第11話 八日目 最終回 上
第四章 八日目
白い女の亡霊に襲われてから、はるは眠れぬ夜を二晩過ごした。
ふたたび白い小袖姿の物の怪が現れるかもしれない。そう思うと、閉じた目はすぐに開いてしまう。青之進が国見城に偵察に行き、城にいないのも不安だった。
自分は一人なのだ。
しみじみとそう思う。
こんな不安な夜を過ごすくらいなら、いっそ忠興に寝所へ呼ばれたほうがましだ。
だが、偽物と知られてから忠興から呼ばれることはなかった。祝言を上げて、八日目。忠興が姫との床入りを果たしたのは、たった一晩。その一晩も、忠興とはる以外に知る者はいないが、ほんとうの床入りではなかった。
侍女たちの間では、はるの床入りがなされないことについて、噂が飛び交っているようだった。悪意のある噂だ。てる姫さまは忠興に嫌われているだの、藤子姫が忘れられない忠興は、てる姫さまを近づけようとしないだの。
さちに言わせると、噂の元は、杉殿だという。
「てる姫さまを苦しめるのが楽しいんですよ」
楽しい。そんな言葉では言い尽くせない怨念を、はるは杉殿から感じる。今、はるは、高堂様方の刺客と、杉殿の怨念と、そして本物のてる姫さまの亡霊に怯えている。
昼方を迎え、おだやかに一日が過ぎていくように思えた。朝方から降り出した雨がいつまでもやまず、暗いが、静かに時が流れていく。
さちが廊下をやって来た。心持ち、忙しない足音だ。
襖を開け、跪くと、さちは抑えた声で言った。
「今宵はお床入りでございます」
あっと、はるは心の中で叫んだ。とうとう来たのだ。青之進の声が蘇る。
――忠興様との間に稚児を授かれば
覚悟ができたかといえば、否だった。青之進に言われたことは正しいが、まだ覚悟はできていない。
ただ、予感はした。今宵こそ、忠興は自分を求めるのではないか。
まるで自分のことのように頬を紅潮させたさちに世話を焼かれて、はるは床入りの準備にかかった。
お清めの水垢離から始める。
「お寒いでしょう」
はるの体に水をかけながら、さちの声は弾んでいた。桶を持つ指先が寒さで赤くなっているのも気にならないようだ。
行水の水は冷たかった。だが、今宵のことを思うと、肌は妙に痺れたように感覚をなくしている。
行水を終え、湯殿で体を温めたあと、湯殿の隣の、格子戸で仕切られたひと間で召し替えをした。用意された白い小袖に袖を通す。
「あ、いけない」
腰紐を結びながら、さちが小さく呟いた。
「香袋がありません」
初めてのお床入りのときも持たされた香袋だ。
「ここに置いておいたつもりが……忘れたのかしら」
香袋を取ってきますと、さちが出て行った。口が利けたら、そんなものはいらないと言いたいが、姫である以上、香りを身に付けないわけにはいかない。
一人で準備を進めた。ほんとうなら、さちを待つべきなのだろうが、はるは手を動かした。
人の手を借りて召し替えをするのにはどうしても慣れない。つい、自分で動いてしまうはるに、初めさちは戸惑ったようだが、いまではずいぶん慣れたようだ。
さちにとって、姫付きの侍女となるのが初めてだったのも幸いした。杉殿のような老獪な侍女だったら、何を言われたかわからない。
それに。
はるは思った。
自分でやれば、自分を守る鏨を隠し持てる。
はるは、そっと帯の間に鏨を挟み込んだ。忠興は、はるが鏨を隠し持っていることを知っている。
鏨を挟み、垂れた髪をゆるく紐で結わえても、まださちは戻って来なかった。
どうしたのだろう。香袋が見つからないのか。
