第4話【住処】
森の中を、進む。
陽はやや傾きつつあり、夏と違い葉を落とした木立の間でも、まもなく灯りが必要になるだろう。
日用品や旅支度、それぞれ荷を背負って、街へ延びる整備された街道の端から、小屋まで繋がっている獣道へ分け入る。
ニレは斜め前からシギを先導していた。
「その大荷物、平気か? 足元取られたら大変だろ。おれの方に少し移すか?」
「ありがとうございます。見かけより軽いのでお気遣いなく」
「喋り方、普通で構わないぞ。歳近いし、おれはかしこまった言い回しが得意じゃないし。名前も何もつけないでいいけど、……こっちが何かと教えてもらうよな。なんだその、先生とか? 呼びますか?」
「いえ、僕にこそ敬語じゃなく、どうかそのままで。日常会話が一番勉強になります。西大陸の主言語を学ぶときに、多少は改まった場でも通じる言葉遣いから覚えたんですよ。余所者ですし、言葉で齟齬が生じるのは本意ではなかったからなんですが、他の口調はまだまだできなくて。堅苦しかったらすみません」
不自由のひとつもなさそうな抑揚でシギが言う。
発音に違和感がないこともだが、するすると苦もなく後をついてくるのを、ニレは内心で舌を巻いた。
ほぼ直線、山ではないから傾斜はないものの、けして歩きやすくはない。その昔、自分がこの森に慣れるまでの、常にできていた痣や擦り傷、酷いときは捻挫したのを思い出して、ニレは声をかけたり度々振り返ったりと後ろの様子をこまめに確かめている。
けれどシギが枯葉や小枝に足を滑らせることはなく、速度もほとんど落ちていない。そのうえ、たまに短く立ち止まっては森のあちこちを広く見渡し、鳥の鳴き声や通り抜ける風の流れを聞いている。
初めての森を楽しみつつ、本質としては、周囲に不穏な気配がないかを探っている。余裕と警戒感のある森歩きを見るに、拓けた場所ばかりを道中にしてきたのではないのだろう。
旅から離れていた分、シギを見て学び直す行動もたくさんありそうだ。
それからしばらく進んできたとき、シギが尋ねてきた。
「このあたりの防除の術式は、あなたが組んだものですか?」
「そうだよ。よくわかったな」
そうなのだった。
この森、特にニレが暮らす小屋の周囲から公道に出る一本道の範囲には、加護の術式の一種を敷いている。
こういった場所であれば木立や土に働きかけ、己の身を隠すか相手を惑わせて、害意で括れる万象を除ける。極めて狭い範囲に限られるが比較的強いとされる、一般に広まっている術式の位としては中の上のあたりだろうか。
術式はいわば道具、役立たせるには手順や相性があり、出来は個人の資質に大きく左右される。
施しているのは、貴石を出せる以外は平々凡々なニレがどうにかぎりぎり組める式。
しかし、種を明かせばそれは目くらましで、結界ともいえる強靭さで危険や厄介を退けているのは自分から生じた貴石だ。そこかしこの地に埋めている、使うのは売り買いしない屑の石ですぐに駄目になってしまうが、頻繁に埋め直しておけば効果に問題はない。
素人では肉を喰らう獣や不届き者を全て排すことなど到底できない、だからこの術式は、特異者であることを隠し、飾りを作る職人である証左として対面を取り繕うものだ。
「術式を使うも得意なのか?」
「残念ながら、素養があまりないんです。学問として知っているだけですね」
「そうか。まあ、おれも飾り作りで籠める護りの式をいくつかくらいで、他はからっきしだ」
「その分、特化されているのでは? 見るに、上位の下限か、中位の術式だと推察できました。それがこんなに静かで全く綻びを感じない、見事な展開ですね。何か別の要素を組み込んでいるんですか?」
的を射られて、どきりとする。
気が逸らされてニレはつい、滑る枯葉の重なりを踏んでしまう。
