第5話【ニレ/過去】

不意に昔の記憶が脳裏を駆けることがある。

本当に随分と古いのに、思い起こしてみると昨日起きたことのように胸がさざめく。



ニレは悪くない夜を過ごしていた。

西大陸北部、港手前の街では初夏の祭りが三日間にわたり催され、ちょうど中日、夜半にさしかかってようやく静けさが漂い始めている。

昼前から楽隊の演奏が続き、日暮れからは花火、大盤振る舞いで焼かれる肉や魚の匂いが溢れて、ついさっきまで空気そのものがわいわいと熱気を帯びていた。

人々の波も一旦は屋内へ消えて寝息に転じる、今は祭りの最後に向けた短い休息といったところか。

ニレ自身はといえば、祭りの数日前から街に入り、一時的な物売りの許可もとれたおかげで、昨日今日と歩き回りながら貴石や細工を売っていた。

人出が多い分だけ目を留められる機会もあって、売上を勘定すれば、そこそこまとまった額となっているはずだ。

温まった懐で飯屋に寄り、骨付きの羊肉と焼き野菜、具沢山の魚介のスープを奮発して、蜜入りの酒も一杯、宿屋に戻ってきて今に至る。

窓をわずかに開けると、夜風がすいと入り込む。

このあたりの気候か、心地いい涼しさだ。

各地を巡っているうちに地続きで辿り着いた場所、要するにこの街に来た特別な理由はないものの、しばらく滞在するには悪くなさそうだとニレは考える。そもそも名の知れた水の『護る者』が統治している土地でもある、人々の表情は明るく、物資も豊かで、暮らしやすいだろうことはここに到着してすぐに察しがついた。

幸先はいい。

と、思っていたのだ。

そうしてニレが寝床に転がってしばし、不意に慌ただしい物音が耳に届いた。

狭いが個室を設けている宿屋の二階、声や音は響きやすく、裏手の戸が忙しなく開閉しているらしいのがわかる。一階の広間で素早く何か話す声、数名がいる。

怒号ではない響き、賊の押入りや盗人ではないようだが、宿泊者に急病人でも出たのだろうか。

そんな想像にニレが半身を起こし、物音の行方を聞いていると、半ば駆ける足が客室へ向けて階段を上がってくる。確か五ほどの部屋があって、そのどこか。

けれど予期せず、押し殺した呼びかけと控えめな音で戸を叩かれたのは、ニレの部屋だった。

「お客様……、遅くに恐れ入ります、少し、よろしいですか」

「えっ! お、おれ? なんですか?」

「その、お客様にご用があると、然るお方がお見えで。今すぐお会いしたいってことで……」

ニレは何事かと心臓を跳ね上がらせ、それは宿屋側でも同じだったらしい。

急ぎ最低限の身支度を整えて部屋を出ると、宿の主人が下げた眉に汗をしこたまかいて待っていた。ここに泊まろうと決めたときには、温厚な笑顔で迎えてくれた小太りの老年のおやじが、隠せもしないしどろもどろぶり。

「ええ、まだ起きてくだすっててよかった。ともかくこちらへ」

夜中。予定も覚えもない訪問者。しかも、否応なし。

何から聞けばよいやらと思うも、詳しい話をする暇はないといったふうに促され、ニレは一階に降ろされる。

いくつかの灯りが照らす広間や帳場は静まり返り、客はおろか、宿の使用人もいないようだ。

困惑するニレをぐいぐいと押して、おやじが奥を指した。

「ご指示がありまして人払いをしたんで。さ、あちらでございますよ」

一階の端には応接室風の小部屋があって、今は扉が閉まっている。

「あの、本当におれですか? 人違いとか」

「お名前の限り、お客様だそうです」

無自覚で何かやってしまっただろうか。いや、悪事を働いたということなら宿泊部屋に直接押さえに来るだろう。然るお方と言ったあたり、身分が高いのか。有無を言わせない呼び出し。人払い。そこまでするか。でも。しかし。

