第12話 最終回 中

 叩いても押しても、板戸は開かない。

 蔵の入口の板戸は、厚い木で造られているようだ。


 ここへ来るまでの道順を思い返す。厠の裏を走り、それからどうしたのだったろう。たしか、陽の光を左側に受けていた。ということは、北へ進んだのだ。雑木林に入った。そして蔵にぶち当たった。

 

 途方に暮れた。

 ここは使われていない蔵。そんな場所に、誰かが立ち寄るとは思えない。

 

 さちはどうしているだろう。突然姿を消したてる姫を探しているはずだ。湯殿の血の痕を見て、てる姫に大変なことが起きたとわかり、人を呼んでいるだろう。

 

 ここよ、ここにいる。

 

 そう叫びたかった。だが、叫ぶことはできない。そんなことをすれば、てる姫は口が利けると知られてしまう。


 青之進がいれば。

 はるは唇を噛み締めた。国見城へ偵察に出かけた青之進が帰ってくるのは、早くても夜だろう。いや、青之進が戻ってきても、この場所がわかるだろうか。


 いったい、誰が。

 蔵の入口の板戸が閉まったとき、一瞬人影を見たように思う。

 誰かが故意に板戸を閉めたに違いない。その誰かは、てる姫が城にいることを良しとしない者だろう。

 

 別の刺客がいたのかもしれない。倒した三人だけでなく、刺客はもう一人存在し、三人が倒れたのを見て、ここに偽てる姫を閉じ込めようと思ったのではないか。

 とすれば、その何者かは、ここへやって来るはずだ。止めを刺しに。

 

 その前に、この蔵から逃げ出さなくては。

 はるは首をめぐらして、蔵の中を眺めた。ようやく闇に慣れてきたが、闇の濃淡しかわからない。ただ、天井近くに扉が占められた窓が一つあり、かすかに光が漏れている。


 木登りなら得意だ。はるは登る方法を考えてみた。

 蔵に入ったときの記憶をたどれば、壁に沿って長持ちが積まれていたはずだ。あの長持ちを伝っていけば、窓の近くへ行けるんじゃないか。

 盲人のように両手で振りまわりを伺いながら、はるは立ち上がった。そのままそろそろと勘を頼りに進む。


「いたっ」


 長持ちの角に足をぶつけた。掌で長持ち表面を撫ででいくと、尖った角がわかった。角に沿って掌を動かし、高さと長さの検討をつける。

 足を載せ、体全体を持ち上げる。

「あっ」

 足元から、長持ちが大きな音を立てて崩れた。

「い、いたっ」

 床の上に転がってしまった。床に這いつくばって大勢を整える。

 

 と、目の端に何か動いた気がしてはるは後ろを振り返った。

 風が動いたのだ。


 何か、いる。

 

 目を凝らした。

 

 闇の濃淡を見据えていると、闇は生き物のようにこちらに迫ってくるかのようだ。


「ひゃあぁ」

 足首を掴まれた。咄嗟に足を蹴り上げる。

 足首に感じたのは、人の手だった。ところが、床の上には、何かが動く気配はない。

 はるは帯の間から鏨を取り出し、握り締めた。

 

 倒した侍が生き返ったのか? 

 あたふたと床を這いながら、検討をつけて入口へ向かう。

 

 入口の板戸の前には、侍が倒れていた。体をまさぐってみた。息はない。死んでいるのは間違いない。

 

 それなら、誰だ。


「あううっ」

 今度は髪を引っ張られた。肩に垂れている髪のひとつまみが、強い力で引っ張られたのだ。


 しゅっ。

 はるは咄嗟に腕を振り上げた。闇を切った。鏨は何者も捉えないまま、ただ闇を切った。

 

 そわり。

 

 頬に、何かが触れた。のけぞって、はるはふたたび鏨で闇を掻く。

「あ」

 ひらりと膝に落ちてきたものがある。

 手に取った。

 布切れだ。手触りのよい布切れ。

「これは――小袖」

 ほのかに、花の甘い香りがする。柊の香り。

 

 この香り。

 

