第13話 最終回 下

 翌日も、はるはお床入りを言い渡された。


 かいがいしく世話をしてくれるさちは、はるが忠興にようやく気に入られたと喜んでいる。


「昨夜に続けて今宵も……。忠興さまは、てる姫さまの良さがおわかりになられたようですね」

 もし、忠興の寝所で、はるがすることを知ったら、さちはなんと言うだろうか。

 普通、戦の前にお床入りはさせないものだ。すでに陣触(じんぶれ)は行われている。戦の前に女は不浄として遠ざけられるのだ。

 それを、あえて、忠興は寝所にはるを呼んだ。

 奥では、てる姫のお床入りの話で持ちきりのようだった。無理もない。禁忌を破る行為を、忠興自らが実行しようとしているのだ。


 さちによれば、杉殿が特別騒ぎ立てているという。

「てる姫さまへのご寵愛が気に入らないんですよ」

 さちはそう腹を立てたが、杉殿も、はるが呼ばれる意味を知ったら納得してくれるのではないか。


 昨夜に続いて、はるが寝所に呼ばれたのは、明日の出陣の評議をするためだった。昨夜、忠興は眠りに落ちる前、言った。

「表では評議を重ねておるが、わしが出陣せぬことは伝えておらん。国見城を落とすにあたり、おぬしが知っておくべきことを話したい」

 国見城は、かつてはるが仕えた城だが、はるが知っているのは、裏方ばかり。国見城を守る陣の、どこが強くどこが崩れ易いかは、わからない。

 おそらく忠興は、そういったことを話してくれるつもりなのだろう。


 夜が更けた。寝所へ入る準備が整い、さちが下がったあと、はるは寝所への付き添いの侍女の到着を待った。


 城では、明日の出陣を控え、物音が絶えなかった。曲輪を上がってくる兵糧を詰んだ荷駄の音や、怒鳴り合うように聞こえる人々の話声。

 この押野城での暮らしも、今日が最後となるだろう。偽てる姫として祝言をあげてからの日々が、鮮やかに蘇った。偽と知られないか、怯えていたこと。刺客に襲われ無我夢中で倒したこと。

 何より、口が利けないのが辛かった。姫としての暮らしは窮屈なばかりで手放しても惜しくはないが、さちと別れるのがさびしい。もとの下働きの女として、さちに会いたくなかった。さちに嘘をついていたと思われるのが嫌だ。

 思いは乱れて、ふと気づくと、物音が途絶えていた。


 寝所へ付き添う侍女は、いつ来るのだろう。口が利けないために、人を呼ぶわけにもいかない。

 はるは立ち上がって廊下へ出た。忠興は待っているに違いない。今宵は大切な話があるはずだ。だからこそ呼ばれた。どうしても行かなくては。

 

 廊下はしんと静まりかえっていた。明日の準備をひととおり終えた者たちが、しばしの休息を取っているのかもしれない。

 庭に面した廊下へ出た。いつもは薄暗い庭に、今宵は、たくさんの篝火が焚かれている。城が戦に備えて、目を開けているかに思える。

 寝所の控えの間まで、はるはすぐにたどり着けるはずだった。ところが、庭が終わり、篝火が途絶えた場所で、行く手を塞がれてしまった。


 人が倒れている。頭を向こうに向けて、廊下を横切るように倒れている。


 どうしたのだろう。

 はるは用心しながら近づいていった。


「……これは」

 倒れていたのは、寝所に付き添うはずの侍女だった。うつ伏せた顔の床に、黒い染みができている。血のようだ。

 顔を近づけると、侍女からは嫌な臭いがした。どうやら毒を飲まされたようだ。

 刺客か。

 はるの体に緊張が走った。さっと辺りを伺う。

 曲者の気配はない。


 控えの間に着いたはるは、そっと襖を開けた。

 中は薄暗かった。部屋の隅に手燭の皿が置かれているのが見える。

 と、人の気配がした。

「あっ」

 白い小袖を着た女だ。長い垂れ髪が、生き物のように女の胸の前でうねっている。

 俯いているため、顔は見えない。だが、この部屋で、白い小袖を着ているということは。

 藤子姫か?。

 はるは慄いた。

 藤子姫の亡霊が忠興の寝所へ入るために、ここで控えているのか?


