第3話【女神の領地】

上等な革張りの腰掛に、古いが歪みのない木製の書棚の列。

本は厚い装丁に装飾を施したものから紙の束を紐で綴じただけの簡素なものと様々だが、規律正しく静かに並び、行き届いた手入れによってひとつまみの埃も残されてはいない。

腰掛のひとつに促されて、ニレはこの書斎の主と久しく顔を合わせていた。

「それで、若木君。どうだったかね。一報の件、欲しい記録は揃っていたかな?」

「充分、……というより、思ってた以上にあった……、何か気を回してくれたんだろ」

「さほどのことはないさ。可愛い友が不利益を被るのは御免だ」

金茶の滑らかな髪を編んで結い上げ、はっきりした目鼻立ちを薄化粧で際立たせた、豪奢な女。今日は高い背丈に合わせた飾り気のない男物の服装で、けれどなお、対面で座る姿は大輪の花のようだ。

領主ミナセ。

シギとの一件から十数日が過ぎ、ニレはミナセの別邸に、忍んでやってきていた。

ニレの暮らす森にも繋がる、木々の多い土地を区切って建てられた別邸は、主にミナセの個人的な蔵書の保管や道楽に使われている。庭師と使用人の数名で管理される、領主の名を持っているとはわからない質素な造り。

街や本邸から離れていない分だけ通いやすく、執務に疲れたとき、思考を必要とするとき、あるいは非公式の客を招くとき、過ごすという彼女の小さな城だ。

「それに君ときたら、全く私を訪ねてくれんだろう。今日はいい機会になった」

「領主様のところにほいほい通う平民なんていないって」

「我々を類とする根源的な理由を生かしたいものだが、君があまり望まないからな」

領主の客人としては、ニレは立場も権威も足りておらず、本来ならば取り次ぎの願いさえ門前払いとなるだろう。

あらゆる条件を超越してふたりを繋いだ点、それは『護る者』であるということ。

ミナセは歴史上で最も多く語られている、水の特異者の血族だ。

代々、一族のほとんどに能力が発現し、人数も少なくないため、存在は有名を通り越して常識に近い。海、川、雨、あらゆる水を使役する力を有し、あちこちの大陸に散って、概ねが地位や権力を得て各国の要となっているという。

この土地の領主が水の『護る者』である、というのも世間で広く知られている。

土地面積のみなら領地自体は決して広くないが、外の大陸との門ともなる海と港があり、その守護として国内の他の領主とは与えられている権限が一線を画しているらしい。清い水が人々の生活を守り、出入りの盛んな港町を有しながら治安が維持されてきたのも、ミナセがいてこそだ。

三十そこそこといった姿だが実年齢は二百歳に近く、あえて王都ではなく地方に身を置き砦となっているのを、女神として崇める者も少なくない。

そんな仰ぎ見られるような立場でありながら、ニレには友人として儀礼や手順を省いて接してくれている。

今回もそうで、例のシギの申し出に対して、ニレは初めひとりで商人の登録所に行ってみるつもりでいた。だが、その場での開示内容だけでは心許ないと、わざわざトマルが領主の権力を頼ってミナセに掛け合ってくれたのだ。

「『証明及び写しは検めたのち提供元へ直接の返却とする』……、こんな条件なくても、礼は言いに来るつもりだったよ」

「礼は不要だ。ただ、形あるものには規則や建前が必要になる。あとは君を呼ぶ口実さ、念入りにな」

「口実ね。いろいろ手間かけさせて悪いな。ありがとう」

「ふふ、君は素直だな。好ましいが、些か心配にもなる」

ミナセといると、ニレはどことなく、教えを仰ぐ師や女家族がいたらこんなふうではないかと思う。

しかし砕けた態度で笑っていても、領主の肩書は万能だ。

結果、一般市民に対してなら登録所の用紙が二枚三枚で済まされてしまうシギの各種証明が、行商組織の内部でしか扱わない非公開分も含め、十枚の調査簿となってニレの手元に届いのが三日前。

読んでみると氏名はもとより、出身地、滞在地、どこを渡り歩いてきたか、何を仕入れ、売ってきたのか、旅商人としての履歴はすっかりと知れた。各地の責任者の印や署名が偽物でないことまで確認済、至極真っ当、むしろ多才な男だということが、紙上でわかったのだった。

