第10話 六日目

           六日目


 次の刺客はいつ来るのか。

 

 国見城からの侍女とお守り役の襲撃から三日が経った。


 刺客の影に怯えながら、はるは過ごしている。

 城は不穏な空気に包まれていた。はるたちが暮らす奥には知らされていないが、この三日、表方の城詰めの侍たちが殺気経っているのが伝わってくる。城の南側に新しく土塁が築かれているとか、馬が買われたとか、様々な噂が飛び交っていた。それでも侍女たちは呑気なもので、さちなどは、

「いったい何の騒ぎでしょう」

などと、明るい調子で言う。さちにしたところで、そのうち大きな戦になるとはわかっているが、まさか、それが目前に迫っているとは予想だにしていない。

 

 今日は庭で花を摘み、その花を床の間に活けるのだと告げられたはるは、朝露の雫を払って菊の花を切り花器に活けた。城の庭にある菊は、はるが初めて見る菊だった。はるが知っていた野菊よりもふた回りも大きく、色も鮮やかだった。

 床の間に飾られた花の前で、型に沿った茶を飲み、老侍女がやって来て、姫としての心得を聞かされると、空は群青色に沈み、膜が降りるように夜がやって来た。

「お床を敷きます」

 夕餉が終わったあと、さちは膳を片付けながら言った。どことなく、元気がない。

理由は察せられた。さちは、忠興からはるが寝所へ呼ばれないのを気に病んでいるのだ。その証拠に、花を活けながら、二度、

「姫さまのほんとうのお役目は、縫い物や花を活けることではございません。忠興さまのお子を産むこと」

と、言った。

 

 一度の床入りの夜以来、忠興からは呼ばれていなかった。この城へ輿入れして、六日。その間に忠興から声がかからないのは、侍女たちからすればやきもきさせられるのだろう。病で死んだという藤子姫付きの侍女、杉殿は、藤子姫が死んで力を失った。はるが忠興の子を産めば、さちたちてる姫付きの侍女の待遇は大きく変わるのだ。

 褥の上に夜着を置くと、掌で布の表面を撫でてから、さちは呟いた。

「忠興さまがてる姫さまをお呼びにならないのは、何かわけがあるように思います」

 何を言い出すのだろう。

 はるはさちの顔を見た。

 どうせ、はるからの返事はない。そう思っているからか、さちはときどき胸のうちをこぼす。


「杉殿が」

 そう言って、さちはちらりと後ろを振り返ると、襖の向こうに人の気配がないか確かめた。

「杉殿が何やらしていると、わたくしたちの間では噂になっております」

 はるは目を見開いた。

 いったい、杉殿が何をしているというのだろう。

「お城の艮(うしとら)の方角に、小さな神社があるんです。村のはずれです。邪な願い持つ者が集う神社だと昔から言われている場所で、杉殿がその神社にお参りをしているのを見た者がいます」

 目を瞠っているはるに、さちは頷いてみせる。

「夜半に城を抜け出して、お参りしているらしいんです」

 はるは首を傾げてみせた。

「藤子姫を蘇らせるよう、祈っていると」

 まさか。

「殿がてる姫さまをお呼びにならないのはそのせいじゃないかと、そう言う者もおります。杉殿の祈りが通じて、藤子姫さまが蘇り、殿の寝所に現れているんじゃないかと」


 初めてのお床入りのとき、廊下に杉殿がいた。そのときのさちの驚きようは、こんな理由があったのだ。

 さちはぶるると体を震わせ、続ける。

「見た者がいます。寝所の前の廊下で、藤子姫らしき姿を見かけたと。白い小袖を着ていたそうです」

 闇の中に浮かぶ、白い小袖。はるもぞっとして、思わず両腕で体をくるむ。

 すると、さちは、はるの肩を抱いてくれた。

「ご心配なさることはありません。藤子姫の亡霊が現れた暁には、わたくし共が必ずお守りします」

 国見城から刺客と、藤子姫の亡霊。

 

 この城から生きて出られるだろうか。

 

 はるは目を閉じ、唇を噛み締めた。



 夜半過ぎに、目が覚めた。

 さちがあんな話をしたせいか、恐ろしい夢を見て、目覚めたとき、はるはびっしょりと背中に汗をかいていた。

 

 静かだった。虫の声はもうなかった。この城に来たつい六日ほど前は、庭で歌っていた虫たちも息絶えてしまったのか。

 

 尿意を感じて、はるは起き上がった。

 

