第2話【蒼玉の主】

貴石を生み出す。

もし暗闇の中なら、ニレが薄い白い光を纏うのがわかるだろう。

初めは膜となって身体全体を覆う弱光が、やがて戴くかたちに重ねた両の手のひらに集約し、眩く溢れる。

深い呼吸やゆっくり瞬きをするのと同じ、身体がすることを制御する、そうして五感にあるものを手繰り寄せる。

今日初めての陽を滲ませる空の色。灯した小さな炎の揺らぎ、燃える油の匂い。まとわりつく濁りのない空気の冷たさ。

現象のいくつもが意識の遠くで別の像を結ぶ、呼応するようにほどなく光は大小様々の結晶と化す。

徐々に輝きは潜んで、最後の光が消えると同時、重みをもった貴石としてニレの手に落ちてくる。

紫黄の水晶。蛍石。黄玉。黒曜石。金剛石。蒼玉。わずかな明かりをも吸い込んで煌めく、とりどりの、裸石、原石。

例えば夜明けの薄紫と朝焼けの黄み。触れたら温かそうな澄んだ金赤色。くすんだ白濁は磨けば玲瓏な透明になる。

そのとき心身で感じ取った万象を写し取るかのような色彩で、貴石は一度に数十ほど生じる。ころりと丸みのあるものもあれば、指先ほどの角柱、賽子に似た八面体と形もそれぞれ、一石で飾りが作れる上質な粒から屑に等しい欠片まで、多種多様だ。

陽の明るさが空に広がり始め、眠れなかった夜が、ようやっと終わろうとしている。

冴えた目で寝床に潜り込んでいるのは夜中に早々にやめてしまって、ニレは納屋にいた。

窓の傍の作業台と椅子、細工を作る術式を施した布、道具に金具、貴石を包む布や木箱。これが今の仕事場。

ニレの住処、もとい少々造りが立派な古い小屋は、ミナセの領地の東の隅、森にある。

かつては木を使った道具作りや枝打ちで糧を得た者たちが暮らした、寝室と炊事場を備えた生活のための小屋と、作業をする納屋。いつしか元の主に手放されて朽ちるのを待つばかりでいたのを、この土地に来たときミナセの伝手で借り受けた。

平地の森は、人が拓いた道を最短で通り抜けるなら半日あれば足り、小屋から街へは数時間で着く。ただし山や谷の目印がないうえ、荷を引く馬や人間を餌食にする獣も生息し、気軽に歩き回る者はいない。

人目を避けて暮らすには申し分なく、作業で気兼ねすることもない。

ニレは石をひとつずつ丁寧に仕分けていく。大きさ。目立つ傷、割れはないか。内包物の有無。色味の濃淡。裸石のままでおくか、指輪や首飾りに誂えるか否か。組んだ術式で研磨するか。

石の選別や細工作りは、特異者としてではなしに身体に染みついている。数知れず繰り返し、考えるより先に手指が動く、昔よりできこそすれ、衰えてはいない。

故郷では、ニレは石飾りを作る職人家系の一粒種だった。

両親はもともとの病弱な体質や罹った肺病でそれぞれ亡くなり、十八歳でひとりになった。

その頃には仕事で日銭くらいは稼げていて、職人同士の繋がりや販路もあったから、裕福ではないにしろ食べてはいけた。

寝て起きて働く、ときに不満はあっても卑屈にはならずに済む、暮らし。

駆け出しには潤沢な材料も目を留めてもらえるような技術もなかったが、こつこつと飾りを作って過ごしてきた。

必要な術式を憶えるのも伴う手仕事も苦ではなかったし、心得については道具を持つ前から、ずっと父親に言い含められていた。

今でも諳んじて口にできるほど、何回も、聞いた。

「この家が代々、石を扱う飾り職人としてやってきたのは、我々が貴石の『護る者』の血筋だからだ。おまえの祖父さんのまた祖父さんまで辿っても力が現れた者はいなかったというから、もう特別な力は絶えたんだろう。それでも、食事と寝床を与えてくれる石への敬意と、人々を加護する誇りは忘れるな。いつでもそのことには誠実にいるように」

