『ある人形の叙述』

 わたしの人生は、まさしく人形のようだった。



 買ったばかりの、箱の中に丁寧に包装された人形。時折箱の中から出されては、汚れを拭かれ、整えられ、そしてまた同じように包装され、箱の中にしまわれる。



 わたしは人形。



 小さなドールハウスの中に敷き詰められた、雑多な人形の中の一つ。



 飽きたら捨てる。そしてまたぞろは新しい人形を作るだろう。自分の欲求を満たすその時まで。同じことの繰り返し。









 馬鹿みたい。





 ■




 鳳凰院千歳。鳳凰院コーポレーションの一人娘。



 風にたなびく髪は雄大な空そのもので、深い青の瞳は未知なる深海の如く妖しく、白く艶やかな肌は磨き抜かれた大理石であり、その顔は職人が丹精込めて作り上げた最高品質の人形ラグドールのよう。



 飽きるほど聞かされた、美辞麗句。



 どいつもこいつもわたしの上辺だけを見て吐き出される薄っぺらい言葉の数々。



 わたしを通じて父に取り入ろうと送り付けられる人形。人形。人形。



 そんな物いらない!そんな言葉いらない!



 わたしはただ、年相応な幸せが欲しかった。



 友達がいて、夕暮れまで遊び惚け、くたくたになった体を引きずって、ドアを開けるのが楽しみな家の中へと入り、笑顔で私を迎え入れてくれる母を、厳しくも温かく見守ってくれる父が、欲しかった。



 それだけなのに!



 どうして誰も私を見てくれないの?どうしてお父様の事しか見てくれないの?



 わたしはここにいる!ここにいるんだ!



 どれだけ声を嗄らして叫んでも、わたしの願いが天に聞き届けられたことは無かった。顧みられたことなど無かった。



 ただの一度も、わたしは神の慈悲というものを与えられなかった。



 産まれた時から、その瞬間から、わたしは父の人形となる事を宿命づけられた。



 わたしは誰からも温もりを、愛を、優しさというものを与えられてこなかった。



 母はいない。わたしを生んだ時に死んだからだ。尤もいたところで、今と大した違いは無いだろう。



 父はわたしを愛すべき娘としてではなく、自分の欲求を満たすそれだけのために、ただ利用するためだけに産み落とした。



 温もりの代わりに、服を与えられた。愛の代わりに、人形を与えられた。優しさの代わりに、命令を与えられた。



 物心ついた時からだ。



 はじめの頃は駄々をこねたものだ。連れだされた外で何かと理由をつけて逃げ去り、付き人を困らせた事もあった。注目が欲しかった。もしかしたら父がわたしを見咎め、父親らしく叱ってくれるのではないかと期待した事もあった。



 しかし、どれだけわがままを言おうが、駄々をこねようが、父はわたしを見る目を変えることは無かった。怒鳴りつける事も無かった。ただ淡々と、やるべき事をやれと、無感情に繰り返すだけだった。




 駄々をこねたところで無駄だと分かったわたしは、やりたくもない習い事を、着たくもない服を、行きたくない場所へと、ただ言われるがままにわたしは実行し続けた。



 辛くても、わたしは従い続けた。その先に、愛が与えられるかもしれないという一縷の望みを託して。




 だが一向に父は私に愛を向けず、それどころか日に日に与えられる指令は重く、多くなってゆく。



 まだこの世に生れ落ちてから5年しか経っていないのに、わたしの心はもうすでに人形の様に冷たく、無機質になりかけていた。



 押しかかる父からのプレッシャーに、愛が与えられることが無いという事実に、生贄でしかない事に、わたしは気が狂いそうだった。



 幼心ながら私は無意識の内に悟っていた。このままいけば、いずれ本当に無味乾燥な、意思なき肉人形へと成り果てると。わたしのをする使用人たちのように。



 疲れていた。いっそ全てを手放し、使用人と同じように自我を剝奪され、命令をこなすだけの人形に成り果ててしまおうかと、本気で考えていた。



 そんな時だった。悪魔がわたしの前に、姿を現したのは。



 はじめて悪魔と出会った時の事は、よく覚えている。忘れたくても忘れられない。



 その日はいつもと変わらぬ朝だった。決められた時間に起こされ、決められた時間に朝食を食べ、決められた時間に父からの指令を受ける。



 違ったのは、指令の内容に、聴き慣れない単語が入っていた事だった。



『これからお前の所にを送る。いずれお前と共に『器』にする予定の物だ。互いの事を知り、誤差を無くせ。まったく同じになれ。質の良い器となるべし。『神』はそれをお望みだ』



 以上だ。



 そう言って、通話は一方的に打ち切られた。



 受話器を手にしたまま、わたしは、たった今父から与えられた言葉の意味を吟味すべく、しばらくの間佇んでいた。



 幼いわたしなりに考えた。



 器の意味は分かる。生まれた時から耳にタコができるほど言い続けられたことだ。では、わたしの模造品とはどういうことだ?