 手燭に火を入れ、そろりと襖を開け、厠へ向かった。厠は廊下が途切れた先、庭にいったん降りたあと、飛び石が置かれた通路を進んだ先にある。

 ツワブキのつるつるとした葉が、飛び石に沿ってはびこっている。手燭の火が、その丸い葉を浮かび上がらせる。ほかは、闇だ。子の刻は過ぎただろうか。一日のうちでいちばん闇が深くなる頃。

 

 厠の戸を開けたとき、はるはかすかな音を聞いた気がした。するすると、人が廊下を滑り歩くような音。

 なんだろうと、一瞬はるは足を止めたが、もう音は聞こえなかった。代わりに、風がひと吹きし、厠の板戸が軋む。

 もう、体が冷えてきていた。秋は急速に深まりつつある。

 と、板戸に手をかけたとき、ふたたびさっきと同じ音がした。

 はっと振り返って、はるは胸の帯紐に挟んだ鏨に手を添えた。刺客かもしれない。そっと体を低くして、廊下のほうへ目を凝らす。

 あ。

 思わず声が出そうになって、はるは鏨に添えていないほうの手で口を抑えた。


 廊下は庭に面して、鈎の手に曲がっている。その曲がった先に、人の姿が見えた。

 はるは咄嗟に手燭の火を消した。しゃがみこんで、目を細める。見えた、はっき り。女だ。空からの乏しい月の光に、女の姿が浮かび上がっている。


 白い小袖を着ている。


 ということは。


 あれは、藤子姫か。


 さちが言っていたではないか。藤子姫を見た者がいると。

 白い女の姿は、徐々にこちらに近づいてきた。ふわりふわりと、鳥の羽根が流れていくのに似ている。物の怪かもしれない。そう思ったとき、ふいに白い女は獲物を見つけた獣のように、速度を速めてこちらに向かってきた。こちらを向いた女は、面をつけている。面頬(めんぼお)と呼ばれる、戦のとき侍が被る面だ。その黒い顔が、こちらに向かって進んでくる。

 高堂様方の刺客に対面したときとは別の、魂を揺さぶられるような恐怖がはるを襲った。面頬の顔の表情はわからないが、女からは強い殺気――いや妖気かもしれない-―を感じる。

 女ははるの目の前まで来ると、ひらりと袖を振り上げて、はるに向かってきた。瞬間、女の胸の前で何かが光った。

 

 短刀だ。


 はるは咄嗟に身を翻し、飛び石の上を転がった。

 短刀が振り上げられ、はるに向かう。交わしたはるのすぐ脇で、短刀の鋭い刃が地面に突き刺さる。はるは転がりながら、刃を避けた。ざっざっと刃が地面から抜かれては向かってくる。

 鏨を取り出し反撃しようとしたが、うまくいかなかった。女から発せられる妖気に、腰が引けている。

 いつのまにか、庭の端へ来ていた。刃を避けて転がると、南天の実がばらばらと落ちた。

 はるはよくやく鏨を手にした。そして反撃しようとした瞬間、首筋に激痛が走った。

「ううう」

 何が起きたのか。首が締め付けられるように苦しい。首のまわりには、何者の手もなかった。それなのに、首は締め付けられる。


 見えない何かが首を締め付けている。

 だ、誰か。

 青之進。

 叫び出したいが、声を出すわけにはいかない。

 背筋に冷たい汗が流れた。

「てる姫さま」

 厠のほうから声が上がって、目の前の女の動きが止まった。

 意識が遠のき、はるは深い闇に落ちていった。



「てる姫さま、てる姫さま」

 

 遠くから声が聞こえる。

 

 てる姫さまを呼んでいる声だ。

 侍女が呼んでいるのだろうと、はるは思う。

 

 てる姫さまはどこだろう。

 許されるなら、てる姫さまのお顔を見たいと思った。あの美しいてる姫さまのお顔。輿入れ道中のとき、間近で見たあのお顔をもう一度眺めてみたい。

 