 おぞけが走った。

 この香りは、てる姫が好んだ香りではなかったか。

 そのとき、木の軋る音とともに、窓が開き始めた。

 助けが来た。

 はるは跳ねるように立ち上がったが、瞬時に飛び込んできた熱気と赤い光に、頭を覆う。。


 火が投げ込まれたのだ。火は燃え盛りながらはるの足元へ落ちた。薪だ。布で巻かれたた薪に火がつけられている。

 火はすぐさま長持ちに燃え移った。周囲を明るくするほど、火花が舞い上がった。煙が立ち込め、炎で明るくなった蔵の中は、一瞬で白い煙に包まれる。

 咳き込みながら、はるは入口へ走った。広くもない蔵の中だ。このままでは、焼け死んでしまう。

 煙は容赦なかった。蔵の中に広がった煙は、はるを包む。


――てる姫さま。

 遠のく意識の中で、はるはてる姫のことを思った。

――わたくしをお許しください。

 どどどんという音とともに、入口の板戸が破られたとき、はるはうずくまって気を失いかけていた。



 朦朧とした意識の中で目を開けると、水を入れた桶を担いだ小者たちが蔵に水をかけていた。

 陽はすっかり暮れ、空には爪の先のような月が出ている。

 

 はるは誰かに抱かれていた。柔らかな肌のぬくもりが心地いい。


「てる姫さま」

 さちが心配そうにはるの顔を覗き込んでいる。

「お怪我は」

 はるは首を振った。起き上がって体を改めてみた。手の甲に擦り傷があった。まだ血が柔らかい。

「湯殿で賊に襲われたのですね。わたくしがおそばにいなかったばっかりに。香袋がどうしてだか見つからず……」

 さちは泣いている。

 ふたたびはるは懸命に首を振った。さちが置いた香袋を、刺客がわざとどこかへ隠したのだ。その隙を狙って、自分は襲われた。さちは何も悪くない。

「賊を見つけて、すぐにお探ししたんですよ。でも、どこへ行かれたのかわからなくて。まさか、藤子姫さまの蔵へおいでになっていたとは」

 

 藤子姫の蔵。

 

 合点がいった。あの蔵が使われていなかったのは、亡き藤子姫の遺品が置かれていたからなのか。

 では、あの白い小袖の布切れは、藤子姫のもの? そうは思えない。布切れには、  

 柊の香りがあった。あの香りはてる姫さまのもの。


「蔵から煙が上がって、火事だと誰かが叫んで。それで蔵のほうへ行こうとしたら、厠の裏から血の跡が続いていました。誰かが」

 騒ぎとなって皆が蔵へ行ってみると、血の雫が蔵の板戸の前で途絶えていたという。

「お城は大騒ぎになっています。湯殿で二人の賊が死んでいて、蔵の中でも一人……」

 よくご無事でしたと、さちは続ける。

「賊の正体はまだわかりません。おそらくどこかの浪人者だろうと言われていますが」

 浪人者。そうだろう。高堂様方に雇われたのだ。

 高堂様方の送ってきた刺客は、これで五人。五人とも倒すことができた。無我夢中というだけで、何の戦略もなかったが、目の前にはっきりと姿を現したのだから倒しようもある。

 だが、藤子姫やてる姫さまの亡霊はどうしたらいいのか。

 物の怪に、鏨では勝てない。


「殿」

 声が上がり、まわりの人々が一斉に道を開けた。忠興が人の輪の向こうに姿を見せた。

 忠興はまっすぐはるのもとへやって来ると、傍らに立った。さちが慌てて膝をつく。


「ひどい目に遭ったようじゃな」

 その目には、刺客と戦ったはるを気遣う光がある。

「養生せい」

 それだけ言うと、忠興は踵を返した。どうやら今宵のお床入りは免れたようだ。

「さあ、てる姫さま、参りましょう。まずはお召し替えを」

 さちに腕を取られて、はるは立ち上がった。体の節々が痛む。自分で思っていたよりも、体に負担がかかったようだ。

 ふらつく足で歩き出す。

 横を、はるが倒した侍の亡骸が運ばれていった。

 


