第7話【シギ/過去】
死、というもの。
意思も制御も失って歪に倒れ込んでいく、直前までは何者かだった、今は空っぽの器と化した五体。
相手を殺した。
自分が殺した。
眼前の光景がうねる。
楽になれと囁くような甘さと、絞り上げられる苦しみが混濁して渦を巻く、瞬間、膝から折れて嘔吐した。
慄いて震える指先を拳できつく握る、蹲ってしまう前に足を立ち上がらせたのは、逃れたいという心だ。
踵を返す。
駆けた。
目指す場所はない。
黒々とした森。
とにかく離れようと。見まいと。聞くまいと。足の続く限り。肺の潰れない限り。四肢が動く限り。
逃れたい、逃れなくてはならない、それができないなら今ここでこんな身体は朽ちてしまえばいい。
後先を考えず西も東も選ばずに走る途中で、何度でも吐いた。始めの二度で胃の腑は空になり、続けて胃酸まで引っくり返しきっても吐き気が胸からせり上がる、いっそ心臓でも腸でもぶちまければ楽になるのだろうか。
少しはあったはずの距離を容易く詰めて、追手が背に迫りくる。
裏切りは死で贖わせる、その意志で追ってくる。
人間ではない。木立や翳りをものともしない四つ足が数匹、飼い馴らされていても、聞こえてくる息遣いは獣のそれだ。
そのうちひとつが横の茂みを一足飛びに越えて自分を追い抜いていく。
進路を塞がれるのを直感したと同時、暗い灰色の毛並みが、唸り声を上げて目の前に躍り出た。
「……っか、は……!」
もがくように息を継いで、少年は目を覚ました。
喉をひりつかせる渇きにまず気づき、反射で首を動かす。途端、突き刺さってくる激痛に仰け反り、後ろ頭を落とした。
そう、後ろ頭が、何かに落ちている。
今、自分はどこかに仰向けで横たわっている。
ここは、どこだろう。
心臓の音と同じ規律で痛みが身体を貫くが、少年が努めて息を抑えると、わずかではあるが鎮まっていく。
そっと目を開ければ、まず光に眩み、次第に明るい色の木の天井がわかる。恐る恐る動かす指先には、柔らかい布の感触があった。
寝台。どこかに窓があるのだろう、陽が入ってきている、外は晴れだ。気にかかる音はしない。煎じた草葉の、茶けた苦い匂いが漂っている。
痛みをなるべく呼び起こさないように今度は重々気をつけて、少年は少しばかり首を巡らせてみた。
かけられた薄布が柔らかく遮光する、丸い形の窓。汚れを感じない室内の空気。窓と反対の壁を埋める棚には上から下まで本が並んでいる。閉じた扉。枕元の低い卓、そこに山と積んである白い布。どう考えてみても、ここは知らない部屋だ。
腰から足には薄い毛布がかかっているが、下穿き一枚にされているらしい自分。裸の上半身、左側が、卓上のものと同じ白布で覆われている。特に厚く包まれた左肩から腕、さっきは痛みが強すぎてわからなかったが、重傷なのは左腕のようだ。
「……痛え」
擦れていたが、声も出た。
ただ、いくらか首を動かしただけなのに、早くも身体がぐったりしていうことをきかなくなる。半死半生の、ぎりぎり生の側にいるのだということが、なんとなくわかった。
ややあって、少年の耳が静かな足音を捉える。
扉が開く音、しかし、身動きはとれない、ただゆっくりと瞬きをすることしかできない。
足音の主が陽光を遮って枕元へやって来る、少年がなんとか見上げると、そこには小綺麗な身なりの老婆がいた。
「ふん。上々だね」
堪えな、そう短く言ってきた小柄な老婆に、少年は首を持ち上げられる。
痛みに声を上げたが、頭の下に枕か何かを差し入れられたのか、次にはわずかな傾斜に支えられる形で起こされていた。
「水だ。口を開けとくんだよ」
少年の返事を待つこともなく、老婆が水の入った深皿と匙を口元に持ってくる。
いきなり多量の水を飲みこむことはできないと見越してか、幼子に薬を含ませるように、一匙ずつ、口へ水が入れられる。
冷たい、潤いが嬉しい。
水は渇ききっていた口腔から徐々に喉へ届いていき、少年はようやく、声をまともに発することができた。
「……あんた、誰?」
「目上をあんた呼ばわりしなさんな。あたしはウツミ、この家で暮らしてるひとりもんさ」
「手当も……」
「そうさ」
老いながらもきびきびと張りのある声だ。