幼心にさえ信憑性の類は感じず、他の英雄譚や寝物語と同じで、ついでに説教の雰囲気もあり、飽き飽きしたものだ。

身分を示す肩書もない凡庸な家柄にそんな人間がいたはずがない、親が子に倣わせる心構えの例え話だろうと。

しかし、刷り込まれた教えは、真実となって平凡な日々を覆す。

十九歳の秋、貴石の力が顕現したときの断片は、今なお憶えている。

家で、自身に光が現れて慄き、無から出でて形となった貴石、反射的に放り投げた翠玉や尖晶石が場違いに美しく、喉から声にならない息が漏れた感触、午後のよく晴れた窓の外。

前触れも啓示もなしに力を投げてよこしてくる、世界とはなんともひねくれているに違いない。

現実に殴られたかのような衝撃に、寝床に籠って途方に暮れたのは一日二日ではなかったように思う。

だが、呆けていたところで助けがあるわけでもなし、どうにか起き上がった後は救いや学びはないかと貸本屋や古書店から文献をあるだけ持ってきて『獲る者』『護る者』の逸話を貪り読んでもみた。

綴られた、破壊者もしくは救世主たち。恐ろしく、華々しい、伝説の端々は一般的な人間への流布であって、未熟な特異者への指南書にはなってくれなかったものの、しばし没頭するうちに冷静にはなれた。

貴石の『護る者』にはめざましい記録がなかったからだ。裏を返せば、先代たちは目立たない暮らしをしていたようだと、察しがついた。

貴石の、という呼ばれ方にしても、宝石商たちが定義する硬度や種類によって高値がつけられる、いわゆる貴石とは根本が違う。天地からの力により成され、形を得ることがまず稀、屑でも下級品でも貴い加護がある、それで貴石の、と冠されるようになったのも知った。

畏怖や崇拝の対象ではなしに、普通の生活に近しくあったとするならば、まずはこれまでと同じに飾りを作っていくことにしよう。石が湧くだけ。いくらか人生が長くなっただけ。見知った顔しかいない土地でずっと暮らすのには無理があるから、旅をしながら。

その年の冬の終わり、手持ちの家財や細工を売って故郷を離れた、あれから何十年が経ったのか。

場所こそ転々と変えて巡ってはきたが、ひたすら流れる時間に身を任せて、今日まで。

ニレはさっき自分から生じた蒼玉を手に取る。

灯している小さな炎に透かすと、石の中で屈折した青色がひらりと揺らめく。

思い返すのは、昨日の出来事。

蒼玉が砕けたあのとき、ニレは本能的に察した。

これは自分の血筋に繋がる誰か、遡ったどこかの時代の『護る者』が生み出した貴石だと。

耳飾りを預かった際、依頼主の前でトマルも簡単に石の状態を確かめたそうだ。そのときには傷もひびもなかったらしいから、単なる鉱石であると考える方が不自然だ。

『護る者』の石が砕けるのは、加護の役目を終えたから。

先代が生み出し、恐らく様々な場所や時間を経てお役御免となって尽きるとき、同じ血筋のニレの手元にやってきた。

合縁奇縁、しかしヒトに強大な力を与える天地のこと、その程度の偶然はなんら不思議ではないのだろう。

けれど、ニレにとっては初めて目の当たりにする先代の証で、根無し草となって初めて視界をかすめた、道標だ。

ここまで、慎ましい生活を送るためだけに歩かざるを得なかった旅路は、大きな進路や目的は見当たらず、どれほど望んでも教示も慰めもないままに、手探りでやってきた。

現れた一粒の手がかり、何を示しているのか、辿り着く先はどこか、それとも単なる境遇の悪戯か、ひとつも明らかではないのに存在は確かで、無視することはできない。

胸の奥が逸っている。

街から小屋へ帰ってくる道中も、荷の整理や食事をするときも、片時も鎮まらず心臓が速く打っていた。潜り込んだ寝床でも眠りに落ちるどころか欠伸のひとつも出ず、昼間の光景もちらついて、瞼を閉じておくのが難しいほどだった。

得るものがなくてもともと、けれど、もたらされるものがひとつでもあるとするなら。

時が過ぎるのを待つだけの夜は長すぎて、夜半から仕事をして気を紛らわせつつ、今に至っている。

朝の陽光が木々の隙から届き始め、手元が明るくなったところで、ニレは街に行く支度を始めた。

とにもかくにも、蒼玉の持ち主に会わなくてはいけない。

商売としても、もとの石が砕けてしまった以上、今の枠に別の石を選んで嵌めるか、飾り自体を新調するか、意向を尋ねる必要もあろう。

耳飾りの預かり証に記された名前と居所を頼りに、昨日のうち、トマルが行って石が駄目になったことは説明してくれているはずだ。相手方の都合がついていれば、今日、店で話ができるだろう。

