『ディープ・イン・ザ・アビス』③

 瞼を閉じた視界一杯に、闇が広がる。この世界にあって自由に操れる、数少ない自分だけの闇。



 その只中で、息を深々と吸い、肺の中にたまった空気を意識しながら、息を止める。



 そして、長く吐きだす。音をたてて、ゆっくりと。



 これを、何度も繰り返す。己の心臓が落ち着きを取り戻すまで。ざわついた心が凪を取り戻すまで、延々と。



 限られた少ない時間の中で、何十、何百と呼吸を重ねる。



 息を深々と吸い、肺の中にたまった空気を意識しながら、息を止める。そして、

 長く吐きだす。音をたてて、ゆっくりと。



も同調し、呼吸を重ねてゆく。



 無限の闇の中、二つの呼吸音だけが規則的に響いていた。



 やがて、イミテーションの鼓動は落ち着きを取り戻し、吹き荒れていた心は凪を取り戻していた。



 幾百の呼吸と、今まで受けた幾千の苦難の記憶が、これから踏み入れる領域を受け入れる心構えを助けた。……諦めがついたと、言うべきかもしれない。



 閉じていた瞼を開ける。開け放たれた視界一杯に、闇が広がる。



 この世にあって、決して自由にできない闇。何人も立ち入る事を許されない深淵。不特定多数の誰かと同じように、彼らを飲み込み、胃袋へと送り、消化しようとしている。



 一寸先すら見通せない極限の闇の只中で、二人は抗う。呼吸を重ね、互いの鼓動を確かめ合い、吹き荒れる嵐に死に物狂いで舵を取る小型船めいて、空虚と悪意に塗りつぶされないように死に物狂いで自らの存在を主張し続けた。



 俺はここにいるぞ! /私はここにいるよ! 



 より深い闇の中へと、歩き進む。



 忘れてくれるな! /どうか忘れないで! 



 一歩踏み出すごとに、足は鉛のように重くなった。



 俺を! /私を! 



 地獄が近づく。魔物たちの息遣いが聞こえてくるようだ。



 どうか……/どうか……









 どれだけの時間歩いていたのだろうか。



 時間の感覚が曖昧になっていた。それどころか自分が真っすぐ進んでいるのか、それとも後退しているのかも定かではない。



 今は何時だろうか? 



 一向に晴れない視界の中で、イミテーションはぼんやりとした頭で考えた。



 陽が沈み、イミテーションは千歳の部屋で彼女と同じ服装で迎えが来るまで待機していた。そして時計の長針と短針が両方とも12に合わさった瞬間に、足元の影が飛び出して風呂敷めいて2人を包み込んだ。



 そして、気が付けば二人はこの暗黒の空間へと投げ出されていたのだった。



 当然千歳はパニックに陥り始めたが、イミテーションはこの場所が何処かすぐに察しがついたため、内心で動揺こそすれ千歳の手を引いて動くことができたのだった。



 初めの内は千歳の口から罵詈雑言が飛んできたものだが、この圧倒的なまでの闇は彼女のささくれだった心などたちまちの内に飲み込み、今はこの只中でただ一つ確かな温もりに縋りつくように無言だった。



 あれからどれだけ経ったのか。確かめる術はない。



 忍ばせていた懐中電灯も、マッチの火も、つけたそばから消えてしまい、自分如きの儚い抵抗など、この暗闇の中では無意味なのだと、後ろ指を指されて嘲笑われている気になった。



 何処からともなく幻聴が聞こえた。黒い虚無が、心の奥底に溜まった淀みを浮き上がらせた。



 〝お前の抵抗は無意味だぜ。見ろこの無限に広がる暗闇を。これはお前の未来の景色さ〟



 黒い闇がせせら笑った。



 〝未来に光があるなんて思うなよ。お前の行く末なんてこの暗闇と同じどぶ底だけさ〟



 健太郎は奥歯を噛みしめた。



((黙れ!))



 彼は闇を振り払った。虚ろ色の闇はゴボゴボと音をたてて沈んでいった。



 イミテーションは頭を振るった。幻聴だ。まやかしだ。未来は必ずしもそうなるとは限らない。彼は自らを地獄の池に身を沈めたのだから。



 彼は抗った。



 抗い、歩き、歩き、そして歩き、歩き続けた。



 どれだけ歩いた。1キロ? 10キロ? それとも進んですらいないのか? 