そう思った瞬間、はるは鳩尾を掴まれるような緊張を感じた。
おかしい。
何かある。
耳を済ませた。聞こえるのは、雨の音と、湯殿で湯気が作った雫が、石の上に落ちる音だけ。
さっと、はるはしゃがみこんだ。
格子戸に、人の影が立ったのだ。さちではない。もっと背丈がある。
男だ。
そして、影が増えた。
一人、二人。三人の男の影が近づいてくる。
三人……。
心ノ臟が激しく打ち始めた。
高堂様方は、三人もの刺客を同時に寄越したのか。こんな小娘一人に三人も。
息を詰めて、はるは帯の間から三本の鏨を取り出した。
ぎゅっと握り締めて、瞬間目を閉じる。祈った。すると、激しかった動悸が収まった。
格子戸がゆっくり開き始めた。
はるは徐々に、後ろへ下がる。
湯殿の戸は開いている。そこから湯気が流れてきている。
何者かのつま先が、開いた格子戸から現れた。
外側に開いたつま先。
裸足の親指が、床板を握るように曲げられている。
続いて、二人目と三人目のつま先が覗く。
侍たちだった。三人共、黒い頭巾を被っている。
乾いた音が一斉に響き、刀が抜かれた。
はるは湯殿に飛び込んだ。湯気を払いながら、奥へ進み、湯気を出す石の裏側に飛び込む。
どどどっと、刺客たちが走り出し、続いて湯殿に飛び込んできた。それから、ふと立ち止まった。
湯気が黒い男たちの姿を、見せては隠し、隠しては浮かび上がらせる。
ぴたり、ぴたり。
天井から湯気の雫が落ちた。
はるがしゃがみこんだ目の前の床の上にも、雫は落ちては弾ける。
「やっ」
勢いよく腕を振り上げ、先頭にいた侍の刀が、はるが隠れた石に向かってきた。
「はっ」
はるは転がって、刀を避けた。水汲み用の桶が大きな音を立てて転がる。
「成敗じゃ」
一人の侍が呟き、ふたたび刀を振り上げてきた。
「やっ」
はるはまた転がる。
すぐさま、別の侍の刀が振り下ろされた。寸でのところで避け、はるは掴んだ三本の鏨の一本を、手前の侍に向けて投げた。
「はっ」
呻いた侍が脇へどく。
からんと鏨が石の上に落ちた。外したようだ。
三人は徐々に間合いを詰めてきた。相当の剣の使い手だろう。いままでの二人の刺客とは、気配が違う。
静かなのだ。それでいていままでにない強い殺気を感じる。
両手に一本ずつ鏨を握り締め、胸の前で構え、はるは腰を低くした姿勢で三人と向い合った。
じりじりと、両端の侍二人が動き始めた。
一人の侍を中心として、はるを囲むつもりか?
はるは瞼の水気を二の腕で拭った。水気は湯気なのか汗なのかわからない。
一斉に、侍たちの刀が振り下ろされた。その瞬間、はるは転がった桶を、右端の侍に向けて蹴り上げた。桶は湯気を払いながらくるくると回転し、右端の侍の刀に当たる。
「うっ」
侍が体勢を崩した。はるは腰を屈め、その場で回転した。回転しながら、残り二人の侍の腹に鏨を流す。
「ぎゃっ」
血しぶきが舞った。はるは二人の背後に滑り込んだ。石の上に乗り、ふたたび胸の前で鏨を構える。
「許さん」
腹を抑えながら、中央の侍が呻いた。はあはあと息を切らしながら、はるはふたたび瞼にかかった水気を拭う。
「冥土へ送ってやる」
真ん中の侍が、叫びながら刀を振り上げた。それを交わし、前へ飛び上がる。残り二人の侍が刀を振り上げる寸でのところで、はるは両手を大きく広げて二人の喉を突き上げる。
「ぎやぁああああぁ」
「ぐぁああああぁああ」
凄まじい叫び声が上がり、二人ががくりと膝をついた。
呆気に取られ、立ちすくんだ真ん中の侍の目に瞬間怯えが浮かんだが、すぐさま憎悪の光に代わった。