 強く肩を揺すられて、はるは細く目を開けた。目の前に、青之進とさちが、心配そうな顔をしてはるの顔を見ている。

「びっくりいたしました。こんなところで倒れられて」

 視線を流して辺りを見た。どうやら夜が明けかけているようだ。厠へつながる廊下に、朝の弱い光が差している。

「今は何刻ですか」

「六つになったところで」

「六つ……」

 辺りは静かだった。まだ鳥も目覚めていないのか。

「さ、まずは冷たい水を」

 青之進に言われて、さちは台所へと駆けていく。

 はるは朦朧とした意識の中、青之進に聞いた。

「どうしたのでしょう」

「どうしたもこうしたも。庭で倒れていたのですよ。それでこちらまで運んだのです」

「庭で」

 話すうちに、記憶が蘇ってきた。

「刺客ですか」

 青之進は声を低めて言った。

 はるは首を振る。

「夜半に厠へ起きたのです。そのとき」

 白い小袖を着た女を見かけたと話した。

「女」

「はい。それが、姿形は女でしたが、どこか奇妙で」

「奇妙というのは」

「人ではなかったように思うのです」

「人ではないとは」

「ふわりふわりと、まるで中に浮いたように動いて」

「物の怪か」

「わかりません」

 はるは言いながらぞっとして、唇を噛み締めた。

「顔は見たのですか」

「いいえ。面を被っていました。面頬を被っていたのです」

「なんと、面頬を」

 青之進は驚いて、そして考え込んだ。

「なぜ、そんなものを被っていたのか」

「しかも、女は襲ってきたのです。短刀で」

 青之進の目が光った。

「誰だろう。まさかほんとうに物の怪ではないだろうが」

 

 はるは辺りをうかがって、いっそう小声になった。

「物の怪ではないと言い切れません……」

「なんです」

 はるは言い淀んだ。口にするのすら恐ろしい。

「白い小袖を召されるのは、藤子姫だけだと思います」

 青之進が目を見開いた。

「藤子姫というのは、忠興さまの初めの姫さまですか」

「そうです」

 そしてはるは、昨夜さちから聞いた話を伝えようとした。だが、湯呑に水を入れてさちが戻って来たために、口をつぐむ。

「さあ、てる姫さま」

 さちから湯呑を受け取り、喉を潤すと、生き返った心持ちがした。


 

 朝の仕事をするために、さちが台所へ下がっていった。

 姫さまの警護を忠興からまかされている青之進は、庭で姫さまを見守るとさちには告げてある。

 庭の軒下でしゃがんだ青之進は、先ほどの話の続きを待っていた。


「この城に、藤子姫さまの亡霊が出ると噂されているそうなのです」

 青之進が眉を寄せる。

「たしか、藤子姫はご病気で亡くなられたとか」

「そうです。この城に輿入れなさってから、たった二年で。まだ十四という若さだったそうです」

 そして、藤子姫付きの侍女だった杉殿が、藤子姫を蘇らせるために、村の神社で祈っていることを告げた。

「奥の者たちが噂をしているようです。わたくしが忠興さまの寝所に呼ばれないのは、藤子姫さまの亡霊が邪魔をしているのではないかと」

「亡霊……。ではそなたが昨日見た白い小袖を着た女というのが」

 はるは頷いた。

「そんな気がします。あれは、どう考えても、生身の人のようには見えなかった。皆が言っているように、藤子姫さまの亡霊が、わたくしと忠興さまとの仲を裂こうとしているのかもしれない」

 はるは細く息を吐いて、俯いた。

「そんな噂が出るのは、そもそも、忠興さまがわたくしを寝所にお呼びにならないからです」

 呼ばれないほうが有難かった。だが、姫側の者たちにとっては、心配の種だったのではないか。

「拙者もそれは気になっていました」

 青之進もはる同様、忠興が偽物を呼びたくないだろうと納得していた。だが、それだけではないかもしれない。もし、ほんとうに、藤子姫の亡霊が忠興にとり憑いていたとしたら。

 

 さちが朝餉の膳を抱えてやって来て、青之進との話は中断した。青之進は下がっていったが、朝餉が終わる頃、ふたたびはるの前へやって来た。

 目を剥いて、険しい表情だ。

 いったい、何があったのだろう。

 さちが片付けものをするために下がると、青之進はすぐさまはるの部屋に上がり、ささやいた。


「てる姫さまが、お亡くなりになりました」

「え」

「たった今、丹野方に潜ませている者が戻って来て、知らされました」

 青之進は高堂様方の情勢を探るために、忠興の命で人を雇っていたという。塩を商う者で、国見城の奥へ出入りさせていたらしい。

「どうしてです。どうしててる姫さまが」

 美しいてる姫の横顔が蘇った。あの無垢な横顔。

「ご自害なさったようです。腰紐で首を絞めて」

「なんと」

 にわかには信じられなかった。

「どこで、ご自害を」

 青之進から聞かされていた。てる姫さまは、高堂方がどこかに匿っていたはずだ。

「丹野城に近くに、丹野様が鷹狩りのときだけお使いになる館があるそうです。てる姫さまはそこに匿われていたようなのですが」


 それでと、はるは話を促す。

「輿入れ道中の途中で、隠れるように言われ、何も聞いていなかったてる姫さまは、半ば強制的にその館に連れて行かれたようです。おそらく、ほんのわずかな間のことだと言い含められていたのでしょう。ところが、館に連れて行かれてから六日。輿入れもなく、匿われたまま。父親である邑久さまに文を送ることも許されなかった。まだ、高堂様方では、てる姫を行方知れずのままにしておきたいからです」