 そもそもどこへ向かって歩いている? 北か? 南か? 東? それとも西か? 



 時間は? 12時にここへ連れてこられてどれだけの時間が経ったのか? 



 時間も、空間も、方向も、、曖昧になりかけていた。ただ一つ確かなのは、握り締められた掌から広がる冷め切った熱と、痛いくらいに握られた感触だけ。



 それだけを頼りに、朧な意識をかろうじて繋ぎ止めながら、ただ歩を進める。



 イミテーションは己を強いて言い聞かせた。これは奴らの策略だと。こうやって心身ともに衰弱させ、疲弊した精神に付け込んで俺たちを悪の道へと進ませようとしているのだと。



((ファック、ざっけんな!))



 歩き続けながら、イミテーションは己を鼓舞し続けた。心が萎えて屈しそうになったら、その都度今までの所業を脳裏に思い浮かべ、憤怒の炎へと薪をくべ続けた。



 反骨リヴェリオン! 



 イミテーションは疲弊していた。しかし決して折れはしなかった。屈しはしなかった。



 深い青の瞳には決して消えない反骨の炎が、あたかも鞴で風を送られた炉のように轟々と燃えていた。



 憎悪と憤怒の薪は尽きる事なくくべられ続ける。



 打ち据えられた屈辱が、痛みつけられた苦痛が、屈服を強いられた憤怒が、彼の心に金槌めいて何度も何度も叩きつけられた。



 叩きつけられるたびに心から不純なものが消え去り、よりシンプルに、より鋭敏に、鍛え抜かれた刀のように引き締まった。



 あとに残されたのは、闇に濾過され、純粋となった、決して折れる事の無い一本の刀があった。



 イミテーションの中の闇は、消えたわけではない。だが『無限の闇』が阻もうとも、『無限の光』が焼こうとも、『無限の混沌』が飲み込もうとも、『黄金の威容』であろうとも、彼の闇は決して染まることは無いだろう。



 最早彼はこれから先どのような状況に陥ろうとも、



 健太郎は疲弊していた。だが負けはしなかった。



 やがて、闇を切り払い抜けた先に、黒紫色の怪しい光が、さながら暗黒の海を渡り抜けた先に見出した灯台の光りめいて鮮烈に閃いた。



 だが、その光は安堵をもたらす人の灯した光りでは無かった。



 引き返そうとする己を叱咤し、奥の歯を割れ砕けんばかりに噛みしめながら、イミテーションは歩を進めた。



 そして、ついに二人は鍾乳洞を彷彿とさせる洞窟の最奥へとたどり着いた。



 天井には真っ黒な地球儀めいたものが四方八方から伸びた鎖でつるされており、洞窟の奥にあった祭壇の傍らには背の高い鎧姿の魔王が、そしてそのやや前に黒いローブ姿の幹部4人が、鳳凰院社長が、彼らを待っていた。



「来たか」



 鳳凰院社長が無感情に言った。



「早く来い。『神』を待たせてはならぬ」



 ぞっとするほどの冷たい声で、父は娘に促した。



「──―はい、お父様」



 父に負けず劣らずの冷たい声が、後ろから聞こえた。イミテーションは振り返って見た。北国の氷河めいて冷え切った顔をした千歳を。人形のように表情を凍らせた哀れな娘を。



 イミテーションは千歳の手を引いて、前へ出た。



 4人の幹部の前を通り過ぎ、その凝視を背に受けながら、魔王の前に立った。



「来たな」



 魔王は前に立った哀れな贄にいささかの感情も持たず、ただ淡々と事を始めた。全ては仕える主のために。



「では儀式を始める」



 魔王がそう告げた瞬間に、天井に吊るされた黒い球体の中心にぎょろりとした一つ目が現れた。



 途端に彼らを襲ったのは、空が落ちてきたが如き重圧。



 千歳は堪らず両膝をついた。イミテーションは歯を食いしばり、目を剥きながら、膝をがくがくと震わせながらも決して跪くことなく、抗った。



 黒き神は、魔王は、4人の幹部たちは、鳳凰院社長は、その様を眉一つ動かす事無くただ見ていた。



 贄に過ぎない羊の子供が不遜にも膝をつかずに睨み据えようとも、所詮は取るに足らない虫けらの儚い抵抗でしかない。強大な力を持つ彼らにとって、この行為は何ら恐れるべきことでは無かった。



((畜生舐めやがって!))