ニレが返却した書面一式をぺらぺらとめくって文字を目で追い、ミナセが息をつく。

「この渡り鳥、資料を取り寄せて私も少々驚いた。若木君の表向きの年齢より二つ三つ下か。物品の売り買いの他に、下級だが貴族や役人相手に南東の言語や文化、学問の手引き。我々にとって学びの機会が少ない分野といえ、金を得られるほどのものとなると話が変わる。弁舌がいいようだ」

「確かに、全然、訛りみたいなのもなかったな」

「西大陸には東側の国の港より三年前に上陸。言語に長けて、流暢というだけでは片付かんな」

小物。宝飾雑貨。香辛料。果実や花卉の種子。南東大陸で使用される言語の読み書き。翻訳。術式の論理。

シギが扱ってきた品物は小さく嵩張らないものが多く、さらに数々の特技も記されており、荷車が必要になるような商売ではなさそうだ。小綺麗な身なりや言葉遣いを思い出すと勉学の指南役も無理のない印象、つまりその稼ぎも併せて身軽に旅をしているのだろう。

「ともあれだ、見た限りでは注意を要する点はない。若木君の話が来なかったら、もう声をかけに行っていたな」

「うっ、……ミナセのそれはちょっと怖いんだよな」

「そう言ってくれるな。突出した能力のある者がいたら見極めておくのも私の仕事だ。益か、害か、前者ならば手元に置きたい。後者ならば然るべき対応をする。外から来た者は特にな。放っておくのは職務怠慢だろう?」

「わかるけどさ……、まあ、懐かしいよ」

昔、それこそこの街に辿り着いて数日しか経っていなかったときに、ニレはミナセに訪問されたことがある。

外から入ってきた人間の情報を素早く収集し、さらには自ら出向いてくる領主には出会ったこともなくて、あの日は何事か知らぬうちに犯したのかと肝が冷えた。

その出会いが今に続いていて、結果、ふたりで思い出して笑い合っている。

ミナセが静かに言った。

「懐かしい、か。君がここに来て、もうそんなにも時間が経ったか」

「うん?」

「年月の流れは早いな。トマルから若木君が旅の再開の時期を決めたと報告を受けているが、理由はそれか?」

思いがけず訊ねられて、ニレは反射的にぐっと何かを胸に込み上げさせる。

別に隠すつもりはなかった。

が、話すことをしようともまた、思っていなかった。

もとから定住の意思はなかった、むしろここまで長居をした、どれだけ暮らしを助けてもらっても同じ場所に留まるのは潮時、トマルにはそう説明した、嘘ではない。

だが、伝聞であってもミナセには、さらにもっと深い場所が見えていたのだろう。

「詰問ではないよ。新たな協力者を求めてくる様子もないからな、もう時期を定めるだけになっていたんだろう? 君なりに見えたものがあったということだ」

「……よくわかるんだな」

「無論。少なからず私も君と同じだよ」

宥めるようなミナセの声音に、ニレは頷いて返す。

この街をもう離れようと決めた根底。

絶えず旅を続けている間は、ほとんど実感がなかった。長くても数年、土地柄の表面だけを辿って過ごすような毎日は、ある意味では目まぐるしく変化があって当然で、深入りしない分、重みも残さない。一時の関係性は儚いが、自分が普通の人間であるように錯覚できていた。

しかし、この街に身を置いて、改めて突きつけられた。

同じ時間と空間を共有しているのに、まるで別なのだと。

歳の重ね方が最たるもので、この先、どこまで生きるかしれない自分と、例えば今日産まれても百年先には死ぬだろう赤子、日に日に削られていく命の猶予が、同じとは思えない。

最初、ミナセが手助けに紹介してくれた者は、役場で経歴や年齢の辻褄を節目ごとに合わせたり、日用品や食料の調達に気を配ってくれたり、トマルの他にも数名いた。皆それぞれ街で暮らしながらニレを受け入れてくれたが、もともとそれなりに年上だった彼らは、随分と前に亡くなっている。