 青之進が戻ってきたのは、はるが湯殿で襲われた翌日だった。

 翌日の昼方、はるのもとへやって来た青之進は、さちの目を盗んで、はるの耳元でささやいた。

「賊は三人だったとか。よくもまあ、無事で」

「今度ばかりは危ないところでした。なかなかの剣の遣い手ばかりで」

 五人もの刺客と戦ってみると、それぞれの剣の腕がはるにもわかるようになってきた。昨日の侍たちは、いままでより強かったと思う。剣の形などわかりはしないが、身のこなしが違ったと思う。


「忠興さまが驚いておられましたよ。つくづく姫にしておくのは勿体ないと」

 自分の腕の評価などどうでもよかった。それよりも、はるには懸念していることがある。


「どうされたのです」

 冴えないはるの顔色に、青之進が目を光らせた。

「昨夜、また見たのです」

「見たとは」

「物の怪です。間違いありません」

 そしてはるは、何者かによって、蔵へ閉じ込められたこと、その後、蔵の中で物の怪に襲われたことを伝えた。

「物の怪……。また亡霊が現れたというのですか」

「そうです」

 蔵で拾った小袖の布切れには、柊の香りがした。それは、てる姫さまの香りだった。


「てる姫さまの亡霊に襲われたとしか思えません」

「まさか」

「柊の香りがその証拠です。あの香りはてる姫さまのもの」

 神妙な顔つきになった青之進は、首をめぐらして辺りをうかがってから、続けた。

「三人もの刺客と戦い、そのあと、そなたは真っ暗な蔵の中にいた。だから、見えないものを見てしまったのでしょう」

 そう言われてみれば、そうも思えるが。

「国見城では動きがありました。七日後の新月に、高堂様方は邑久さまを倒し、丹野方に城を明け渡す計画です」

「え、七日後の新月に」

「闇夜に乗じて城を乗っ取るつもりです」

「その際、てる姫さまを担ぎ出す計画だったようですが、それはもう叶わぬこと。しかも、昨夜またしても、そなたの働きで偽てる姫の抹殺計画も失敗してしまった。高堂様方は、なりふり構わぬ覚悟でしょう」

「それで、忠興さまは」

「その前に、国見城を取るおつもりです」

 青之進は静かに言い放った。

「おそらく、この三日ほどのうちに、出陣となるでしょう」

「三日……」

 高堂様方に報いを受けさせるときが来たのだ。

「物の怪などに怯えている場合ではありません。本物のてる姫さまは、哀れでした。といって、そなたを恨む気持ちはないでしょう。恨むなら高堂様方を恨むはず。そなたは、まっすぐ拙者とともに、高堂様方を叩き潰すことだけ考えればよいのです」

「はい」

 頷いてみたものの、物の怪を見たときの恐ろしさは消えなかった。

「国見城への出陣の日が決まったら、すぐに知らせます」

 青之進はそう言うと、慌ただしくはるのもとを下がっていった。


 とうとう戦が始まる。

 国見城との戦は、信濃や甲斐の軍勢に備えるための前哨戦ではあるが、この戦で優勢にならなければ、次に来る大きな戦で、手の施しようのない痛手を受けるだろう。

 

 戦の準備の慌ただしさが、はるの暮らす奥にまで及び始めている。

 さちが言うところによれば、誰もが、着物の裾に火がついたような落ち着かない様子だという。


「ほんとうに戦が始まるのでしょうか」

 口が利けないはるから、返事が来るとは思っていないから、さちは独り言を呟いているのだ。

「噂では、近いうちだと。そのせいか、表の出入りが慌ただしいと」

そう言うさちの横顔は、いつもどおり穏やかで、本気で憂えているようには見えない。

 そんなものだろうと、はるは思った。自分だって、偽てる姫となる前は、本気で戦の心配をした憶えはない。村では、戦が始まると城に逃げたり、山へ隠れたりしたが、まだ幼かったはるは、親とともに右往左往していただけで、ほんものの恐怖を知らない。

 だが、今は違う。青之進からもたらされた知らせで、近くほんとうに戦があるとわかっている。だから、さちのように呑気ではいられない。

 といって、姫として暮らす自分に何ができるとも思えなかった。忠興は、てる姫との祝言を、信濃や甲斐に知らせた。国見城と手を結んでいると知らせるためだ。


 自分は、交渉のための道具。お飾りでしかないのだ。

 