やってしまったと思ったときには勢いよく足元を掬われており、荷物で重たくなっている背中側から、身体が地面に投げ出されるのを覚悟する。
風景が傾き体勢が崩れ、が、素早く背後から肩を掴まれて、強い力で押し止められる。体重をしかと支えられたおかげで、一度は宙に浮いた足が踏ん張りを取り戻せる。
ニレが姿勢を正すと、シギがほっと息をついた。
「よかった。どこか痛めていませんか?」
「助かった……、ありがとう」
一瞬の出来事に対する反射と、巻き込まれて大荷物もろとも転ぶかもしれないところで腕を貸す咄嗟の判断。さらには倒れかけの、荷を背負った大人を平然と受け止めるあたり、瘦身だが非力ではないのもわかる。
下手をすれば諸共、尻を打っていてもおかしくなかったところ、互いに無事だ。
「身軽なんだな」
「身体能力なら少し自信がありますよ。それより、さっきは不躾な質問をしてしまって申し訳ありませんでした。職人の方にとっては、手の内を明かせと言うようなものでしたね」
追及されないことにニレは安心すると同時に、シギの底知れなさを感じもする。
仕掛けた貴石の力が働くことなく共に来ているから、敵意や悪意のないのは明白だが、別の何かをもっと隠していてもおかしくない。そう思わせるくらいの、どこか卓越した印象がある。
資料を読んでシギに目を付けた、ミナセの心情が今なら推し量れる気がする。
「どうかしましたか?」
「いや、いろいろ凄くて、ちょっと驚いてる。おれが雇い主で大丈夫かって」
「買い被りすぎですよ、後でがっかりしないでくださいね」
売り込みの話術なのか、本心なのか、今はまだ断定しかねる。
何せ初日、まだ互いに言葉を交わしていくらも経っていないわけで、気づきや理解を得るならばこれからだろう。
ほどなくして木々の間に小屋が見え始め、夕暮れを迎える手前で、揃って無事に到着することができた。
豊かな森では、木の多さによって光の届く時間は短く、暗くなるのも早い。小屋の中の灯りに火を入れながら、ニレはシギを招き入れた。
「借家だけど、おれの家にようこそ」
「お世話になります」
「そっち進んだところの部屋、好きに使ってくれ。荷物置いてもらったら、まずはここのこと教えておくよ」
半土間の炊事場が設けられた食堂兼居間、暖炉。小さな個室が三つ並んでいて、東向きの端の一室がニレの寝床、真反対の部屋は物置にしているから、中央の部屋を今日からシギにあてがう。身体の洗い場は狭いが槽があり、薪窯で外から火を焚けば湯船ができる。裏手に井戸と薪の置き場。庭先に物干し。少し離れた裏手に便所。仕事をする納屋は敷地の角に位置している。
暮らしていて不便はなく、ニレ自身はそこそこ快適だと思う。
しかし自分の住処に他人を迎えるというのは、落ち着かないものだ。家主として堂々とすればいいのだが、今までシギが働いた貴族や役人の邸宅と比べたらどうしたって貧相には違いない。
けれど、小屋暮らしに対する不安の表明をニレが受けることはなく、代わりに食器や石鹼の取り扱い、掃除の頻度、炊事の時間、してはいけないことがあるかなど、細やかに確認された。相手の習慣や意向を把握し、領分をきっちりと線引きする、ここまでに培った立ち回りなのだろう。
互いに条件を出して擦り合わせ、本題である各種の指南は主に朝晩に時間を設けることにして、家事全般は分担、食材や共用できる消耗品は折半と決める。
方向性が決まった後は、もう今日は休む準備を始めようと、ニレは少しばかりシギの荷解きを手伝った。
大荷物には、旅で使う簡易道具や薄毛布の他に、昼間に買っていた林檎、豆や燕麦の袋、干した果物、茶の葉、香辛料などが入れられていた。特に香辛料は種類があって、いくつか嗅がせてもらうと、鼻の奥がつんとした。
「これ、全部おまえの?」
「売り物の余りですね。苦手でなければ、香りが落ちる前にここで使わせてもらえると嬉しいです」