「うぉお」
振り上げられた剣先を交わし、また交わし、湯殿の中を、はるは這い回る。湯気が渦を巻く。
「はははは」
侍が笑い出した。引き攣った顔のまま、乾いた笑い声を響かせる。
はるは湯殿を飛び出した。
廊下に出ようとしたところで、
「何事だ」
と、奥で叫ぶ声が響いた。
急遽、踵を返す。
厠の後ろを通り、庭へ出た。
「はるさまああ」
と、さちの叫び声も聞こえ始めた。
侍は追いかけてくる。雄叫びを上げながら追いかけてくる。
雑木林に入った。庭の隅らしい。もっさりと葉をつけた木々が、暗い一角を作っている。
枝を避けながら闇雲に進むと、ふいに、白い壁に行く手を塞がれた。
蔵だ。使われていない蔵のようで、入口の板戸は半分開いたままだ。その中へ飛び込もうとして、後ろに危険の気配を感じた。
「やっ」
蔵の中へ転がり込んだ。どすどすと足音を立てて侍も後に続く。
蔵の中は闇だった。ただ一筋、入口の板戸の隙間から差し込む光の帯があるだけその帯を避けて、はるは逃げた。
「ははっ」
侍はまた笑った。ひりつくような声だ。
はるは息を殺して床に這いつくばり、侍の気配を伺う。
目が慣れてきた。天井の黒い梁が見え、無造作に積み上げられた長持ちも見える。
そう大きな蔵ではないようだ。誰か個人の持ち物を保管している場所なのだろう。それが、今は使われていない。
はるは両手の鏨を強く握り締めた。瞼にかかる水を首を振って払った。もう、湯気ではない。汗だ。
光の帯に、埃が舞っている。侍の姿は見えない。侍の足が床をこする音だけが聞こえる。
かたりと音がして、そのあとに、しゅるしゅると床を滑る音が続いた。床の上を何か黒いものが走り去っていく。
鼠だ。
その音に、侍は身を翻して、刀を振るう。
背後に隙が出来た。はるは光の帯に飛び出し、侍の背中に鏨を突き立てた。
「うぐっ」
呻き声とともに、侍が振り返った。突き立てた鏨を抜き、その瞬間、もう一本の鏨を侍の脇腹に突き刺す。
「お、女子……」
はるは転がりながら、足先で侍の腕を蹴り上げた。刀が中を舞い、床に落ちる。
刀は蔵の入口に近い場所に落ちた。拾おうと、侍が懸命に這う。だが、もう、侍は虫の息だった。はるは狙いをつけて、しっかりと侍の背中に一撃を見舞った。
「ぎゃう」
奇妙な呻き声とともに、侍は動きを止めた。
死んだ。
はるは呆然と、横たわった侍を見つめた。頭巾を被っているせいで顔は見えなかったが、床に投げ出された腕からは、若さが感じられた。刀を掴もうと伸びた指は、ごつごつとして太い。はると同じように、野良で働いている男の指だった。強い相手だったが、刺客となったのは初めてだったのかもしれない。
この侍も捨石だったのだ。
ふいに、はるはたまらなくなった。こんなことをして、どれほどの意味があるだろう。自分を陥れた高堂様方は憎いが、その高堂様にたどり着く前に、自分は何人、人を殺めなくてはならないのか。
足元にぞわりとする違和感があった。はるは総毛立って、足元を見た。さっきの鼠だった。咄嗟に鏨で床を突き刺そうとして、はるははっと鏨を見つめた。
鏨には血がついている。
恐ろしくなった。自分は強くなっている。だが、慣れてきてもいる。
そのとき、蔵の入口が瞬間陰った。顔を上げると、板戸が閉まりかけている。
え。
慌てて入口に向かったが、容赦なく板戸は閉まり、はるを深い闇が包んだ。
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