 廊下で人の気配がして、さちが呼ばれた。侍女の誰かのようだ。

 話し声が途絶えると、さちが足早に戻ってきた。ほんの少し、頬を紅潮させている。

「今宵、お床入りとのことです」

 さちと目が合う。

 さちにとってもはるにとっても、城の外で行われる戦よりも、今宵のお床入りのほうが重要だ。


「昨日の今日で、お体が心配ですが、忠興さまたってのご要望とのことで」

 抗える話ではない。

 そうと決まると、昼方を過ぎてからは慌ただしかった。昨日の擦り傷の手当てをすると言ってきかないさちから、蒲(がま)の花粉を塗られ、その上にてぬぐいを裂いた紐をきつく巻かれた。

「見た目はよくありませんが、早く治ったほうが殿もお喜びになるでしょうから」

 夕餉のあとはお床入りへの準備が着々となされ、はるは人形のようにさちやほかの侍女に体をまかせた。

 

 今宵は、忠興より先に寝所へ入り、待っているようにと達しがあった。

「忠興さまはご評議で遅くなるとのことでございます」

 知らせてきた忠興付きの侍女に伴われて、はるは忠興の寝所へ先に入った。

 前回と同じように、忠興の寝所の天井には、死んだ鷲が何羽もぶら下がっていた。 

 今宵も、鷲たちは、行灯の光に照らされ、不気味な姿をさらしている。

 死んでいるとはわかっていても、鷲の虚ろな目が見張っているようで、褥の横で待つはるは落ち着かない。

 

 今宵こそは、あの鷲のような獰猛さで、忠興ははるを自分のものにするだろう。

――忠興さまとの間に、稚児を授かれば。

 そう言った青之進の声が蘇る。


 覚悟を決めねば。

 頭ではわかっていても、心がついていかない。


 行く末が恐ろしかった。御供衆に加わってからというもの、自分を風に揺れる木の葉のようにはるは感じている。

 

 静かな足音が近づいてきた。

 忠興だ。

 はるは顔を伏せたまま、体を固くした。

 と、足音は一人分ではない。襖が開けられると、忠興の後ろに見知らぬ男が控えてきた。


「ささ、お体を楽になされ」

 男は僧形だった。薬師をしているという慈経(じけい)という者だろう。

「なに、構わん」

 慈経に手を取られた忠興は、乱暴にその手を払い、どっかりと褥の横に座った。

「横になりませぬと、お体にさわりますぞ」

 そう言いながら、慈経は懐から何やら取り出した。小さなすり鉢のようだ。


「女」

 慈経が叫んだ。はるはびくりと顔を上げたが、慈経が呼んだのは、忠興付きの侍女だった。

 駆けつけた侍女に、慈経は白湯を頼んだ。その間も、指の長さほどのすりこぎをすり鉢の中で回している。

 侍女が湯呑みに白湯を持ってくると、慈経はすり鉢の中の粉を入れた。

「さあ、一気に」

 湯呑みを渡されて、忠興は顔をしかめたが、諦めたように飲み干した。

「変わらず苦い」

 そう言って忠興は、ようやく傍らのはるに目をやった。そこにはるがいるのを初めて気づいたように、目を見開く。

 はるははっと床に顔を伏せた。見てはいけないものを見てしまった気がしている。

「痛みがひどくなるようでしたら、またお呼びくだされ」

 慈経は言いながら下がっていく。

 はるは忠興と二人、薄暗い寝所に残された。



「昨日は見事じゃったな」

 慈経の足音が遠ざかると、忠興ははるに体を向けた。心なしか、忠興の声には力がない。薬を飲まされたほどだ。どこか具合が悪いのだろう。

「三人で襲わせるとは、高堂方もよほどおぬしを怖がっておるらしい」

「わたくしは、ただ無我夢中で」

 よいよい。そう顔の前で手を振って、忠興は大きく息を吐いた。

「無我夢中とは恐ろしいものよな」

 忠興の目が光った。


「青之進から国見城の様子は聞いておるな」

「はい」

 はるは俯いたまま、返事をした。

「次の新月に、丹野方が国見城を攻める。その手引きを高堂方がする。このまま手をこまねいておれば、国見城は丹野方に落ちる」

 はるは、邑久さまを思い出した。高堂様方の裏切りによって、あの方は、姫を亡くし、その上、城も無くしてしまうのか。青之進に言わせれば、愚鈍な殿らしいが、いくらこの時世とはいえ哀れだった。