 腰を抜かしそうになりながら、どうにか襖に寄りかかって体を支えた。足が震える。呻き声が漏れそうになる。

 そのとき、白い女が顔を上げた。面を付けている。面頬だった。夜半過ぎに厠へ起きた際に見た、物の怪がかぶっていた面。


 女ははるに飛びかかってくると、短刀を振りかざした。


「やっ」


 はるは身を躱し、女の背後へ回った。すぐさま女は振り返り、両手で握った短刀を、はるをめがけて突き進んでくる。

 高堂様が寄越した刺客に比べれば、たやすい相手だ。だが、女の腕を振り払おうとしたはるの集中力が、瞬間鈍った。


 鼻先を、覚えのある香りがかすめたのだ。


 柊だ。この香りは、蔵で嗅いだのと同じ柊の香り。

 てる姫さま。


 女は短刀を拾い、隙ができたはるに襲いかかってきた。

「あうっ」

 はるの右袖が破られ、刃が肘をかすめた。前のめりになった女の襟元を掴み、床に倒す。

はるは短刀を奪った。その手で、女の脇を刺す。

「ぎゃああ」

 女の叫び声とともに、脇腹に血が滲み始めた。


 この女は、物の怪などではない。

 白い召し物に広がる赤い血を認めて、はるは我に返った。


 物の怪ではないなら、誰だ?


 はるは短刀で、女がかぶった面頬を叩き割った。


 「……杉殿」

  鶴に似た白い顔が現れた。藤子姫付きの侍女、杉殿だった。

 


 騒然となった城の収集をはかったのは、忠興だった。

 忠興が内密に手配した者たちで、手早く侍女と杉殿の骸は片付けられ、たずさわった者には箝口令が敷かれた。


 今、はるはあらためて忠興の寝所に呼ばれている。

 時刻は、もう、子の刻に近かった。

 

 寝所に入ると、すぐに目に付いたのは、膨らんだ夜着だった。行灯の火が、黒く膨らんだ影をいっそう暗く見せている。

「来たか」

 夜着の中からくぐもった声が聞こえた。声音に、力がない。忠興の病は、相当悪いのかもしれない。

「近う」

 はるは膝を進め、忠興の枕の横に座った。


「また一人、おぬしに倒されたな」

 はるは返事をせず、ただ俯いた。やはり、忠興は知っていたのだ。

 はるが控えの間にいたとは誰も知らない。さちなどは、自分の部屋に戻っていたはるを見て、

「よくご無事で」

と、床にしゃがみこんでしまったほどだ。

 それなのに、忠興は知っていた。

「なぜ、わたくしが倒したと思うのですか」

「ほかの者なら、すぐに人を呼んだであろう。静かに戦うのは、おぬしだけだ。なに、高堂が寄越したいままでの刺客に比べれば、気のふれた杉など倒すのはたやすかったのであろう」

 

 はるは忠興の落ち着きがおもしろくなかった。城では、口を利いてはいけないのだから、呼びたくても呼べなかったとは思わないのだろうか。物の怪と思っていたときは、心底肝が冷えたというのに。