靴紐を締め、外套を羽織る。

秋から冬に向かう時季の森は、木々が葉を落とし始め、陽の光の注ぐまま、白く乾いて明るい。気温がだいぶ低い、外套の襟元を閉じて、喉に沁みる冷たい空気を吸い込む。足元を埋める夥しい枯れ葉を踏み分け、延々と続く木立の合間を進む。

慣れた道、耳に入る自分の足音がいつもより急いでいることに気づき、少し可笑しくなった。早く街に着かねばと焦ることは、これまでになかったように思う。

ニレが街に着いたのは、ちょうどトマルの店が開く時間だった。

「トマル、もう入っていいか?」

「おう、朝からご苦労さん。例の客には昨日あれからすぐに会えたよ。三つ目の路地の宿屋だな。旅の途中でこの街には来たばかりなんだと。用件は簡単に伝えておいた。早いうちから店に来るとさ」

「そうか。手間かけさせて悪かったな」

「依頼主への伝達は店主の仕事だよ。しかしにいさん、よほど急いで来たんだな」

「うん?」

「頬っぺたが真っ赤だ。走るか、急ぎ足か、風に当たってきたんだろ。ひょっとしたら縁者の石かもしれないとなりゃ、そうなるか。まあ、座って待ってな。蒼玉はそこに出してある」

茶を淹れてくるから、そう言ってトマルが店の奥の扉に入っていく。

ニレは椅子をひとつ借りて座り、丸机の上に置かれた小さな布包みを開いた。

砕けて三つの欠片になった蒼玉。

今なお光を通して放つ、夜半に仰ぐ空と同じ、深い、蒼。

果てのないような透明感、一見して格が違うとわかる石はまだ自分では出せたこともない。

砕ける前の輝き、どれほどのものだっただろうか。じっくりと眺めてみたかった。

共に保管されていた石を留めていた金縁も、簡素ながら丁寧に加工されていて、緩やかに蒼玉に寄り添っていた曲線が見てとれる。

もとはどうあったか、ニレは思い浮かべてみようとし、しかし、それはすぐさまに断たれた。

店の表戸に備えられた呼び鈴がりんりんと響き、入り込む外気と共に客人の来訪を知らせてくる。

振り向いた視線の先、ニレは刹那、影が滑り込んできたのかと錯覚した。

黒い髪。痩躯の若い男で、長身に羽織った濃紺の外套、背に受けた陽で増して沈んで見える、まるでひとつの暗がりだ。

「ああ、失礼しました。先客がいるとは思わずに」

「あ……、おれは客じゃないし、店主は奥だ。すぐ戻ると思う」

「もしかして、僕の飾りを見てくれた職人の方ですか」

目が合って、青年が微笑んでくる。温和な声色と物腰、だがそれを少し意外に感じるのは、するりと整った顔立ちの、眼元が一際涼しく鋭利だからかもしれない。

一見は黒炭色の瞳、しかし光の加減で青が刷かれて混じる。

西大陸で生まれ育った者は大半が栗毛や赤毛に緑の眼、海の外から来た者たちなら皆それなりに容姿が多様ではあるが、黒髪に濃い青の虹彩を見るのは初めてだ。

両の耳にいくつか金銀の細い輪飾りを着けている、そのどれかに蒼玉を吊るしていたのだろう。外套の下は着古されてはいるが仕立てのいい清潔な服装で、街や村のちょっと位のいい家柄にいそうな様相だ。