「明後日じゃ」

 とうとう国見城へ向かう日が決まったのだ。

 はるは息をのんだ。

「戦になるであろう。邑久は素直に城を渡すであろうが、高堂方が丹野方の応援を得て抵抗するはずだ」

「はい」

「我らが押野方の軍勢は、二千、対する丹野方は約三千。しかも、国見城の半分は、高堂様方に寝返るかもしれぬ。厳しい戦じゃ」

「丹野方が駆けつける前に、こちらが国見城を制してしまえばよいかと」

 そうすれば、じゅうぶん勝算はあるはずだ。忠興は残酷非道と恐れられている男だ。そんな男が大将となって突き進む軍勢は、さぞかし統制が取れているだろう。馬も人も我先にと進み、国見城の者たちを驚かせるだろう。

 

 はははと、忠興が笑い声を上げた。

「さすが、五人もの刺客を倒しただけあって、頼もしい女子じゃな」

「先手必勝という言葉がございます。早く城を取り、寝返りをしようとする者の進路を防げばよいと思います」

「わしの考えも同じじゃ」

 忠興は笑みをたたえたまま、そう言い、それからひたと口をつぐんだ。

 黙った忠興は目を閉じ、微動だにしなくなった。行灯の揺れる光が、忠興の横顔を照らしている。

 はるは不安になった。何か、忠興の気に障ることを言ってしまっただろうか。出過ぎたことを言ったのではないか。自分は偽のてる姫。下働きの小女が何を言うと、そう思われたのではないか。

 忠興の目がかっと見開かれて、はるはびくりと体を震わせた。


「こういう戦は」

 忠興は言葉を噛み締めるように、ゆっくりと言った。

「大将が大事じゃ」

 頷きながら、はるはほっと胸をなで下ろしていた。忠興の逆鱗に触れたのではないらしい。

「ところが、この戦、我らの軍勢に大将がおらん」

 忠興は細く息を吐いた。

「この忠興が、どのようにしてこの押野城城主に上り詰めたか存じておろう」

 飛騨から嶮峻な山を削り流れてくる千疋川を、縦横無尽に行き来し、野盗を繰り返してきた集団がいた。その頭領だったのが忠興だと言われている。ある日、当時の押野城主が鷹狩りの際、急な大雨に見舞われ右往左往し、街道へ出る道に迷ったとき、道案内をかって出、無事城へ届けた縁で城主の覚えめでたく仕官が叶ったという。

「わしが十六の頃じゃ」

 忠興は遠くを見るように、目を細めた。

「仕官するとき、わしは仲間どもも引き連れていった。それが今、この城で大きな顔をしている重鎮たちよ。だが、元々野盗の集まり。城主を欺いてこの城を取ったところまではよかったが、そのあとは、戦の仕方がわからん者ばかりで」