 イミテーションは心中で吠えた。



((虫かなんかだと思ってんだろう? 家畜としか思っていないんだろう?))



 健太郎の眼光が憤怒に燃えた。



((見ていろ! テメェらただじゃ済まさねえ! 絶対に報復してやるからな!))



 緩慢な動作で、イミテーションはゆっくりと顔を上げた。そして、傲慢にも見下ろす神をあらん限りの憎悪と憤怒に燃える瞳で睨みつけた。



((……))



 神は虫けらの凝視を受けても何一つ反応を示す事無く彼等へと『枝』を伸ばした。



『枝』は彼らの眼前へと至った瞬間に膨れ上がり、2人に反応すら許す間もなく包み込んだ。





 ■





 イミテーションは闇の中に己を見出した。そして握り締められた掌の強張った感触から千歳を見出した。



「はあ……はぁ……!」



 千歳は酷く憔悴していた。無理もない。あれほど巨大な思念に晒されれば、例えどれだけ精神を強く持とうとも屈してしまうものだ。



 イミテーションは後方に振り返り、屈み込み、握り締められた掌の感触を頼りに千歳の体を見出し、もう片方の手で抱きしめた。



 びくりと体が震えた。



「もう少しだけ、こうしていましょうか」



 いつかのその日に言った言葉が、再び千歳の耳の中へと吸い込まれていった。



 瞬間、千歳の心はほんの一時だけあの日に、初めてイミテーションとであった日へと戻っていた



 あの日からたくさんの事が変わっていった。たくさんの物が失われていった。変わりゆく度に千歳は深い悲しみに見舞われた。失われていく度に、千歳は激しい怒りを抱いた。



 心のうろは日々を重ねるにつれて少しずつ広がっていった。虚ろに空いた心の穴にの奥底には、ワイン樽に溜まる澱めいて、怒りと憎しみと寂しさが淀んでいた。



 だがその声は、その声色は、あの日から何も変わることなく全く同じ響で、千歳の心の隙間からするりと入り込んできた。



 入り込んだ甘ったるい優しさは、虚ろに淀んだ憎しみと怒りと悲しみの沼に落ち、大樹が大地に根を張るが如く、深く深く彼女の心の奥底に楔めいて突き刺さった。



 あの悪魔のような穏やかで安心するこの声を、千歳は心の底から憎んで渇望していた。



「大丈夫です。ここに、あなたを脅かすものは何も無い」



 悪魔は感触を頼りに千歳の頭の位置を予測し、抱きしめる姿勢を変え自らの胸に千歳の頭を押し当てた。



 幼子は悪魔の鼓動の音を確かに聞いた。フラットで、変わらず、このような状況下にあってなお一定に刻む心の蔵の音を。



 無論イミテーションとてその心中は酷く動揺していた。しかし、尋常ならざる身体制御術によって心臓の動きを抑え込み、あたかも何ら動じていないように見せかけているのである。



