これまでここに立ち入らせることはあった。けれど、作業の邪魔はできないとシギ本人が長居したがらなかったこともあって、椅子に座らせるのは初めてだ。
「指輪か。左手にしよう」
「仕事が終わったばかりでしょう。わざわざ、いいんですか?」
「そのへんは雇い主の、なんだ、雇用主は従事者を最低限保護する義務が云々、とかいうやつの一環だよ」
ニレは石の在庫と、指輪ひとつに必要なだけの金の小さな粒いくつか、所狭しと積んでいる木箱の中から取り出す。次いで、細工作りに必要な術式を記している布を、作業台に広げた。
どこにでもある大きめの手巾くらいの布地だが、そこには要となる式を染料で施してある。
複数個の円をずらして重ねた図形と、籠める加護の祈りの言葉。熱や加圧など物理的な要素も定められた文字で散らし、曲線で囲い、繋ぎ、全てを総じてひとつの形に転じる働きを持たせている。
「石、今あるのは紅榴石だな。石座と腕は金だから、組み合わせは悪くない。装飾が控えめでいいならすぐだ」
大概の装飾品は、平均や基準が設けられている。売ってみるまで誰が使うかわからないのなら、指輪なら径、首飾りなら鎖の長さを調整して、選ばれやすいものをいくつか揃えておく。
しかしやはり身体の作りは十人十色、身に着ける人間が定まっていれば、当人に合わせた方が間違いない。
シギが自分で見えるものがいいと指輪を選んだ、ならば本人の指を借りるのが確実。
今回は式にシギを触れさせることで、一部として介在させ、専用に誂えるつもりだ。
「こんなに間近で、指輪作りの術式を見るのは初めてですよ」
遠慮気味だったシギも、用意される素材や術式の構成には興味を惹かれたらしい。喋りかけてくる声が少なからず明るい響きを帯びたのがわかって、ニレをほっとさせる。
「楽しみです」
「緊張するからやめてくれ。うん、手はここに置いて……、しばらくそのままな」
シギの手のひら、金の粒、紅榴石を術式の上に配置すれば準備が整う。
最後に布の角のひとつ、連ねた術式の書き出しにあたる箇所に、ニレは自分の両手の指先を揃えて置いた。
直後、生じるのは小さな揺らぎ、布の端が微風を受けたかのようにふわりと舞う。
「展開する。……熱を与えるのは金。融解、均一……、複数から単数へ」
呼応する。
まず動き出すのは金。
硬くばらけていた粒がゆっくり融ける。
水粒がぶつかりあって大きくなるのと似て、集まってひとつになると、かしこまった小さな棒型に変化する。
次には圧が伴って進み、滞りなく、金を薄く伸ばして棒から板へ、板から輪にしていく。
見えない力でもって幾度も鍛えられ、音なく打たれて、弧を描き、正円に近づく。
術式の上、時間を経るごとに地金の輝きが増して、生命を宿しているかのような千変万化。
研磨の終わりには金の輪が滑らかな黄金色の光を宿す。
紅榴石がそうあるべきと言わんばかりに、石座に自ずから嵌まり込む。
ニレがシギに何気なく視線をやると、端整な横顔が魅入られたように術式と指輪を見つめている。貴石や金の煌めきをそのまま眼に映しているのが幼子の夢中を思わせる、この相手を害する事柄がないように、ニレは言葉を紡ぐ。
「加護を籠める。災いなく、幸いがあるように」
術式の終わり。
記した式の末尾に向けて、文字や図形が糸の解けるように形を崩す。
布の上を滑り出し、ひとすじの流れとなった線は渦を成す。
渦の収束する先は指輪という器、旋毛風が花弁や柔らかい草葉を吸い込むかのよう、術式の全てを内包していく。
そして式が完全に消滅するのを合図に、揺らぎは止まる。
残るのは真っさらになった布。
加護を持つ指輪。
「もう、手も退けていいぞ」
「……、はい。あの、どう言うべきか……、不思議な光景ですね」
「はは、おまえでも言葉で迷うんだな。飽きなかったんならよかったよ。で、これが完成品。着けてみて、調整が必要なら言ってくれ」
ニレが渡した指輪は、シギの左手の人差し指にしっくりと落ち着く。