「あの杉という侍女は、藤子姫が死んで以来、少しずつ心を病んでいった。哀れなやつであったから、里へは帰さなかったのだが」

「なぜ、侍女に毒を盛ったのでしょう」

「控えの間でおぬしを待つには、侍女がいては邪魔であったのだろう。杉はおぬしを殺すつもりであそこにいたのだ」

 はるは頷いた。杉殿の狂気は本物だった。


「ですが、はじめは、物の怪だと思いました」

「物の怪とな」

 忠興は夜着の中で、くくくと笑い声を漏らした。

「おぬしのように強い女子でも、物の怪に怯えるか」

「てる姫さまの亡霊だと思ったのです」

「てる姫の」

「はい。控えの間にいた杉殿からは、てる姫さまのお好きな柊の香りがいたしました。それで、てる姫さまがわたくしを恨んであの世からやって来たのかと」

「柊」

 忠興が呟いた。

「実は、蔵に閉じ込められたときも、物の怪に襲われました。あの蔵が藤子姫さまの蔵だとお聞きし、はじめは藤子姫さまの亡霊かと怯えたのですが、あの香りを嗅いで……」


「杉じゃな」

「え」

 はるは目を見開いた。

「蔵でおぬしを襲ったのは、杉だろう。柊の香りがしたのは、蔵の後ろにある柊の香りが移ったのだ」

「蔵の後ろに、柊の木があるのですか」

「物事には必ず理由があるものよ」

そうかもしれない。御供衆に選ばれたとき、振って沸いたような幸運に恵まれたと言われたが、実は、高堂方の謀という理由があった。だが、あの蔵で、物の怪に襲われたと思ったとき、突然首を締め付けられるような痛みを感じたのは何故だったのだろう。

 ううと、忠興が呻いて、はるは我に返った。


「どうなされました」

 忠興の顔を覗き込むと、額にびっしょりと汗をかいている。

 はるは咄嗟に帯の間から懐紙を取り出し、忠興の額に当てた。

 静かに汗を拭かれると、忠興は笑みを含んだ目で、はるを見た。

「鏨以外にも持ち歩いているものがあるようじゃな」

「お加減は」

 はあと、忠興は大きく息を吐いた。

「痛みは引いた」

 そして首を回し仰向けになると、暗い天井をじっと見つめた。


「見られぬかもしれぬ」

「何をでございますか」

「おぬしがこの城から出陣する姿」

 はるは胸をつかれた。出陣は明日だ。忠興は夜明けまでもたないというのか。

「慈経さまをお呼びしましょう」

 立ち上がろうとすると、忠興に腕を掴まれた。

「待て、行くな。あれが来ても、もう何もできん」

 そして忠興は、力ない腕を上げると、顎をしゃくった。

 忠興の視線の先にあったのは、甲冑だった。忠興のものにしては、造りが小さい。その上、侍たちが着る鎧に比べると、胸の辺りに若干膨らみがあり、胴のあたりが細くなっている。


「もしや、わたくしのために」

 忠興が頷き、枕元に置かれた脇差をはるに差し出した。

「打刀は用意せなんだ。いくらおぬしでも、大ぶりの刀を使いこなすのは無理であろう」

 渡された脇差を、はるは恐る恐る受け取った。

「戦で鏨というわけにもいかないだろうて」

「はい」

 ほんとうに、自分は戦に行くのだ。その実感が湧いてきた。村で八吉や新太と遊んだ剣術の真似事ではない。ほんとうの戦が待っている。

「頼むぞ」

 忠興はそう言うと、目を閉じた。

 静かに寝息を立て始めた忠興を置いて、はるは寝所を出た。

 群青色の空に、細い月が出ている。



 翌朝、辰の刻(午前八時)、押野城を先発隊が出陣した。

 

 空は清々しく晴れ、風は切るように冷たい。

 踏みしめる足元では、霜の砕ける音がする。

 

はるは青之進とともに、精鋭部隊二百騎を率いて城を出た。はるの乗った馬の横には、旗印を抱えた兵が付き添っている。


 今朝、忠興による出陣の儀は、静かに行われた。国見城攻めは、ひそかに行われる作戦だった。太鼓を鳴らしたり、法螺を吹くのも、国見城に近い猪首峠を越えてからあらためて布陣した際に行われる段取りとなっていた。

 忠興は甲冑姿で皆の前に現れたが、誰の目にも、忠興のやつれようは明らかだった。だが、だとしても、忠興の口から、てる姫を総大将に据えると聞かされるとは思いもよらなかっただろう。

 

 忠興が姫大将と決定すると、城内はざわめきに包まれた。表方から奥まで、誰の口にも驚きと疑問の声が上がり、瞬く間に姫大将の知らせは城中を駆け巡った。

 はるは甲冑姿で忠興の傍らに控え、皆の驚いた顔を見つめるしかなかった。

 その中に、さちがいた。張られた陣幕の陰に、白く丸い顔が見える。

 さちは口を開けたまま、何か夢でも見ているような顔ではるを見ていた。明け方、はるの支度をしたのは、忠興付きの小姓だった。さちは後で、てる姫出陣を聞かされたのだ。


 ありがとう、さち。

 はるは心の中で声をかけた。

 わけもわからず飛び込んだ城の中で、いや、飛び込んだ「姫」という立場の中で、さちがいてくれてどれほど心強かったかしれない。もしさちがいなかったら、はるは青之進に黙って、城を逃げ出していたかもしれない。そう思う。