結局は中に入ってみるほかない、というより後ろから強く押されているままだ。

「お連れいたしました」

部屋の中へ向けて小声でおやじが告げ、畏れ多いとばかりに細く開けた扉から、ニレは押し込まれる。

十名は入れないだろうというくらいの広さ、年季は隠せないがよく手入れされた柔らかい座椅子と卓が置かれた部屋。

果たしてそこには、女神がいた。

比喩ではない。

夕暮れに大広場で行われた天地への祈りと言祝ぎの儀式、そこで庶民の前に姿を現した領主。誇り高き水の『護る者』で、この土地に君臨する特異者、女神と崇められる人物。

長い睫の美しい面立ち、結い上げた髪と首筋には大粒の金剛石を連ねた飾りをあしらっている。胸元から足まで覆うのは青の薄い布を幾層も重ねた衣装で、水面の揺らぎのようだ。

ニレは儀式を遠目に眺めただけだが、住人たちの歓声に微笑んで応じる姿の印象は特に強く、装いも同じだ。ましてや別人と見間違えるはずもない、光を纏っているかのような存在感が確たる証。

深く腰を据えた座椅子から視線をよこされ、全身を圧されるよう、混乱の極みで、ニレの頭からざっと血が引く。

一体全体まるで意味がわからない。

領主が庶民の宿屋にいて、しかも従者も連れずに、ただの細工職人と一対一で対面することなどあり得ない。悪質な夢か、幻覚か。

現実離れしている出来事にいっそ気絶でもしたいが、目が合って、最早それすらも許されないと直感する。

今にも崩れそうな膝をまず折るべきか、もげて転がっていきそうな頭を垂れるか、とにかく弁えなければならない。

だが、ニレがそうするより速く、女神が口を開いた。

「石細工の職人、ニレ。間違いないか」

「お、おれです」

「美しい樹の名だが、まだ若木だな。話がしたい。座りたまえ」

よく通る声で、低い卓ひとつ挟んだ真向いの座椅子を勧められる。

領主の目の前に座れるような身分では全くないが、辞退するのは反目、無礼と受け取られてもおかしくない。

せめてできるだけ低頭でいようと、ニレは精いっぱい身体を縮めて座椅子に座り、下手に相手の顔を見ることがないよう視線を落とす。

女神の声がした。

「その様子、私を知っているようだな」

「……、夕方に、祭りの儀式を見たので」

「よろしい。先に言うが、今ここで求めるものは誠実さだ。嘘偽りはためにならん。代わりに他の一切を不問とする。余分な礼儀や言葉選びも不要。まずは顔を上げるように」

命じられたなら、そうするしかない。

まごつきつつもニレは顔を上げ、女神を正面から見る。

「改めて、水の『護る者』の血族、領主のミナセだ。夜半の訪問になったことを詫びよう。祭りの時期は私も慌ただしくてな、着替えすらままならん」

ミナセが繊細な装いの裾をざっくり払って脚を組む。

女神にもいろいろあるだろうが、嫋やかな花冠を頂くよりも磨き上げた剣を掲げるのが似つかわしい。

若い娘の時期は越した容姿、実年齢はどれくらいになるのだろう。

長い生を与えられた以上、いつか別の特異者と会うこともあろうとはニレも思っていたが、まさかこんな形で、身分も格も雲泥の差の相手とは。

自由に口を開くのも憚られてミナセを窺っていると、卓越し、手を伸べられた。

緩く握られた拳が何かを渡してくる動作だと気づき、慌てて両手で受ける。

ニレのよく知っているわずかな重み、確かめれば、自分が作ったひとつの売り物だった。

芽吹いたばかりの双葉の色、緑柱石を一石、爪つきの金枠に嵌め込んで細い鎖を繋げた首飾り。

商売の許可を得るために登録所で申請をしたとき、販売品の見本として預け、後で返却される予定だったもの。

「これは……」

「その飾りは貴君が作ったものと認識しているが、いいかね。隣の港と合わせて、この街は付近一帯の関であり砦だ。余所者が来たなら目を光らせるのも肝心でな。私が自ら検めることもある」