眉を寄せたまま、愛想も笑みも浮かべはしないが、少年の顔色や怪我を窺う手つきは丁寧で優しい。深い青色の眼が聡明さを湛えて、後ろに一本きっちりと結われた白い髪と、清潔な前かけがウツミの為人を表しているようだ。
脈をとられたり瞼を裏返されたりした後、少年はウツミに聞かれた。
「おまえ、自分の名がわかるかい?」
「おれは……」
「わかるならいい、黙っときな。それで、その名前は今日限りで捨てちまうことだね。どこぞの手駒を捜して回ってる輩がいないともしれない。漏れ聞こえたら厄介だ」
手駒。
それは少年に現実を突きつける。
自分の存在、自分が為さねばならなかったこと、仕える主人に命じられたこと、忌むべき役目。
意識が徐々に明瞭になってくるにつれ、思い出し、何が、いつから、どこで、疑問が次々と湧き出てくる。
尋ねなければならないのに、同じ分だけ焦りや恐怖も戻ってきて、混乱する、少年は震え、図らずも叫び出しそうになる。
しかしその前にウツミが、少年の両頬を挟むよう軽く叩いたのだった。
「落ち着きな。まず、ふたつ言うよ。ひとつ。おまえが怯えなけりゃならないことは、ここにはない。いいね」
「……」
「ふたつ。ゆっくり、静かに息をしな。そのまま、あたしの話を始めから終わりまでよくお聞き」
ウツミの温かくも冷たくもない手のひらと、正面から見据えてくる眼差しの揺るがなさが、少年に平静を取り戻させる。
どうにか頷いて返すと、頬から手を離し、ウツミが事の次第を聞かせてくれた。
「ここは第四領地の南の森にある、小さい集落だよ。余所者は滅多に踏み込んでこないんだが、おまえはどうやら追われているうちに迷い込んだらしいね。あたしがたまたま森の奥へ行ったら、狼にまとわりつかれてるところだった。そいつらを散らして、おまえを拾ったのさ」
十と五日前だ、そうウツミが言う。
「喉元をかばってた分、左肩と腕は噛まれてる。正直、腐ってもおかしくなかったよ。腹の傷は腕より浅い、だけど胃はぼろぼろだ。おまえ、よほど精神がまいってたようだね。憶えちゃいないだろうが、最初は水も吐いちまう有様で難儀した。まだこどもだってのに、悶着に駆り出されたんじゃ無理もないさね。第六領地だろ」
淡々と続けられる言葉で、少年は状況を整理する。
この国では数字を振って土地に区切りをつけている、確かに自分がいたのは第六領地だ。第四領地とはわずかだが隣接している箇所があるから、そこには疑問がない。
第六領地は隣国との境でもあり、今は敵対して進攻しようと争いの渦中、これは様々な布告によって国民が認識している。
怪我の詳細は相手の言うままだろう、疑う余地もない。
ただ、根底がまずおかしい、ウツミの話には少年の委細を理解していなければ言い得ない事柄が、いくつも含まれているのだから。
話が途切れたところで、少年は問う。
「おれのこと、なんで知ってるんだ……?」
「簡単な話だ。あたしは『獲る者』。記憶のね」
事もなげに明かすウツミに、少年は瞠目する。
『獲る者』は、ヒトを狩る。
殺して人肉を喰らい血を啜る、といった意味ではない。ヒトがヒトとして持つもの、わかりやすい例なら指や目玉、喜怒哀楽など、異能によって心身のどこかを欠いて奪っていく。知恵を与えられたヒトが、他の生き物の優位に立って驕ることを天地が許さなかったための産物、ヒトの天敵だと説く古典もある。
その特異力はヒトにだけ作用する、身分や権威、貧富を問わず、善人も悪人も区別しない、災いに似た公平を有している。
まさか『獲る者』に拾われるとは思いもしない、信じ難い反面、ウツミの話しぶりには信憑性があった。うわ言ではそこまでの詳細を延べないだろうし、負傷に加えて自白の薬を飲まされたなら身体が耐えられなかったはずだ。
「おまえが水まで吐いたのは、酷いといっても傷のせいじゃないように思えてね。だからあたしは、おまえの記憶をいくらか獲って覗いたんだ。何かわかれば策も見つかる」
「じゃあ、おれが、何なのかも」
「知ってるよ。一世一代のへまをやって、逃げてきたこともね」
「……、へま?」
「おまえは誰も殺しちゃいないってことさ。第六領地の騒ぎと、死んで見えたやつらが起き上がったって、少し前にこのあたりでもちょっと噂があった。奇跡だのなんの術式だの、どいつもこいつも勝手に言ってたみたいだが、なんてことない、おまえが止めをさしきれなかっただけだろ」