「てる姫は、我ら押野城の守り神である。姫をお守りして、皆、しっかりと励むよう」

 忠興の言葉が功を奏して、人々の同様は静まった。

 病身の忠興の代わりである大将は、お飾り。いってみれば、旗印と同じ。そう思った男たちは、ようやく納得したのだ。

 まさか、慣れない具足を身に付け、恥ずかしげにうつむいている女が、三度の刺客を、返り討ちもされず倒したとは知る由もない。


 忠興が退き、皆が解散し始めても、さちは同じ場所にたたずんでいた。祈るように、胸の前で手を合わせている。はるの無事を祈ってくれているのだろう。

 はるは涙をこらえるために顔を上げ、空を仰いだ。

 

 さよなら、さち。

 二度とこの城で暮らすことはないだろう。

 

 馬の準備ができたと小者に声をかけられて、はるは踵を返した。

 はるに用意された馬は、小ぶりだった。乗ってみると、国見城で馬丁の手伝いをしたときに乗った馬より馴染みやすい。

 忠興の心遣いが嬉しかった。馬丁の手伝いをしていたといっても、侍たちのように、普段から乗りつけているわけではない。戦に行くからと、気性の激しい馬をあてがわれては乗りこなせなかっただろう。


「なかなか堂に入った武者振りでございます」

 青之進が馬をつけてきた。今日、青之進ははるとともに出陣する。

 はるは緊張していた。体中が強ばっている。心は落ち着かず、まるで雲の上にいるような心地だ。

 坂道になって、はるを守るように進む足軽たちの長槍が、乾いた音を立て始めた。やがて、一行は山を下りきり、村に入った。ここからは街道を避け、変事のときだけ使う道をたどって、村はずれへ出る。

そこからは、猪首峠を目指して山に入る。


 はると話をするために、隊列から離れ、青之進が並んだ。

「斥候が国見城の様子を伝えてきています。国見城では、まだこちらの動きに気づいていないようです。城は静かなままだと」

「高堂様は」

 国見城に到着し、合戦になったら、高堂様の首は自分が取りたいとはるは願っていた。恐れ多いという気持ちは、もうない。

「いつもどおりのようです。丹野方にも動きはないと」

 猪首峠までは、往来が止められているという。行き来する者から押野城からの進軍を漏らさないためだ。

 

 猪首峠に到着後、あらためて陣立(じんだて)となる。評定で決まったとおりだ。

国見城攻めが決まってから、忠興を囲み評定が行われている。青之進も列座している。青之進は、国見城をよく知る者として、かかせない存在になっているようだ。


 峠から国見城までは約六里。一気に駆けて国見城の麓になだれ込み、出撃の合図を待つ。その間に、城主邑久に降参させ、無血開城を促すと評定では決定した。国見城にとっては寝耳に水の押野方の出現で混乱は必至、その上、てる姫大将とあっては、邑久は開城を拒むことはできないはずと、忠興は考えたという。

 よしんば、国見城から抵抗を受けたとしても、城まわりに張り巡らされた押野方の包囲網に打つ手はないと、青之進は確信を持って話してくれる。


「わたくしは、いつ国見城へ入れるのですか」

 戦、出陣と聞いて、馬で国見城まで駆け抜け、高堂様方と打ち合う覚悟でいたというのに、話が違うと、はるは思った。

「邑久さまが降参を決められたら、てる姫さまには城へ入っていただきます」

 青之進は慇懃に答えた。

「それで、高堂様の首は取れるのでしょうか」

「城を取ったのち、高堂様方は処罰されます」

 城を取った暁には、自分はてる姫の役を降りるつもりだ。いや、降りなければならない。国見城には、下働きだったはるを知る者が大勢いる。はるが姫大将でいられるのは、城へ入るまでなのだ。その前に、高堂様の首を取れる機会を見つけられるだろうか。

 