「……はい」

「登録所に出した履歴も見せてもらった。西大陸南部の生まれ、齢は二十六。十代の終わりから自作の石細工を主軸に売りつつ、各地を転々としてきたと」

年齢以外に、嘘はない。

どこの国で何をしていたか、証明があるか、要するに前科や怪しい経歴がないかを重視されるのはどこでも同じ。ニレも旅を続けてくる間に、資料や証書に関わる申請は怠らず、できる範囲で抜かりなくやってきたつもりだ。

しかし、こちらを見据えたまま首を傾げるミナセの問いに、言葉を失った。

「さて、貴君は何者だ?」

「えっ」

「何者か、と訊いている。私の言っていることがわかるな?」

見定めんとする、刃の如き眼差し、背筋が冷たくなる。

特異者であることをどうしてか知られている、ニレはそう悟る。

なるほどこの部屋にミナセがひとりでいるのは、特異者として力を使う事態になったとき、無関係の者を巻き込まないようにするためなのだろう。さっき領地を砦と表現していた、守護するものに害を与えると判じられたなら容赦はされまい。

答えは急かされず、促されもしない、誤らず真実で口をきけという無言の圧力だ。

「あ、の……」

唇がかさつく。喉が渇いて、うまく声を発せない。

「どうして、わかったんですか」

「ふむ、誤魔化さないか。ならば理由を教える」

ばらりと、不意に音がする。

対面、いつの間にかミナセが開く右の手のひらの上に、透明な粒がいくつも跳ねてぶつかり合っている。

小石や木の実を手中で転がすときに似ている、硬質な音。

それ自体が充分な硬さを有している、加えて相手の有する力を思い起こし、ニレは気づいた。

距離はあれど海からの風も吹く街なのに、今この部屋の空気はやけに乾いている。雨さえ自在に呼べると伝わる水の『護る者』ならば、大気が含む湿気を用いることもできておかしくない。

あれは水。水の、飛礫だ。

「いいかね」

ミナセの軽く手を振る仕草で、刹那、水粒が宙に舞うのがわかり、後は反射だった。

「うわっ!」

ニレが避けられるはずもない。

間近から自分を目がけて放たれる飛礫に、頭や顔面をかざした腕で覆う。

豪雨の如き破裂音が重なる、しかし音の激しさに反して痛みや衝撃は、何故なのか、ない。

石よりもよほど硬い水だろうに、散った雫がニレの耳元や腕を冷たく伝い落ちていくだけ、皮膚も肉も穿たれていない。

向けられているのは間違いないはず、しかしどうしたことか。

「貴君は臆病だな。この程度、怯えることもあるまい?」

「こ、この程度って」

「しかと見たまえよ」

ミナセが指先に残る水粒をさらに弾いてくる、ニレではほとんど追えない速さだが、飛礫はこちらにぶつかってくる瞬間、寸でのところで散った。

感知できるものはない、ただの中空、けれど確かに、水を阻んだ何かがあった。

そしてほとんど差を置かず、ニレは手の中で小さな痛みを覚える。

いつからかきつく握っていた手を解くと、首飾りの緑柱石がふたつに割れて枠から外れ、欠片で薄く皮膚が切れていた。

「え……、え?」

透明な壁に阻まれたような水の飛礫。時を等しくして砕けた貴石。

呆けるニレに、ミナセが感心した口調で言った。

「寄せつけもせんとはな。欠けたところを見ると、石が本質か? 私が訪れた理由はそれだ」

「……おれの石の」

「……、……よもや、理解していないのか?」

ニレが狼狽えていると、初めて、苦いものではあったがミナセがここまでの厳しさを緩める。

『護る者』から生じた貴石には加護があり、それが絶えると共に砕けることは、旅の道中でもうっすらと気づいてはいた。だが、実際に攻撃に類するものを受ける経験はなかったし、しかも生ける伝説ともいえる特異者の力を退けるほどとは、知る由もない。