 そして忠興は、はるを見つめた。


「わしは、戦に行けぬ」

「そ、それはいったい」

「行きたくても行けぬ。わしの体はもう言うことを利かん」

「え」

 はるはさっと、忠興の目の前に置かれた湯呑みを見た。慈経が飲ませた薬が入っていた湯呑みだ。

「忠興さま……」

 行灯の光が揺れる忠興の瞳が、かなしげに潤む。

「慈経に言わせれば、わしの臓腑には、いくつもの出来物があるそうな。その出来物が悪さをしながら増えて、わしを飲み込もうとしておると」

「そ、そんな」

「わしが皆を率いるのは、もう無理じゃ。馬にも乗れぬ」

 語尾が震えて聞こえたのは、はるの思い過ごしだったろうか。ふいに、強く腕を引っ張られて確かめようがなかった。

「はる、といったな」

 忠興の胸の中で体を固くしたまま、はるは頷く。

「偽とはいえ、姫となって祝言をあげた身。寝所に呼ばれないのが不思議であったろう」

 ぎゅっと、抱きすくめられた。

「偽であるが故に、遠ざけられたと思っていたか」

 忠興からは、苦い薬草の匂いがした。慈経が飲ませた薬の匂いだ。

「そうではない。偽かもしれぬが、おぬしは美しい女子じゃ」

 そして忠興は、はるの肩に垂れた髪に顔を埋めた。

「許せ。わしにはおぬしが抱けぬ」

 触れてみると、忠興は思っていたよりもずっと痩せていた。

 ずっと恐れていた男の体が、はるの腕の中で小刻みに震えている。



 どれぐらいそうしていただろう。

 行灯の火が消えかかっている。


「火を持ってまいります」

 はるは立ち上がろうとした。

 と、その手を引かれる。

「待て。火などよい」

 そして忠興はしっかりと体を起こすと、はるに向き直った。


「明後日の戦の勝敗はわからぬ」

 唐突に忠興は言い放った。

「大将がおらぬ軍勢は、烏合の衆と同じじゃ。丹野方が来るまではそれでも持つだろう。だが、もし一旦形勢が不利となったら、総崩れじゃ」

 それははるにも想像できた。戦は人がするもの。気の迷い、緩みが思わぬ失敗につながるだろう。

「気持ちが一つにならない軍勢は、弱い」

 はるは素直に頷いた。戦のことなどわかりはしないが、人の気というものは、しっかり集まると思わぬ結果を出せる。

 無我夢中で刺客に反撃したとき、自分の武器はそれだけだったかもしれないと、はるは思い返した。小さな穴を覗くときのように、気を集める。そうすれば道が開ける。

「そこでだ」

 忠興はまっすぐにはるを見た。

「わしの代わりになってくれんか」

 はるは目を見開いた。

「あの、どういうことでございましょう」

 忠興はおもしろそうに、笑った。

「言葉どおりだ。明後日の戦、おぬしがわしの代わりに大将になって国見城を取ってもらいたい」

 いったい、この殿は何を言っているのか。

 

 おそらく、病のために気がふれたのだ。自分が何を口にしているかわからないのだろう。

「お休みなさいませ」

 はるは優しく忠興の手を取った。

「火を持ってまいります。そのあと、わたくしは殿のおそばで夜を明かします。眠りません。殿がしっかりお眠りになれるよう見ております」

 ふふっと、忠興はまた笑った。

「信じぬな。気がふれておるのではないぞ」

 思いのほか冷たく忠興の目が光り、はるはごくりと唾を飲み込んだ。

「おぬしのその腕、この城に活かしてもらおう。そう言ったはずだ」

 憶えている。偽てる姫と知られたときだ。

「戦には、おぬしの持つ獣のような闘争心がいる。大将のいない烏合の衆を束ねられるのは、おぬしのような闘争心じゃ」

「わたくしの闘争心」

 たしかに、自分の武器はそれだけかもしれない。だが、戦となると、刺客一人一人と対峙するのとはわけが違う。

 

 はるの手が、知らずと自分の首に添えられた。戦では、誰もが首を取るのを目的とする。この首が斬られるかもしれない。そんな想像は初めてだった。

「この城のために、戦え。勝てば、国見城へ戻してやろう」

「まことでございますか」

 高堂様方に報いを受けさせたいとは願っていた。そのために、てる姫に化けたのだ。だが、それは、忠興率いる軍勢が、高堂様方を滅ぼすのを見たいがため。自分は奥で戦での勝ちを祈り、そして用済みとなれば、この城で朽ちるものと思っていた。 

 青之進もはっきり口にしたわけではないが、きっとそう思っているだろう。国見城を奪ってしまえば、もう、偽てる姫に用はないと。

「よいな。その腕、期待しておるぞ」

 行灯の火が消えた。代わりに、閉められた板戸の隙間から、かすかに明かりが漏れた。

夜が明けようとしているのだった。



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