 隊列が峠道にさしかかって、青之進との話は中断された。ここからは急な坂道が続く。

 はるは馬の手綱をしっかりと握り締めた。



 猪首峠に到着すると、隊列は先発隊と合流し、休みを取った。

 異様な光景が広がった。森の中に、武者たちの絵が描かれたような静かな光景だ。大勢の武者たちが思い思いに体を休めているが、口を利く者は一人もいない。猪首峠からは物音を立ててはならないと、忠興からきつく言い渡されているからだ。

 

 諸隊の将に、国見城攻めの配置状が配られた。はるは後ろから二番目に進み、麓の村で分かれ、国見城の真向かいに位置する丘陵に陣取る手筈になっていた。

 やがて、先発隊が出発した。はると青之進の隊も続く。

 下り坂が緩やかになって、木々の隙間から麓の村が見え始めた。はるは胸を締め付けられるような懐かしさを覚えた。二度と戻れないだろうと覚悟していた故郷の村に、もうすぐ到着する。

 森が切れて、眩しい陽の光に照らされた。そろそろ時刻は四つになろうとしている。

 具足を付けた隊列の進軍に、村は騒然となった。野良で働く者たちが慌てて家へ駆け戻り、家々の戸は閉められた。

 黙々と、隊列は進む。

 空にそびえる神社の椨(たぶ)の木が見え始めた。梢が揺れている。鳥が飛び立つ。

 と、そのとき、前方から、馬が駆けてくるのが見えた。すさまじい勢いで、田の中の道をこちらへ向かって来る。

 味方の斥候だった。


「先発隊が城の手前で襲撃を受けました」

 馬から降りた斥候が、息を切らしながら、悔しげにはるを仰いだ。

「なんと」

 はるは嫌な予感に慄いた。邑久が忠興に反旗を翻したのかもしれない。

「国見城の者か」

 青之進が怒鳴りつけると、武者は激しく頭を振った。

「丹野方でござりました」

「まことか」

「間違いございません。旗印を確認いたしました故。丹野方が、村のそこかしこに潜伏している様子」

 斥候がそう言い放ったとき、隊列の右手の藪から、いっせいに鳥が飛び立った。その直後、獣の唸りのような叫び声が起こり、甲冑に身を包んだ武者たちが隊列に襲いかかってきた。