 当然千歳はその暗黒の事実を知らない。しかし、世の中には知らなくてもよい真実が、確実に存在するのである。



「……もういいわ。放せ」

「そうですか?」

「同じことを言わせるな」

「そうですか」



 温もりは失せ、感触は近く、遠くへと離れていった。



「──―あ」



 千歳は無意識の内に手を伸ばしていた。その手に再び熱が灯った。



「……やっぱり」



 手を引きながら、先行して歩くイミテーションに、千歳は小さな声で呪詛を吐く。



「私はお前が嫌いだ」

「そうですか」



 千歳とイミテーションは横に並んで歩を進めた。固く握られた手はきつく、決して離さないとばかりに握りこむ力は強まった。



「お父様も、我が主も、使用人にんぎょうたちも、あのいけ好かない魔王も、気色悪い幹部たちも、闇の者も黒い者も、……お前なんか大っ嫌いだ」

「そうですか」



 目の前に、闇にの中にあってなお黒く、暗く、邪悪な力を放出する『欠片』が現れた。その前に、同じ格好、同じ体格、同じ背丈、同じ顔の2人の生贄が並び立つ。



「お前は何だ」

「私は貴方様の紛い物イミテーション

「そうだ、お前は私の紛い物」



『欠片』が、闇が迫る。世界が終わる。



「お前は私がいて、初めてこの世界に意味を持つ」

「そうですね」

「お前は私の影」



 握りつぶさんばかりに手をつなぐ。



が消えない限り、影は消えない」

「……」

「死が二人を分かつまで、お前は私の物だ」



『欠片』はついに二人の目と鼻の先まで迫り、2つに分かれ、胸の内へとゆっくりと吸い込まれていった。



 その瞬間、イミテーションの目がギラリと光った。



 イミテーションは己の意識を全集中させ、胸のど真ん中、心臓に宿ろうとする闇を拒絶した。



 途端に全身を、細胞を、原子に至るすべての構成要素を揺らがすほどの激痛が走った。



 未だかつてない程の痛みに、思考が白く消し飛ぶ。しかし、イミテーションは決して意識を手放しはしなかった。尋常ならざる意志の力によって、闇が緩慢な動作で移動を開始した。



 心臓を逸れ、道中にある骨や血管を押しのけ、尋常ならざる痛みと引き換えに、紛い物は本来なら心臓に宿る筈の『欠片』を、みごと右の肺へと移すことに成功した。



 自分と千歳は繋がっている。己と彼女が繋がっているならば、こちらが位置を変えれば向こうも同じように宿る位置が変わるのではないか? 



 そのような予測、あまりにもか細い可能性に、健太郎は全てを賭けた。



 そしてその試みは成功した。千歳は己の左胸を押さえた。左肺に宿った『欠片』のぞっとするような力に戦慄した。



 滝のような汗を流す千歳に、再び寄り添おうとしたイミテーションだったが、第一関門をようやく突破できた安堵からか、痛みから解放された反動か、意識は急速に失われつつあった。



((くそ……せめて……手だけでも……!))



 イミテーションは手を伸ばした。少しでも安心させるために。これから彼女が送る地獄の如き日々に対する、激励の言葉を送るために。



 熱の失せたその掌に熱が灯った。



 途端に押し付けられる柔らかな感触。鼻腔に広がる花のような香り。



「お前は、私の物だ」



 千歳は健太郎の頭をきつく抱きしめた。



「私の、私だけの──―」



 薄れゆく意識の中、健太郎は確かに聞いた。少女の祈りを。愛を渇望する、幼子の悲壮なる嘆きを。



 イミテーションの意識は闇に落ちた。完全に脱力し、体を預けるイミテーションに千歳は何を思うのだろうか。



 さらさらと流れるイミテーションの髪をゆっくりと撫でると、千歳は目を閉じ、そのまま、もつれ合うように倒れた。



 眼下に闇が広がる。自分だけの闇が。この世界にあって自由に操れる、数少ない自分だけの闇が。



 生贄が倒れ伏して程なくして、覆っていた闇は雲散した。



 闇が晴れた先は、見慣れた箱庭の中であった。



 祭壇も、神も、魔王も、4人の幹部たちも、鳳凰院社長も夢幻の如く跡形もなく消え去っていた。今までの出来事が白昼夢だったかのように、2人は何事も無く元居た場所へと戻っていた。



 しかし、その内側には、確かに闇がその勢力の枝葉を伸ばしつつあった。じわり、じわりと、浸食は進んでゆく。



 冷たく、熱の籠っていない、箱庭の中で、2人の生贄は倒れていた。互いに縋りつくように。決して離れぬ影と実像のように。



 儀式は成った。



 地獄はより一層深く、暗くなるであろう。



 しかし、例え魔物の顎が死の運命を運んできたとしても、この2人が、離れることは決して無いであろう。



 離れがたく、分かち難い。決して血の繋がりばかりが、人を繋ぐ鎖でないように、執着と、罪悪感という名の鎖が、2人の首にはきつく巻き付いていた。



 鎖は肉に、骨に深く食い込んだ。もはや剥がし取る事は出来ないだろう。



 二人はいつまででも一緒である。互いが死にゆく、その時まで。









 プロローグ カオス・スペース0『イミテーション・ビギニング』 終わり



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