少年は、安堵のような、諦めのような、どちらもで深く息を吐く。
自分は失敗したのだ。
それに全て暴かれている。
つまり誤魔化しも嘘も不要であるということだ。
包み隠さずに済むのは自棄に似た気楽さになって、少年は自分が薄く笑うのがわかった。
「……で、全部わかって、おれをどうするんだ? 放り出すか、じゃなかったら、どっかに引き渡すか? 金でも出るかもしれないしな」
「自分で逃げ出しておいて、ここで人任せにするなんてのはお笑い種だね。いいかい、この先のことはあたしが知ったことじゃあない。おまえが自分で決めるんだ。間違えるんじゃないよ」
「は? ……じゃあ、なんなんだ? 今だって、水を飲ませただろ」
「おまえだってよくよくわかってるだろ。目の前で誰かが死ぬところなんて見たかない、それだけだよ」
また来るから寝ておきな、そう言い残して、水や匙を片づけたウツミが部屋を出ていく。
少年は困惑のうちにひとりにされて、横たわるばかり、やがてかすかな苛立ちさえ感じ始めた。
全部わかったなら、何をしたのか知ったなら、その時点で捨て置かれるべきだ。そうでなければ、金や物資の条件をつけて、どこぞへ引き渡すか。
もともと真っ当な立場ではない。国や主人の命令があってどうにか大義を持てていたのに、自分から裏切る形になった。
どこから見ても、許されてはいけないのに。
だのに救いの手が延べられた。整った寝床も、喉をさっき滑り落ちていった水も、本物だ。どうかしている。
腹立ちついでに目頭がじんとしたと思ったら、視界が滲んだ。
どうせ動けもしない、だから潤み続ける眼は放っておくことにして、少年は瞼を閉じる。
いつしか、吸い込まれるように、眠った。
少年には与えられた役目がある。
顔も名も忘れ去られるほど古く遠くなった先代から続いて、生れ落ちるときには既に定められていたものだ。
速く走れるとか歌が巧いとかと同じ、才があって、ただ、目をつけた者と、彼らによって与えられた役割が道を分けた。
代々跪いてきたのは、隣国との国境を有する第六領地の領主。
少年が物心ついたとき、親族の類はもういなかった、自分の力以外、聞かされた話の何が本当で偽りかはわからない。
領主の腹心の屋敷に置かれて、与えられる知識や学術、体術の基礎、そこそこの質の食事と凍えずにいられる寝床、それらが報酬であり備わった力への期待なのだと言われて育った。
優れた武器、兵仗たれ。
領主の敵、土地ひいては国の仇、おしなべて討て。
つまり、殺せ、と。
手を汚す生業、同じ人殺しになるとしても一兵とは別物、武勇や名声でときには英雄としてさえ語られる将にもなりえない、表舞台には出ない存在。
決められた仕事を蔑まれてか、それとも国の中ですら秘密裏にされていたのか、少年の周囲には限られた者しかおらず、口をきく相手もいつも変わらなかった。
鍛錬には罪人や捕虜がよく用意された。
ただ、そこでは死に至らしめるまでは求められなかった。
考えてみると相手に口を割らせたり権利を放棄させるための拷問の一環だったのだろう。屈した者たちが後でどうなったのかは、知る範囲にない。
そんな暮らしのうちに、胸の中央、窪みを刺す鋭い痛みに呻くようになったのは、十二かそのあたりの齢だったと思う。
何故かはわからない。
思考を曇らせる術や薬を知らず与えられていたのかもしれないし、自分で考えることを拒んでいたのかもしれない。
下手に疑問を抱けば、食うも寝るも失うどころか、振るうのに能わないとして、とうに処分されていただろう。
けれど駄目だった。
情勢は変わり、第六領地は国からの命によって隣国への境界を踏み越え、我がものにすべく宣戦布告、戦地になった。
とうとう実地に連れられ、命令を下されるまま、繰り返してきた手筈どおりに、した。
そこで初めて、死がいかなるものかを目の当たりにし、少年は自ら、崩れた。
多くを殺めたと思った、しかし傷つけはしても死なせずに済んだのは、無意識のうちの歯止めだったのだろうか。