 馬が嘶き、辺りは火薬がはぜたような騒ぎになった。

 はるの馬も長槍に攻められて、嘶き暴れ出す。

「わあっ」

 自分の声とは思えない叫び声が、はるの喉から発せられた。うろがきた。甲冑に身を包んだ武者に、怯んでしまった。

「はる殿!」

 我を失った青之進が、てる姫と呼ぶのを忘れている。その気色ばんだ表情を見て、はるは冷静になった。

 帯の間の鏨を取り出した。忠興から脇差しは与えられたが、やっぱり慣れた武器のほうが使いやすい。


「うっ」

「ぎょえっ」

 かちりかちりと音を立てて、はるは槍を受け止め払う。

 そのとき、敵の中から声が上がった。


「その女、てる姫ではないぞ」

 瞬間、はるは息を詰め、まわりの味方を見た。味方の兵たちも、瞬間戸惑った目で、はるを見る。

「騙されるな。その女、てる姫の偽物ぞ」

 その間にも、はるは槍を鏨で払い、撃ち落としていた。姫とは思えない反撃の様子に、味方がざわめきだした。途端に、味方は劣勢になる。


「てる姫の偽物」

「姫大将は偽物」


 敵も味方も口々に喚き出した。

 馬の腹を蹴った。その間にも、長槍がはるをめがけてかかってくる。

「はっ」

「やっ」

 馬上で身を躱しながら、はるは揉み合う塊から抜け出た。

 馬の腹を蹴り続けながら、走った。後ろから、

「偽姫、待ていっ」

と、叫び声が追ってくる。

 前方からも、新たな敵が怒涛の勢いでこちらへ向かってきた。数は、四、五十といったところだろうが、わああという叫び声とともに走ってくる。

 はるは踵を返した。だが、背後にも敵。

 百姓家の裏に回った。垣根を越え、藁干しの竿をなぎ倒しながら進む。

「こっちだ」

「探せ」

 敵の声が迫ってくる。

 ふいに、はるの脳裏に、古いお堂が浮かんだ。

 目を閉じても歩けるほど知り尽くした村だ。たしかこの先の竹林の中に、古いお堂があったはず。


 馬を下り、はるは兜を脱ぎ捨て、馬の腹を叩いた。馬ははるを置いて、弾かれたように走り出す。

 敵の蹄の音が、主を失った馬の走る方向に向かったのがわかる。

 素早くはるは駆け出して、竹林を目指した。


 百姓家をいくつか通り過ぎ、畑のあぜ道を走った。畑に残った背の高い枯れ草が、かさかさと音を立てる。

 竹林は、明るい闇に包まれていた。飛び出た竹の根をまたぎながら進む。


 あった。人がようやく一人入れるほどの、小さなお堂。

 屋根や壁の板は剥げていた。参る者はいないのか、扉の前には、頭の欠けた地蔵がある。

 扉を開けると、真っ暗で何もなかった。はるは飛び込んで、身をひそめた。


 黴の臭いのする狭い箱に中で身を屈め、耳を澄ます。

 そう遠くないところで、人馬が行き交う音がした。

「探せ」

と、叫ぶ声も聞こえる。

 敵が去ったら、城へ向かおうと、はるは思った。たった一人になっても、城へ乗り込み、高堂様の首を取ろう。自分でも、なぜこんな大それた気持ちになるのか不思議だった。


 さっきのもみ合いを見たからだ。

 はるはそう思った。

 うろたえた青之進や足軽たちは、必死だった。方法も型もない。ただもみくちゃになりながら、敵の槍を防ぎ向かっていった。


 あれが戦なのだ。

 それなら、押野城で刺客を倒したときと変わらないと、思う。生きるために、ただ懸命に対峙する相手に向かう。

 それなら自分でもできる。一人でもできる。


 そのとき、軽い足音が響いた。


 誰か来る。

 はるは身構えた。どうか、お堂の扉を開けませんよう。

 だが、軽い足音は、お堂の前で止まった。

 ぱっと扉が開けられて、陽の光が差し込んだ。


「新太」

 目の前で目を見開いているのは、八吉とともに剣術遊びをしていた仲間、新太だった。村の子どもには立派すぎる短刀を腰に下げている。どうやら高堂方に雇われたようだ。

「お願い、黙ってて」

 はるはささやいた。戸惑う新太の顔に逡巡が走った。押野方の兵を見つければ、褒美が待っているのだろう。だが、新太が見つけたのは、仲良しのはる。

 新太は黙っていてくれるだろう。はるはそう見てとった。まだ子どもだ。手懐けるのはたやすい。


「いい子だから、ね」

 はるが言うと、幼さの残る新太の頬がふいに紅潮した。

「ここにいます」

 新太が叫んだ。

 はるはお堂を飛び出し、新太の鳩尾に拳を当てた。新太がぐったりと地蔵の横に倒れる。

 蹄の音と人の叫び声が激しくなった。


「いたぞ」

「こっちだ」

 竹林が幸いした。土の上に骨のように浮き出た根が、馬の走りをさまたげる。

 ただ、隠れる場所はなかった。瞬く間に敵の数は増え、はるを中心に、円を描くように取り囲んだ。


  一人、二人……、七人。


 終わりだ。


 いくらはるでも、七人の敵に取り囲まれて助かるとは思えない。

 敵はじりじりと間合いを詰めてくる。この中の誰かが一歩前に足を踏み出せば、はるは一瞬にして滅多刺しにされるだろう。

 

 張り詰めた緊張感とは裏腹に、竹林の中は美しかった。陽の光の中に、はらはらと細い葉が落ちていく。地面には、まっすぐな竹の影が、いくつもの四角い模様を作り出している。