 その単語が意味するものとは?いったい何が送られてくるというのか?誤差を無くせとは?どうすればいいのか?そもそも何でわたしがそんな事をしなければならないのか?



 得体の知れない恐怖が、わたしを襲った。



 この怖れを、誰かに相談したかった。共有してほしかった。だが、わたしを慰めてくれる者はいない。相談に乗ってくれる者はいない。心配する者はいない。



 あるのは人形だけ。熱の伴わぬ人形と、物言わぬ使用人だけが、わたしの世界の全てだった。



 だからわたしは、縮こまる事しかできなかった。未知へ対処する術を持たぬわたしは、ただぬいぐるみを抱きしめて、人形で身を鎧い、嵐をやり過ごすかのように、ただ部屋の隅で小さくなるしかなかった。



 虚無のような時間だった。わたしの息遣い以外、この空間に音を発するものは何もなく、無機質な人形たちの視線が全てただわたし一人に注がれる。



 怖ろしかった。憎かった。この人形たちが。上辺だけの醜い権力者たちの全てが。父が!神が!何もかもが!



 だが、これから訪れる未知は、もっと怖かった。憎んで仕方が無かった人形が、この時ばかりは夜道に光る街灯のように頼もしかった。そして頼もしさを感じる自分を、死ぬほど恨めしいと思った。



 どれだけそうしていただろうか。時計など見ていない。見れない。そんな余裕はない。



 不安は時が刻むごとに跳ね上がり、心臓が鼓動を刻むごとにわたしの怖れは膨れ上がった。



 やがて、その時は来た。扉が外側から押し開けられたのだ。わたしは息を呑んだ。そして、入ってきた者を見て、呼吸は止まった。情景が消し飛び、わたしの視界には入ってきた者の姿だけがあった。



 最初は鏡でも持ち運ばれたのかと思った。だって、それは、毎朝鏡の前で見る、姿形と、全く同じものであったからだ。



 風にたなびく髪は雄大な空そのもので、深い青の瞳は未知なる深海の如く妖しく、白く艶やかな肌は磨き抜かれた大理石であり、その顔は職人が丹精込めて作り上げた最高品質の人形ラグドールのよう。



 散々聞かされた美辞麗句が、わたしの脳裏に反響した。



 同じ容姿。同じ体格。同じ服装。同じ顔。



 わたしの思い描く悪夢がそのまま具現化したかのような存在が、ゆっくりと、しかし着実に、わたしとの距離を縮めてきた。



 わたしは、動けなかった。まったく同じものへの恐怖で、理解できない事への拒絶で。



 不意に、鏡像は歩みを止め、こちらの様子を窺うようにじっとわたしを見つめた。



 同じ容姿。同じ体格。同じ服装。同じ顔。



 深い青色の瞳には何の感情も浮かんではおらず、その胸中で思っている事など推し測る事さえできない。



 気が付けばわたしは衝動のままに力を、『破壊』を叩きつけていた。



 消えて!いなくなって!わたしをこれ以上恐がらせないで!もうやめて!お願いだから!



 しかし、鏡像は消えず、影は消えず。



 わたしの抵抗など、それこそ微風の様にかわされ、気が付けば鏡像はわたしの目と鼻の先にいた。



 同じ容姿。同じ体格。同じ服装。同じ顔。



 わたしは目の前の鏡像から目を離せなかった。互いの息遣いが聞こえるほどの距離で、わたしと鏡像は見つめ合った。



 鏡像は何か言っているようだったが、わたしの耳には入っては来なかった。



 同じ容姿。同じ体格。同じ服装。同じ顔。



 しかし、これだけ長く見つめていれば差異が嫌でも目についた。目の前の存在とわたしには決定的な違いがあった。



 それは、愛されたことのある者特有の、他者への思いやりと、同情。



 この目の前に映る『わたし』は、わたしと違って誰かに愛され、また愛する事を知っている者であった。



 そう悟った時、胸の内で暗い感情が爆発した。



 ふざけるな!何が同じものになれだ!何がわたしの紛い物だ!こいつはわたしの知らない愛を知っている!こいつはわたしと違って誰かを愛している!わたしと同じ容姿の癖に!わたしと同じ顔の癖に!わたしと同じ人形の癖に!



 紛い物イミテーションだと?