 辛かっただろう。偽物となった自分も過酷な日々だったが、本物のてる姫さまにとっても絶望的な日々だったはずだ。

「どうやら最後は……」

 青之進は言葉を詰まらせた。

「ご自分の腰紐で首をくくられたようです」

「え」

「お気持ちの動揺が激しかったからでしょう。お館では、懐剣を取り上げられていたようです」

 懐剣は姫が輿入れの際に、身につけていく短刀だ。

「無念だったでしょう。てる姫さまのようなご身分の方にとって、腰紐で己の首を絞めるのは屈辱であられたはず」

「そんな。そんな、まさか」

 昨夜の苦しさが、蘇った。首を締め上げる痛み。そう。あれはまさに紐で自分の首を締め上げているかのようだった。


「あれは……」

 呆然とはるは呟く。

「どうなされた」

 はるの取り乱し様に、青之進が訝しげな目を向けた。

「昨夜の亡霊は、藤子姫ではありません」

 語気を強めたはるの唇に、青之進が、

「しっ」

と、人差し指を当てる。

 辺りに人がいないのを確かめて、青之進は続けた。

「どういうことです」

「きっと昨夜わたくしの前に現れたのは、てる姫さまの亡霊です。姫さまの無念が、現れたのです」

「てる姫さま……」

 青之進には納得がいかないようだ。

「なぜ、てる姫さまだと」

「わたくしが気を失ったのは、女に襲われたからではないのです。ふいに首を締め上げられたからなのです」

「首を」

「はい。何か紐のようなもので締め上げられるような苦しさで」

「紐で締め上げられるような苦しさ……」

 青之進も呆然と呟く。

 はるは両手で顔を覆った。

「てる姫さまはわたくしを恨んでおられるでしょう。ぬけぬけと姫に成りすましているわたくしを。だから、ああしてわたくしの前に姿を現したのではありませんか。きっとそうです。偽物のわたくしを恨んで」

 恐ろしかった。ふいに現れる高堂様方の刺客よりも、はるにはてる姫の怨念のほうが恐ろしい。

 もう、この城にはいたくない。強くそう思った。刺客に殺されてもいい。偽物であるのをやめて、この城から抜け出せるなら。

「ああ、恐ろしい」

 突っ伏したはるの肩を、青之進が引き上げる。


「はる殿、しっかりしてください。そなたは高堂様方に報いを受けさせ、村へ帰るのではないですか。次に起きる戦で忠興様が勝てば、我らは大手を振って戻れるのですよ」

 高堂様方の刺客なら反撃できる。だが、この世のものではないものにどうやって勝つというのだろう。

「気をしっかり保つのです。てる姫さまが亡くなられて、高堂様方がどのような策に出られるか探ってきましょう」

「国見城へ行くのですか」

「忠興様のお考えです。信濃や甲斐で、軍勢が集められ始めたと噂になっています。忠興さまが国見城と手を結んで、どのように高堂様方と対するか、丹野方を滅ぼすにはどうすべきか、早急に策を練らねばなりません。そのためには」

 青之進ははるの手を取った。

「物の怪などに怯えてはなりません。てる姫さまが亡くなられた今、いちばん大切なのは、そなたが本物のてる姫になることです」

「本物の……」

 はるは即座に首を振った。

「無理です、青之進さま。ほんの十日ほどの間と仰せられたのをお忘れですか。その間なら、なんとかなると思いました。でも、本物のてる姫になるのは無理です」

「無理ではありません」

握られた手に、力がこもった。

「忠興さまとの間に、稚児(ややこ)を授かれば」


「え」

 はるは青ざめた。

「わたくしに、忠興さまのお子を産めとおっしゃるんですか」

 青之進は大きく頷いた。

「稚児を授かれば、そなたは押しも押されぬ本物のてる姫さまとなります」

 青之進は下がり、はるは一人部屋に残された。

 たった今、青之進から言われた話に、心が震えている。忠興との間に子どもを産めなどと……。そんな恐れ多いことが許されるだろうか。

 明るい朝の陽射しが強くなった。はるは眩しさに目を細め、そっと息を吐いた。



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