見た目から遊びの旅なのかと思いきや、青年は旅商人をしていると言った。

「シギと申します。石の話は聞いています。ご迷惑をおかけしました」

「いや、こっちは全然、何も。おれは飾り職人のニレ」

「よろしくお見知りおきを」

歩み寄られて差し出された手を、ニレは急いで立って握り返す。

乾いた温かい手のひら、シギから朗らかな笑みを向けられて胸がざわつき、動揺した。

見慣れない眼の色だからだろうか、眼差しに射貫かれるような感覚に陥る。

職人として客がいれば接することもあったが、妙にそわそわする、落ち着かない心地が溢れる寸でのところで、トマルが茶器を盆に載せて戻ってきた。

ニレとシギが並んでいる状況をすぐさま把握し、店主然とした態度になるのは流石だ。

「これは、いらっしゃいませ。お早いお越しで」

「昨日はお手数をおかけしました。つい今、挨拶させてもらったところです」

「私がご紹介すべきところ、席を外していて申し訳ありません。そちらの椅子にどうぞ。お寒かったでしょう、熱いお茶がございますよ」

三人揃ったところで、丸机を囲むように椅子についた。

早速、そうトマルが切り出す。

「お預かりしていた飾りの石、あと金の縁ですな、こちらは一旦、お返しします。昨日お伝えしたとおり、私が最初に拝見したときは砕けるような兆候もなかったと思いましたが……、不思議なこともあるものと」

「本当ですね。僕も驚きました」

「思い入れがおありということでしたな」

「ええ。ここまでの道中、大切な御守だったので」

欠片になった蒼玉と金縁を労わるように手元に寄せ、シギが短く目を伏せる。

その横顔に向けて、ニレは尋ねた。

「その蒼玉は、どこで?」

「ここから見ると南東にあたる大陸、その南端……、故郷なんですが、旅に出るときに街で手に入れたものです。露店といいますか、ここのようにきちんと構えた店ではなくて、行きがかりに見かけまして」

南東大陸。

地図や海図を照らし合わせると、この大陸とは最も離れた場所ともいえる。互いの最短距離を取ろうとしても、ちょうど付近の海域には島国が少なく、補給がまず難しい。船は迂回路を進むことになり、潮流や風向きで長旅が必至となるから、他の大陸と比べても接点が持てず、交易は商業的にも文化的にもまだまだ多くないと聞いている。

ニレは遥か彼方の知らない大陸、道の端でのやりとりを考えてみる。

売り主が先代の可能性はあるのだろうか。それとも、どこかで作られたものがたまたま置かれていただけなのだろうか。

「この石に、何か?」

「あ、……ええと、もともと蒼玉は劈開……割れやすい方向がなくて、黙ってて割れるような石じゃないから」

「加工がしやすい石だと聞きますね」

「だからその……、気になって。こんな稼業だと、『護る者』の貴石の逸話なんか聞いて育ってるんで、特徴が似てるなと」

『護る者』という核心の単語に、トマルが瞬間的に緊張を走らせるのがわかる。

ニレは絶対にそうだと言いきれても、他者に見せることのできる証拠は何もない。

ましてや歴史上でも影の薄い特異者、荒唐無稽だと相手に除けられてもおかしくはなく、そうなったらここでの手がかりが途絶えかねない、一か八かの投げかけ。

けれど意外にも、シギが合点のいったような表情で頷いた。

「僕もその話は知っています。『護る者』の貴石は加護そのもの、役目を終えるときに砕けてしまう。もしそうなら、矛盾はしないかもしれません」

「えっ」

失笑もあり得たところをすんなりと受け入れられ、ニレは図らずも目を見開いてしまう。

するとシギが慌てた素振りで付け加えた。

「この大陸ではあまり知られていないようですが、僕の故郷には、かつて『護る者』が創ったと伝わる石が現存しているんです。大祭の日には宝殿でお披露目されて、平民でも遠目に見られますよ。そういう土地だからか、加護の貴石を謳う細工はあちこちにありまして……、とはいえ、名や証が入れられたものでもないので、どれだけ本物かはわかりませんが」

まさか。

別の大陸に語り継がれるような実物が残っているとは、なんということか。

しかしひょっとすると、以前読んだ書物の、貴石の『護る者』が石を祀ったという祭壇の話は、そこから来ているのかもしれない、と思い至る。たっぷりの逸話がある血筋についてなら創作も混じるだろうが、事実を一言だけ記したような短い説明に偽りを組み込む意味はなかろう。

土地を移ろいながら名も示さず先代が石や飾りを作っていたのだとしたら、その姿はニレの想像に難くない。

祭事に用いられるほどの貴石を生み出しながら、かたや、シギの耳飾りのような庶民の手に届くものを等しく扱い、名声や容姿からではなく人々に知られていた。いかにもありそうではないか。万人に力をひけらかすようなやり方は、やはり好まない血筋なのだ。