「おまえを使おうと目論んだやつらも薄々はわかってたのさ。力は充分にあっても、性分が向かないってね。修練で相手を死なせずに許されてたのは、そこでおまえが壊れちまったら使えないからだ。ここぞってときに殺しをさせるためさ」
「おれは使い捨てだったってことなのか?」
「例え一回きりでも、戦況が優位になればいい。奥の手、隠し武器ってのはそういうもんだろ」
身体の傷が癒えていくにつれ、心も整理するように、少年はウツミと交える言葉を増やしていった。
寝台で身動きがとれるようになっても、ウツミが外部に少年を引き渡すようなことはなく、布を取り換え、滋養のある食事を用意してくれ、体力を戻すために眠らせてくれる。
何より過剰な憐れみや慰めを向けられないのが、かえって現実を見つめられて、ありがたかった。
それから、おかしなことにも気づいた。
自分がどうやって暮らしてきたか、何をしてきたのか、少年はしかと憶えているのにも関わらず、実体験としての感覚が乏しくなっていたのだ。思い出してみても胃痛がない、濁った暗い気分も前は端々で感じていたはずだが、それも遠い。
まるで本を読んだり伝聞で知ったりした物事のよう、過去の出来事に対して今の感情が波打つことはあっても、かつての自分が味わった辛苦がすっかり抜け落ちている。
感じたものが鮮明に脳裏に残っているのは例の遁走をした日からで、それ以前の記憶はどことなく他人事だ。
長く意識を失っている間に頭が変になってしまったのかと首を傾げる少年に、ウツミが答えた。
「おまえの記憶をいくらか獲ったって言っただろ。だからだよ。記憶の一部にあった感情、それを失わせた。気が病めば身体にも障る、長いこと腹の中が苛まれてたのはそのあたりが原因だと思ったからね」
「だからいろいろ思い出しても平気なのか」
「『獲る者』はね、力を使えば絶対に何かを欠けさせるようにできてる。獲ったのを戻せたとしても、全てをもとどおりってわけにはいかないんだ。おまえを生かすためとはいえ、あたしはそれを勝手にやった」
記憶は本来、誰かが触れるものではない。
身体や心と同じ、生まれてから今まで、例え憶えていなくとも途切れることなく続いてきた、唯一、己だけが有していて、自らを構築しているもの。
そして、忘れているのと、失っているのは、別なのだと少年は言われた。
「過去にどう怒ったか、悲しんだか、おまえがこの先どんなに望んだとしても、思い出すことは二度とない。それで命を留めたことを良しとするかどうか、あたしにはわからないことだ。恨むなり憎むなり、好きにおし」
「嫌なことなら、忘れた方が楽だろ。頭の中の、全部、持ってってくれたらよかったのに」
「今のおまえならそう言うだろうね。でも、明日には違うと思うかもしれない。人間を組み立ててるもんに手を出すのは、簡単な話じゃないんだ。もし記憶を真っさらにしたら、これまでに生きてきたおまえとは変わっちまう」
栄養と休息が足りてくると、少年はすぐ、室内を歩き回れるようになった。
布は巻いたままでも身の回りを自分で片付けるようになり、休ませていた左手の感覚を取り戻すために、ウツミの本を借りて頁を一枚一枚、指先でめくって読みもした。
古典や言語に関する本も置かれていたが、多くは術式や、草木の図説や薬効、あるいは人体について医を説く、分厚い学術書ばかりだった。文字は読めても言葉が難解で、何を表すのかさっぱり理解できない頁も山ほどあるような書物。
自分を拾ったとき、狼を散らしたとウツミが言っていた。
野生の狼ならまだしも、あれは第六領地で標的を仕留めるための訓練をさせた狼だ。鼻が利き、荒野や森林でも足が速いから、人間を追わせるのによく使われていた。よほどの高位術式でなければ、噛む口を外させることはおろか、退けるなどできないはずだ。
かと思えば、集落の住人か、たまに熱が出たとか怪我をしたとか、戸口に訪ねてくる者の声が少年の耳にも聞こえることがあり、都度、ウツミが彼らに煎じ薬や手当を施している様子も窺える。
これらが全部、気の遠くなる難解な書や知識に基づいているのだと少年がわかるまで、時間はかからなかった。
「あんたは『獲る者』で、高位の術師で、おまけに医者なのか?」
「まさかだよ。ただ、街から離れたところにいると、誰かが急場をしのがせなきゃいけないときもあるのさ」
やがて少年の腕を覆う布も取れた。