紅榴石は一番上等の葡萄酒を炎に透かした色、紫混じりの深い赤色が、黒髪と色素の薄い肌によく似合った。
「……凄い。僕の指にぴったりですよ」
「よさそうだな。あの駄目になった蒼玉も似合ってただろうけど、おまえ、赤もよく合うな」
「ありがとうございます。本当に……、綺麗だ」
先程までの余韻もあってか、惚けた、うっとりとした眼差しでシギが指輪を眺める。
余分のない素朴な飾りだが、真摯に作ったもの、気に入ってもらえるのは嬉しいことだ。
不具合もないらしいと判断した後、ニレは簡単に作業台を片づける。それから灯りで、シギに外を示してみせた。
「シギ、おれ、ちょっと出てきていいか。防除の術式の効果がそろそろ消えるかもって気になってたんだよな。近いところのだけ確かめて、すぐに戻る」
「ひとりでですか? もう暗いですし、手伝いますよ」
「見るだけにするからひとりで平気だ。先に夕飯の仕度しててくれ。後からすぐ行く」
ふたりで納屋から出て、シギが小屋の中に入るところまで見届けると、ニレは灯りを掲げてすぐそこの茂みに入った。
防除の術式、もとい、複数の屑石で成立させている加護の結界。
親しんでいる森。辺りは冬の鋭い冷気に満ちているだけで、暗闇ではあっても獣や人間が潜んでいる気配はなく、怯えや違和に繋がる対象はない。おかしな存在やどこかに綻びが生じている感覚もない。実際に住処に一番近い結界の一点を軽く掘り返してみても、以前に埋めた細かな貴石が変わらず土の下から出てくるだけ。
手についた土を払い、再び念のため、ニレは周囲に意識を巡らせる。
いつもと同じ、どうということも、ない。
疑問が口から出そうになり、自分の息が白く広がったのに気づいて、冷気を大きく吸わないよう急いで唇を結ぶ。
シギの、留め針。
ニレから生じた貴石を使っている細工は、普通、壊れない。考えるに貴石が細工本体も護っている状態で、そもそもどこかに絡まるとか引っかかるとか、そういったこと自体が起きない。
いつぞやミナセに放り投げられた水の飛礫、ああいう直接的な原因があれば、先に石が反応する。
だから今回は、糸が切れ石が落ちての破損ではなく、何かとても危ういことがシギの近くであって、石が砕けたのではないかとニレは思わざるを得ない。
街で物取りにでも狙われていたのか。帰り道、森で熊や猪とすれ違っていたのか。それとも。
しかしいずれにせよ、シギがその剣呑を察知しないことなどあるのだろうか。
気がかりがあったならきっと話して共有してくれている。ならばやはり、知らないのか。
わからない。
それで可能性のひとつとして、森に仕掛けた貴石の結界のどこかに穴ができているかもしれないと見に来てみたものの、害が迫った様子はない。
住処にいる分には問題ない、シギも無事に帰ってきたわけで、ひとまずは安心できよう。そう、安心していいはずだ。
さっきの指輪に使った紅榴石も、留め針に連ねた石より格段に上質、今度は簡単にシギへの加護を失うことはない。
けれど、ニレはなんとなく引っかかりを取り払えないまま、小屋に戻った。
中に入る前に、土を掘り起こして汚れていた手指を井戸端で洗い流し、寒さに身震いしながら戸口に急ぐ。
炊事場の裏手、通り抜けがてらに窓を覗くと、シギの姿があった。
柔らかい灯り、薄く漏れる煮炊きの匂いもいつも通りで、日頃ならニレを安らがせてくれるのだが、今日は違った。
火にかけた鍋の傍、組んだ両手の指を口元に寄せて、シギが静かに瞼を伏せている。
一心にする敬虔な祈りのようであり、打ちひしがれて疲弊したようでもあり、胸を突かれる、畏敬か、畏怖か、感じさせられる。
不可侵、許しなく踏み込んではならないものを見た心地になって、ニレは慌てて視線を逸らすとその場を離れた。
指輪の紅榴石が、視界の端できらりと光を弾いていた。
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