「いろんな種類があるなあ。おれは黒の胡椒くらいしか使ってないよ」
荷物から出された食品を保管するため、食堂の棚を譲る。食器や塩や麦を備えてはいても、ニレが使う分ではけしていっぱいにならなかった箇所が、置かれていく瓶や袋で、初めて賑わしく見える。
あらかた収納したところで食卓の椅子に腰かけ、ニレは言った。
「でも、いいのか? 飯作りとか掃除とか、大半任せるみたいになったけど」
「旅暮らしだと、料理も家のこともじっくりできる機会がないので、楽しみにしていました。せっかくなのでいろいろさせてもらえると嬉しいです」
「使用人で雇ったわけじゃないし、おれもやるから。わかんないもんがあったら聞いてくれ」
「はい。そのときは教えてください」
火の具合や使い勝手を覚えたいと、シギが早速、夕食作りに手を挙げてくれる。
玉葱に芋、人参。塩漬けの肉。危なげない手つきで皮を剥き、刻み、鍋に入れていく。竈の火にかけ、さっと炒めたら水を注いで月桂樹の葉を一枚加え、煮えるのを待つ。
切り分けられたパンが、削った岩塩と油を添えた皿に並び、おまけに林檎が二個、卓の上に載った。
「林檎は嫌いじゃないですか? 煮詰めるのは時間がかかりますから、今日はこのままか、薄切りで焼いてもいいですね」
「えっ、焼く? 林檎を焼くのか?」
「おっと。では、試しに少しだけ作りましょうか。酒と、肉桂は大丈夫ですか?」
「多分、平気」
肉桂は焼き菓子に粉が振られているのをいつだったか食べた思い出があるくらいで、ニレが自炊のために用意したことはなかった。
否、故郷を出てからこんな日そのものが、なかった。
住処で、食卓で、自分が作るではなし、食事が出来上がるのを待っている。食材を切る音の調子、立ち昇る湯気、相手の後ろ姿。味見に差し出される匙の、一口分。先んじて鍋敷きを卓の上に出して、礼を言われる。一組ではない食器、一人前ではない料理。
今日の食材のほとんどと、食器はニレがもともと置いていたものだ。それでも作り手が違い、使い手が変わると、まるで違って思える。
準備が整うと、シギが取り分けたスープの器を目の前に置いてくれた。
「どうぞ」
「ん、ありがとうな。じゃあ、今日の糧に感謝を」
「糧に感謝を」
口に運ぶと、熱の入った野菜が柔らかく、優しい薄味が身体に染み入るようだ。冷めないうちにと勧められた林檎は、さくりともしゅわりともつかない不思議な歯応えで、肉桂の香りも合わせて甘い。一日を終えるところに相応しい、労わるような温かみ。
美味い。
そうして自分の対面では、相手が丁寧な所作で食事を摂っている。
街の食堂ならまだしも、家という場所で、誰かと食卓を囲うのはいつぶりだろう。
ニレが何気なく思っていると、シギも似たことを考えていたらしい。食事の途中の一息、目が合うと小さく笑まれた。
「相手がいる食事は久し振りで。不思議な気分になります」
「あ、おれもそう。あれ、でも、今まで住み込みしてたとこじゃどうしてたんだ?」
「友人や客人ではないですから、家主と同じ卓で、ということはなかったですね。概ね、貸された離れや部屋に運ばれてきました」
「なるほど……」
「ただ、食事がひとりなのは構わないとして、翻訳を頼まれたときでしたか、気づいたらいわゆる軟禁状態にされていたこともありまして。漏洩の防止にしても、なかなか厳しかったですよ」
「軟禁! それ、まずいだろ。平気だったのか?」
「結果、渡れたからここにいますが、危ない橋でしたね」
食べる。話す。聞く。それらを等しく同時に。
目の前に誰かがいる、そのことを改めて噛み締めるような、しばしの時間。
合間にはシギが二杯目のスープを注いでくれ、平らげたニレは腹がくちくなったのだった。
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