ずたずたになった我が身を見るのは辛くないといえば嘘だが、塞がってもこの有様、腕を繋いでおくのが絶望的に思える怪我でもウツミが見捨てずにいてくれたのはよくわかった。根気よく診てくれたのは明らかで、驚かずにいられない。
どこの誰とも知らないのに助けて、正体を知っても手を離さずにいてくれた。
親身にされたのは何やら申し訳なく、煩わしく、こそばゆさ、気恥ずかしさもある。頼んでもいないのにとんだお節介をされた、と上辺で虚勢を張っていないと、ありがたみで泣いてしまいそうな気までした。
しかし涙で返せる恩はない、反して、身寄りもなければ金品も一切持ち合わせていない。
満足に動けるようになったのを確かめた日、少年はウツミに頼んだ。
「あんたに礼がしたいと思ってる。だけどおれには家も金もないの、知ってるよな。だからもう少しここに置いてくれ。この集落で働く。何か仕事はあるだろ」
「そうしてもらえると助かるね。ついでに出ていくときの用意もしな。考えなしで発つのも止めやしないが、行き倒れたのをまた拾うなんてのはごめんだよ」
それで少年は、第六領地から逃れてきたウツミの遠縁として、振る舞うことになった。
いざこざに巻き込まれたところを命からがら、それらしく説明すると、負っていた怪我もあってか集落の人間はさほどの疑問も抱かなかったようだった。万一にも外部に知れて迷惑になると嫌だから名前も隠しておきたい、と言うと、ウツミさんのところの、で済むようにもなった。
そもそもこの集落自体が、第四領地に属してはいても、政や情勢から切り離された、隠れた村里だった。
山間、入り組んだ森に囲われて隔てられ、深い谷も近い。気候と土のおかげで薬になる草が栽培でき、森から採れる茸や木の根、動物の毛皮も同様、拓けた街では収穫できない素材が金を得る方法だ。
決まった数名が定期的に街に出ては金と情報を持ち帰る、世間が荒れて火の粉が飛んできそうな気配があればじっと息を潜めて過ごし、落ち着いていれば少し多めの荷を運ぶ。
村長に当たる立場の者は明確にはおらず、しかし集落のほとんどは経験と知恵のあるウツミを頼っているようだった。
余所者を歓迎せず、排他し外界を遮ることで平穏を保っていながら、少年が受け入れられたのも住民のウツミへの信頼によるものだろう。
仕事は様々にあった。
薬草につく害虫の駆除。畑の草むしり。水撒き。風雨で傷んだ柵や屋根の修繕。羊の毛刈り。麦刈り。干した茸の取入れ。こども相手に本を読み、字の書き方を教える。森で薪集め。鹿や猪を狙った罠の設置と見回り。かかっていれば解体と毛皮や肉の運搬。
恵まれた肥沃な土地と工夫による豊かさがあっても、人手には余裕がない暮らしだ。手仕事でも力仕事でも、呼ばれれば少年はなんでもした。
経験がないことばかりだった。
見様見真似から始め、少年が真摯に耳を傾けて手を動かせば、住人たちはきちんと認めて取り分を与えてくれる。下手をしたり無駄を出したりすれば叱られたが、根の真面目な善人ばかりで、できないことを馬鹿にする者はいなかった。
これまでしてきた役目とは真反対にあるような仕事、陽や雨を浴びながら誰かと働くのは、疲れさえも軽やかだった。
「おや。それ、ヤマシギだろ」
「ん。三軒目の親父さん、でかい鹿が獲れてて、ばらすの手伝ったんだよ。そしたら肉と一緒にこいつも持ってけって。おれの罠は今日は全部はずれだった」
「早く一人前になれってことさ。捌き方は前に教えたね。そういや知ってるかい。それの仲間は海を渡って他の大陸まで飛ぶんだ」
「へえ。不細工なくせに、凄いな」
雑談を交わす。祝いと弔い。綻んだ服を針と糸で繕う。金勘定と、集落から運び出す品の何がどれくらいの価値を持っているのか。獣の臭みを残さないための血抜き。薪割り。包丁を研ぐ。塩の量と味の濃さ。薬草の煎じ方。
実際の暮らしに必要な知恵と作業は、幼い頃から教え込まれた学問や身体の動かし方よりも、もっと難しく、面白かった。周囲と関わってみて、手先が器用であるのと、術式がほぼ使えない体質であるという、自分についての発見もあった。
少年は集落で数年を過ごした。