 静かで穏やかな光景だった。


 村で死ねる。

そう思うと、案外心はざわつかなかった。

しかも、ここにいる誰もが、はるを偽てる姫だと知っている。

はるとして死ねるのだ。御供衆に加わる前の、ほんとうのはるとして死ねる。

 左手、槍を構えた男の一人が、

「やっ」

と声を上げた。だが、男は声を上げただけで、はるを睨んでいる。男の顔には、怯えがあった。はるの腕前を聞き及んでいるのだろう。


 と、そのとき、ぽとりの頭上から落ちたものがあった。雀だった。怪我をしている。おそらく猛禽に食われ損ない、空から落ちてきたのだ。

 雀は、もげた羽根のまま、懸命に起き上がろうとしていた。


 そんなに頑張っても、もう、命はないよ。

 雀に言ってやりたかった。それなのに、懸命に起き上がろうとする雀の姿は、はるの心をかき乱した。


 生きたい。


 死にたくない。


 いや、死ぬものか。


 はるは飛び上がって、頭上に垂れた竹の枝を掴んだ。男たちに緊張が走る。

「やっ」

 はるは竹の枝にぶら下がり、いったん体を曲げ、それから目の前の男の槍を足で払った。そのまま宙返りし、円陣の外側へ下り立つ。

「わっ」

 誰が叫んだのか、円陣が崩れた。

 はるは素早く落とされた槍を拾うと、かかってきた男の胸を突いた。


「ぎゃぁぁ」

 五本の槍がいっせいにはるに向けられた。はるは転がる。槍が地面に突き刺さる。

「やああっ」

 転がった先で、また槍がはるに向かってきた。それを右手に掴んだ槍で払いながら、左手で迫ってきた五人の一人を突く。後ろに倒れた男から五人が将棋倒しになった。足で男たちが落とした槍を蹴散らし、槍を払われ、覆いかぶさってきた男の胸に鏨を突き刺す。

「ぐうっ」

 断末魔の男の叫びに、一同がひるんだとき、はるは枝に捕まり、片足を幹にかけ勢いをつけると、起き上がろうとした男たちを蹴り倒した。

「わああぁぁ」

 男たちが一斉に倒れたとき、竹林の入口に、馬の蹄の音がした。


「はる殿」

 青之進の声だった。

「はる殿、どこです」

「ここです」

 はるは叫び、駆け出した。

 馬から降りた青之進が、こちらに向けて駆けてくるのが見えた。青之進は髻が乱れ傷だらけだったが、生き生きと目を輝かせている。

「国見城が落ちました」

 青之進は大声で叫んだ。

「国見城が、利賀方に落ちたのです」

「まことでございますか」

 体中から力が抜けていった。勝ったのだ。高堂様方に勝ったのだ。

 へたりこんだはるの頬に涙が流れた。


 青之進に手を取られた。

「国見城へ戻れるのです。我らの城へ」

 我らの城。

 はるは泣き笑いの顔を、青之進に向けた。

「わたくしの帰るところは、国見城ではありません」

「押野城へ戻るというのですか」

「まさか」

 はるは甲冑に手をかけると、脇腹の紐をほどき始めた。

「わたくしは村の家へ戻ります」

 青之進が頭を振った。 

「何を言うのです。そなたが姫の身代わりとなったこと、押野城で偽姫となったこと、咎め立てはされません。なんらかの形で、仕官が叶うはずです」

 はるは首を振った。甲冑を脱ぎ捨てる。


「お城は性に合いません。姫さまの暮らしをして、つくづくそう思いました」

 はるは竹林を振り返った。

「敵の武者たちが、竹林の中で倒れています。今は気を失っていますが、まだ生きている者もいます。どうなさるか、青之進殿がお決めください」

「敵は何名」

「七人です」

 青之進が大きく目を開いた。

「し、七人……」

 立ち上がったはるの腕を、青之進が掴んだ。

「はる殿、ほんとうに村の暮らしに戻るおつもりですか」

「はい」

 はるは歩き出した。もう青之進は追って来なかった。

 

 竹林を出ると、はるは慣れた道を歩いた。

 どかしくなって、途中から駆け足になった。


 八吉は仕事場にいるだろう。こつこつと音を立てて、石を削っているに違いない。

 そうに決まっている。剣術の真似事が好きで、腕が立つが、侍になろうなどと夢にも思わない、八吉。以前と変わらない静かな暮らしを続けているだろう。


 ふと鼻先に、桃の香りを感じて、はるは暮れかけた空を仰いだ。

 春が来るのだ。

 

                  了

追伸、つたない作品をお読みくださりありがとうございました。

   




 



 


 

 





 

 



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