唯一、年下だったトマルも、今の姿に昔の面影を感じるほどには、歳を経た。

降り積もる親しみと同量のやるせなさ。

なんなら、あと数十年後、自身はほとんど変わらないでいて、世話になるだけなって、相手を見送るような日が来るのはまっぴらだと思ったのだ。

「やっぱり、なんだろうな、辛い。どう受け止めていいかわからないままなんだよ」

「そうかもしれんな。若木君は貴石の力を得てから長く誰かと接することはなかっただろう? 当惑することがあったとて、それでこの先の道を決めたとて、誰も君を責めはしない。別れの形が変わるだけだ」

「……別れか。まあまあ長く生きてるのにな、慣れない」

「そうだな……、私の持論だが、我々のような特異者は姿と共に精神の成長もしばしば滞る気がしているよ。過ごした年数と心が比例するなら、とうに賢者になれていそうなものじゃないか。だが、私とて未熟なままだ」

立ち上がったミナセが、傍に来て元気づけるように肩を叩いてくる。

声音には年長者の頼りがいと、優しい叱咤が含まれている。

「だが、思い違いはいけない。最初こそ私が協力を請うたが、トマルにとっても、若木君は大事な友人だ。負担とは考えてやるな。証拠に、渡り鳥の件を私に伝えに来たとき、あいつは今にも泣かんばかりだったぞ。旅だけならまだしも、海を越えるとなれば陸路とは違う。心配なんだろう」

「泣きそうって……、本当にお人好しなんだよな」

「同感だ。さあ、時間だな、お喋りの場所を変えるとしよう。今日付けで君も人を雇う側となった。街まで送ろう」

ニレは借りた資料からシギを雇うことを決め、登録所を介して契約の連絡をつけていた。

教育者や役人でない者が学びのためだけに、という理由では訝しまれるから、職人業である自分の販売手段のひとつとして旅商人を、その言い分で落ち着いている。

期限付きの専属雇用、必要な申請も終えて、本日より有効だ。雇用や契約といっても一番簡素な部類で、互いの居所と金銭の流れについて登録所へ報告義務がある程度だから、そこまで難しいものではない。

シギには、滞在していた宿屋の精算を済ませてもらい、昼頃に街外れの広場で落ち合う約束をしている。

そこからニレの住む森小屋に案内し、まずはお互いの認識にずれがないかを確かめる。問題がなければそのまま住まわせ、報酬分を働いてもらう手筈だ。

何を教わるにしても場所が要る、加えて船旅を考えると知らない人間との生活に慣れておかねばなるまい。それに数日ならまだしも連日となれば宿屋にずっと相手を留めさせるわけにもいかず、報酬に費用を上乗せされてこれからの自分の路銀を減らすのも避けたいところだ。

今の森小屋なら部屋数があるし、共同生活もどうにかなるだろう。

「あの小屋に入れるか。君にしては思いきったな」

「向こうは住み込みもしたことあるみたいだからな。おれだってこの街に来る前は小汚い共同の宿屋に泊まってたときもあった……、けど、もうどうしてたのか忘れた」

「ふむ。船旅は逃げ場がないからな。多少の無理に慣れるのも肝心か」

ミナセが繰る一頭立ての馬車に乗せてもらい、街へ向かう。

天高くなんとやら、軽快な足取りで進んでいく馬の尾の様子や、歩くよりも格段に視界の高い景色が清々しい。

ひとりきりでいたら知らない人間を受け入れる不安や気構えばかりが膨らんだことだろう。

「なあ、領主様が自分で馬車って、護衛とか世話役とかに叱られないか?」

「なに、小言をもらう程度さ。立場上、公の場では近辺の警護もさせるが、見せかけだと知っているだろう?」

「どう考えてもミナセが一番強い」

「ああ。私はこの地に住まう限りそうあらねばならん」

使命を己に課すミナセの、笑みながらも凛とした横顔は眩しく感じられる。

人々の上に立ち、導き、庇護する。かくあれかしと帝王学の如く徹底的に叩き込まれたであろう水の『護る者』。ここに至るまでには想像もつかない苦しみや悩みもあっただろうが、今の姿に陰りはなく、誇り高く役目を全うしている。