その間に世の中は落ち着いた方向へ動き、大きな諍いや小競り合いはだいぶ鳴りを潜めたらしかった。危うい風の噂も聞こえてこなくなり、逆にここぞとばかりに流通や商売が勢いづいているという。
第六領地のほとぼりが冷めてきたのを見計らい、青年の面立ちにも近づいてきた少年は、これからの自らの名を新たに考え、自分で揃えた旅支度でもって、この土地を離れようと決めた。
集落の一軒一軒を廻って挨拶と礼を伝え終わった翌日の朝早く、少年はウツミに案内されて森へ入った。
「あんたがわざわざ連れてってくれるんだな」
「集落に戻らないだろうって相手を送るのはあたしの務めだ。兎と狐の毛皮は忘れずに鞄に入れただろうね。銅貨の袋も」
「入ってるよ。街に出ていきなり食うに困ってなんて、かっこ悪すぎるからな」
森は道があるといっても大部分が獣道で、けれどウツミの先導に迷いはない。踏み分ける小枝の新しいもの古いもの、草の折れ方、足跡や糞を見逃さず、獣の臭いの有無で危険に出くわさない歩き方をする。
少年も集落にいる間に森歩きは回数をこなしたが、年季の違いか、未だに判断力がそこまで及ばない。
人間の足を惑わせる天然の迷路を通りながら、少年はウツミに言われた。
「最後だ、土産話をしてやろうかね。実のところはあたしも、おまえと同じ、逃げてきたって話だ。昔、『獲る者』だって知られたときに戦で使われそうになってね。ちっぽけな国のくせに、いや、だからかね、ここの王や貴族には野心家が多すぎたのさ。冗談じゃないって逃げた先があの集落。あたしがまだ娘っこだった頃だ」
「えっ?」
「寿命が違うだろ、周りの世代が変わって、今じゃあたしが集落で一番でかい顔するようになっちまったけどね。あたしは自分の暮らしたいように、あの場所を守ってきた。都合の悪い連中から、あたしや集落の記憶を奪ってね。でも今はこのとおりのばばあだ、だからそろそろおしまいにするつもりだよ」
若者たちはうまく外へ出して、残っている者は全て看取って、それが自分の終わりにもなろう。外界と隔絶させた分、責務として己が手で閉じる、と。
『獲る者』としての過去を、ウツミが口にしたのは初めてだった。以前はそれとなく尋ねてみたこともあったが、いつでもぴしゃりと一蹴されていたのに。
前を歩くウツミの顔は、少年には見えない。
ただ聞き慣れた、いつもと同じ平坦にさえ思える静かな声色だ。
伸びたままの背筋、老いているとは思えない歩の速さで、進んでいく。
「なんで今になって、その話をおれにするんだ?」
「あの集落は、この先、おまえの戻る場所じゃないってことだ。別に探しな。見つからないとなったら作りゃいい。過去はどうあれ、おまえは並の人間よりできることが多いんだ。するかしないかを選べるだけでも違うさ」
「ああ、心配してくれてるってわけか」
「何をお言いかね」
やがて森は人の手がよくよく入れられた、作られた木立の並びを見せ始め、街に繋がる道が近づいていることを示す。
木陰の重なりから一転、急に視界が開けるそこが森の端で、一歩踏み出した先は多くの人々も行き交っているであろう均された道筋が続いている。
少年が横に並ぶのを待って、ウツミが前方を指した。
「ご覧。ふたつに分かれてる道標があるだろ。西側が海、北側が山へ続いてる。どっちも近い街までは一本道だ、迷いもしないだろうから、好きな方へ行くといい」
「海と山ね。あんただったら……、って、自分で決めろ、だよな」
「ふん。当たり前さね」
少年はウツミに向き直ると、短くも、心からの礼を告げた。
長い言葉だとどうにも感傷的になりそうで、相手もそれは望まないだろう。
少年が最後に見たウツミの表情は、矍鑠としてやはり無愛想だったが、ひととき、柔さが浮かんだようにも感じた。
見送りの眼差しを背に、荷の重みを肩に、まずはさっき示された道標まで。
西か北かの文字が読める距離に来たとき、ふと、少年は足を止めた。
ほんのかすかな風、そうでなければ綿毛に触れられたような、小さな感覚があったからだ。
振り返ってみると、ウツミの姿はなかった。
そして、少年は今抜けてきたばかりの森の、どの道をどう歩いて来たのか、もう思い出すことはできなかった。
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