まるで身の丈に合わない、大きな力。

『護る者』であることを自覚していながら、ニレは、目の当たりにさせられた能力の強大さに慄かずにいられない。

「問いを変えるとしよう。貴君のこれまでのことを聞かせてくれ」

この女神の前では隠し事もできそうにない。

それですっかり、ニレはミナセに自分の成り行きを話した。

生まれも育ちも平民であったこと。かつては貴石の『護る者』が血族にいたらしいということ。父母が死した後、十代の終わりに能力が顕現したこと。先代を知らないこと。ゆえに己でもわからないことの方が多いこと。周囲に特異な力があると知られないよう旅をしていること。

「だから……ええと、自分でも驚いてるんです。今さっきの、あんな加護があるなんて、思ってなかったから」

「得心がいった。貴君は未だ『獲る者』『護る者』がいかなるものか、知る機会さえなかったということだな。先人の知恵を求められなかった境遇には同情する」

「はい……」

「天地の力は残酷だぞ。我々の、資質や人格、果ては意思さえも、一切、無視して与えられる。貴君もそうだったろう? 力が強大だからとて逃れることはできん。望む望まぬ、どちらであっても、操れなければ呑まれるだけだ」

天地からヒトへ与えられた力は、選りすぐりの術師が束で高位術式を組んでようやく相殺できるかどうかだという。

ヒトとの差は歴史が証明している、事も無げにミナセが恐ろしい話を口にするのは、特異者にとって覆らない事実だからだろう。

幸い、ニレの能力は他者に牙を剥くような代物ではない。

けれど今のまま、知らないことばかりの力を抱えて旅暮らしを続けていくのは、具合が悪い。自分や周囲を混乱に巻き込まないために始めた旅、何かをきっかけに覆ってしまうかもしれない。

どうすべきか。

己を深く見つめ直す、そして把握する、時間と拠点がいるのではないか。

ニレが思い至るのと、ミナセが言うのが、同時だった。

「まず貴君は自身の力と得手不得手を学ぶために時間を割け。思うに、これまでは石が不埒な輩を退けていたのだろうな。だが、別の特異者や高位の術師が相手となればどうなったかはしれない。私もだが、力の気配に気づく者は少なくないぞ」

「……おれも、今そう思いました」

「しかしだ、まだ実年齢でも三十代とは、本当に若木だな。しなやかではあろうが何事にも曲がりやすかろうよ。現に今も私の言に揺らいでいるだろう? 特異者であることを隠し通したいと願うわりに、すぐ詳らかにされてしまいそうだな」

ミナセの、慈悲と皮肉をひとつまみずつ混ぜた笑み。

言い当てられてニレが返す言葉もなくいると、直後、堪えかねたように笑われた。

「表情が豊かだな。性根が純朴なようだ。なあ、若木君」

「わか……おれのことですか」

「そうとも」

親しげな呼びかけがまるで幼子にする扱いで、ミナセから見たら実際、自分は赤子なのだろうとニレは思う。

最初の氷の如き厳しさや近寄り難さはやわらぎ、女神が初めてヒトに近しく見えてくる。

「しばらくこの土地にいてはどうかね。もとより領主としては君の全てを今ここで信ずることはしない。信頼に足ると判断がつくまで、否でもしばし監視下にいてもらう。だが、私自身の話をすれば、一族以外の特異者に会うのは久方振りでな。しかも幼いとあっては、目を離すのは危ぶまれるうえに気が引ける。入り用なものは手配する、その力の秘密も守ろう」

「えっ、で、でも、おれみたいな平民に、わざわざ領主様が?」

「私自身、と言ったぞ。『獲る者』『護る者』の理はヒトにおいての立場や身分とは違う。しかし据わりが悪いならば選ぶといい。私の……そうだな、例えば友として、あるいは、旅の細工職人として、提案を受けるならどちらでも構わん。断るとあれば手枷と錠前だ」

選べる返答は是、または諾。

しかしこれ以上に心強い配慮もないだろう。

ニレはこわごわと、ミナセの微笑みと好意を頼ることになった。


いつか過ぎ去った初夏、夜半の出来事。

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