 ふざけるな!こいつには欠落が無い!こいつの心には穴が開いていない!



 こいつは、わたしと違って、瑕疵が無い、新品の人形。



 ならば真の紛い物とは…?人形は…変わりとは…?



 わたしは…?



 不意に、わたしは全てを悟った。



 飽きたら捨てる。そしてまた、同じように新たなる人形を、父は作り出すだろう。まったく同じことの繰り返し。



 全く同じ容姿。全く同じ体格。全く同じ服装。全く同じ顔。そして、欠落の無い心。



 飽きるほど思い描いた悪夢。否定し続けた空想が、何の前触れもなく私の目の前に現れた。



 わたしは笑った。狂気への谷の底が、目に見えるようだった。



 もういいかなって。そう思った。



 もういいだろう。疲れてしまった。



 わたしは狂気への谷へ、一歩踏み出した。あれだけ躊躇っていた脚は、驚くほど呆気なく前へと一歩踏み出した。吹っ切れてしまえば、後は簡単だった。



 眼前に深い虚ろが見える。踏み出せば二度と這い上がれないだろう。その代わり、もう二度とこのような事で心を煩わせることも無くなるのだ。



 それでいい。どうでもいい。









 ――――――もういや。









「改めて、これからよろしくお願いします」



 鈴の音のような声が、放心し、自暴自棄になっていたわたしの鼓膜を震わせ、脳の奥へと浸透した。



 狂気の崖は消え失せ、目の前に、同じ容姿。同じ体格。同じ服装。同じ顔の、わたしと同じようで、違う存在が、視界一杯に広がった。



 ―――あぁそうか。



 幼く、察しの悪かったわたしは、ようやく目の前の存在が何者であるのかを悟った。



 本で何度も読んだ。あまりにもありふれた一フレーズ。打ちのめされ、どん底に落ちた者の目の前に唐突に現れ、糖蜜のような甘言で人を狂わせる者を。邪悪な助言者を。手を差し伸べる者を。



『悪魔』のあどけない顔立ちは、わたしが決して浮かべる事のできない柔和な笑みで彩られている。



『悪魔』の発する言葉は、わたしの耳からするりと入り込み、欠落した心の大穴に、蠟でできた蓋をはめ込んで補った。



 掌に広がる温もりは、わたしがずっと求め続け、しかし決して手に入らなかった他者からの優しさであった。



 同じ容姿。同じ体格。同じ服装。同じ顔の、わたしと同じようで、違う存在。受け答えが出来るだけの人形ではなく、血肉を備え、こちらの一挙手一投足に気を使い、愛を与えてくれる他者。



 ずっと求めて止まなかった物が、手に入った。入ってしまった。



 わたしの下にいる事を甘んじて受け入れる悪魔を見下ろす。悪魔は相も変わらず柔らかな笑みを浮かべるだけで、それ以外の行動を起こさなかった。



 ぞくりと背筋が粟立った。全てを投げ出しそうになっていた矢先に唐突に現れた、あまりにも都合のよすぎる存在に、残っていた理性が働きわたしは反射的に顔を逸らした。



 このまま直視していれば魅入られてしまう。そう本能が悟って。



 悪魔に魅入られた者の末路は破滅するのみで、わたしは決して、この悪魔の誘惑に乗ってはならないと、この時に心の中で硬く誓った。誓った…そのはずだったのに!



 無理だった!不可能だった!



 ずっと求めていた温もりが!ずっと求めていた優しさが!愛が!こんなにも心地よく、こんなにも恐ろしい物だったなんて知らなかった!



 たった数日離れただけで気が狂うほどの欠落に襲われるなどと、知る訳が無いでしょう!生まれて初めての温もりだった!生まれて初めて他者との会話が楽しいと思った!



 それを手放すなど、できるものか!



 だから私はお前の事が嫌いなのだ!



 よくもわたしに愛を教えたな!よくもわたしに会話をすることの楽しさを教えたな!よくもわたしに他者の温もりの心地良さを教えたな!



 よくも、よくも…わたしに、自分がという事を教えたな!



 許さない!許さない!



 延々の虚無の只中で手を引くお前が!父が、魔王が、その幹部共が、そして『神』の前に守るように立つお前が!わたしの腕の中で眠るお前が!



 憎い!憎い!



 友人の様にわたしを気遣う柔らかな笑みが!蹲るわたしを父親の様に撫でる掌の暖かな熱が!泣き叫ぶわたしを母親の様に抱きしめるお前が!わたしの前に立って先へ行くお前が!



 お前の全てが!何もかもが!









 ――――――お前なんか大嫌いだ!



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