トマルも解釈が重なるらしく、ふむふむと聞いている。

「御仁自ら名を広めるようなことはなさらんかった」

「そのようですね。人物についての記録はないと思います」

「だからこそ、知らず石や飾りを手にしていることも稀にあると……素晴らしい幸運だ。それにしても南東の大陸からとは、お若いとはいえ、大層大変だったでしょう」

「ええ。無事に来れたのは、この石があってこそだったのかもしれません」

ふたりの話を耳にしつつ、ニレは思いを馳せてみる。

海の向こう。

自分の血筋にまつわるもの。

黴の臭いさえ消えてしまったような古い伝説ではなく、まだ新しい、次第によっては砕けた蒼玉と同じに直に見ることができるかもしれない可能性が、手を伸べてきている。

諸手を挙げてすぐにでも捕まえたいところ、反面、躊躇もかすかに首をもたげる。

これまでいくつかの国で暮らしてきたが、大陸の外に出たことはなく、選択肢に入れてもこなかった。多少は頑丈な身体があるといえ闇雲にできるほど船旅は楽なものではないだろうし、何よりも、海の外となると知識が全く足りていない。

二の足を踏んで機会を逃すことは絶対にしたくない、だが、まずはそう、情報が要る。

特に、この土地では手に入らない向こうの大陸の文化や逸話、それから今の船旅の事情についても。

茶に口をつけているシギに、ニレは請う。

「南東大陸や船旅のこと、よければ教えてもらっても?」

「さっきのような話ですか?」

「貴石の『護る者』の話は昔から聞いてて本も読んだけど、実物があるなんて知らなかった。もし、見に行こうと思ったら、おれみないな平民でも大丈夫なのかって、興味が、ちょっと」

「ああ、それでしたら勿論。故郷の話を聞いてもらえるのは嬉しいです」

シギが快く返してくれて一安心するも束の間、慌てて制止してきたのはトマルだ。

「おい、に……、ニレさん、ちょっと待った」

得たばかりのわずかな伝承から、世界の真反対にある土地へ赴こうとは普通は考えない。

しかしニレの場合は単なる世間話でなく、本意から出たものであると察知したのだろう。外向きの声色をいくらか上擦らせ、眉を寄せる表情が真剣だ。

「今の今でいきなり何を言い出すかと思えば、途方もないことを」

「その貴石が本物なら行く価値はあるじゃないか」

「それを急だと言ってるんですよ、お越しになったばかりのお客様にお願いまでして」

客人の手前、はっきりした物言いを避けつつも、トマルの困惑しているのがよくわかる。

飛びつくように次の旅の目的地を定めるのはどうかしている、しかも素性の知れない相手に何を言い出すのか、暗にそう訴えてきている。

砕けた蒼玉があり、『護る者』の話を持ち出したのは自分だとしても、正直前のめりな状態で、一見の客の言葉を鵜吞みにするのが危ういことは、ニレも否定できない。

「本当に、南東大陸を目指すというお話なんですか?」

シギもシギで、こちらの会話から単なるお喋りの延長ではないことが伝わったらしい。

先程の快諾からいささか考え込む顔になる、他愛ない郷の紹介をしただけなのに、船に乗り込もうという者がいるのだから無理もない。

促すニレと待ったをかけるトマルに板挟みにされ、ややあって、それなら、と手を挙げてみせてきた。

「僕から、お二人に提案させて下さい」

「提案?」

「お客様が?」

「ええ、どうやら雑談で済む範囲ではないようですから。そうであれば、半端なことをお伝えするわけにもいきません。僕も話の出所としての責任を負いますし、万一、詐欺師扱いされるようなことがあると商売に障りも出ます」

未知の知識を活用しようというなら、求める側と応じる側、双方向の信頼がなければならない。

そしてなるべく正確、かつ、漏れを少なく伝聞するには相応の時間と手間もかかる。

そこで、と続く。

ニレとトマルに、一転、旅商人のそれなのだろう、愛想よくシギが笑んだ。

「雇い主になっていただけませんか? いえ、まずその検討からいかがでしょう。雇用主希望者なら、行商許可をもらうとき僕が提出した証明が登録所で閲覧できるはずですし、手続が通ることでこちらもあなた方を信用できます。誠実なやりとりをできそうだと納得いただいたうえで、僕の話や時間を買って下さい」

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