心を砕いてくれる友と、敬える先達者。

ふたりの力を借りたこの機会は無駄にするまい、ニレは改めて心に決める。

「ときに、若木君。君に注文があるんだが、いいかね」

「なんだ?」

「若木君の水晶が欲しい。加工は不要、可能な限り無色で澄んだものが好ましいな。空豆の大きさで三つだ。二十日以内の納品でどうだろう」

「わかった。いいのを選んで、トマルを通して届けるよ」

急がない馬の歩調でも、街まではそうかからない。

雑木林をいくつか抜けていくうちに徐々に建つ家の数が増え、他の荷馬車や通行人にも出くわすようになる。領主だと気づいた人々にミナセが軽く手を振り、穀物でぱんぱんの麻袋を運ぶ荷車を追い越す。速足ですれ違っていったのは郵便馬車だろう。

街を囲う外壁と警護所を抜け、ひとつ目の広場にさしかかったところで、馬車は止まった。

「あっ、いた」

「ほう。遠目にも南東の者だとわかるな」

広場の中央、郊外から日通いで訪れる物売りや、遊びまわって駆けていくこどもに混じって、シギはいた。

旅支度の一式か、一抱えはある大きな荷を背負った黒髪の後ろ姿、果物売りから林檎をいくつか受け取るところだった。

何の気なしに振り返ったシギがこちらに気づき、馬車を降りるニレのもとへ来る。

姿はやはり翳りのようだが、人好きのする柔和さも等しくあって、陽の下では眼の青色が強く見える。

向かい合って笑まれても、二度目だからか、ニレも前ほどには構えずにいられた。

「御用命、ありがとうございました。登録所から報せをいただいています」

「細かいことはこれから……、ここ、騒がしいし、移動しながらでも」

「若木君。私も一言いいか」

権威者の声、馬上を振り仰ぐとミナセが視線を向けてきている。

それは威圧ではなしに、けれど目を逸らすことを許さない。只者ではないと察したのだろう、シギが表情を改めた。

「まずは座したままでの非礼を詫びる。貴君が南東大陸からの商人で違いないか」

「はい。シギと申します」

「海を越える鳥と同じ良い名だな。私はミナセ、この一帯の統治を任されている者だ」

「これは……、ご無礼をいたしました」

馬車を走らせていたときとは別の、厳然たる表情。民の主であることを知らしめる空気はニレの肌にもひりりと伝わってくるほどで、シギが背の荷をすぐさま降ろす。

頭を低く膝をつこうとするのを、今は私的な場であるからと止め、ミナセが続けた。

「そこの職人が南東の者を雇うと小耳に挟んだ。我が領土には彼の地からの客人は少なくてな。ここに至るまでの働きぶりも興味深い。行儀の悪いことだが、一目検めにここへ参じた。遠路よりこの街への来訪、歓迎する」

「一介の流れ者に、畏れ多いことでございます」

「貴君が本日より仕える職人は縁あって私も世話になっている、良い腕の持ち主だ。よろしく頼む」

邪魔をしたと断りを入れてミナセが手綱を繰り、反転させた馬車で去っていく。

手際よく短時間、領主の存在は間近にいた者以外には気づかれなかったようだ。数名がちらちらとこちらを注視していたものの、騒がれるほどではない。

けれど、視線と言葉を直接浴びていたシギからは、ややあって強張りを解くような息遣いが聞こえた。

「今の女性があの名高い水の『護る者』ですね……、まさか、驚きました。それに、あなたが領主の命を受けるほどの職人だったとは。同じ馬車でしたね?」

「おれは昔、偶然、ちょっと仕事を見てもらったことがあっただけだ。ミナセ……様は、庶民によく声をおかけになるし、さっきは案内ついでに少し隣に乗せていただいて……、うん」

事実頻繁に民の前に姿を見せるミナセだが、今回のことは友人待遇だ。

旧知であることは悟られまいと慣れない言葉遣いにもつれた舌先を、ニレは小さな咳払いに紛れ込ませる。

それから街の外へ続く通路をシギに示した。

「とりあえず、おれの家に向かおう」

「はい。よろしくお願いします」

「森に入るから、気をつけてくれ」

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